第十七話 春の幻影
昭和六十三年 春。
東浜システムズ工業の両角清志は、ようやく叶った夢の暮らしに満足していた。
前年、清志は身の丈に合わぬ55年ローンを組んで、家族とともに念願のマイホームを手に入れたばかりだった。
立地は決して良いとは言えなかった。
最寄りの吉祥寺駅まで行くには、バスを乗り継いで30分以上。
通勤にも買い物にも不便だったが、そんな悩みもすぐに吹き飛ぶ朗報が舞い込んできた。
――このあたりに新しい鉄道路線が敷かれる。
――吉祥寺支線計画が始動するかもしれない――。
その噂に、両角は心から安堵し、笑顔を浮かべた。
駅ができれば交通の便は劇的に改善される。
そして何よりも、土地の資産価値が跳ね上がる――まさに、先行投資の勝利だと確信していた。
ところが、そんなある日。
昼休みの喫煙室で交わした何気ない会話が、地獄の入口となった。
「なあ、山神……吉祥寺支線の話、ほんとに進んでるんだよな?」
コーヒー片手に問いかけた両角に、山神誠夫は一瞬、微妙な表情を浮かべた。
「ああ……うん。まあ、実はさ」
ぽろり、と何かが剥がれ落ちるように、山神は口を滑らせた。
「この前、千田議員の個人秘書から依頼されてさ……あの“支線計画”、うちの資料部が図面作ったんだよ。
全部“架空”だけどな。現実には何も決まってない。でっち上げだよ、言ってしまえば」
その瞬間、両角の笑みが消えた。
顔の血の気がすっと引いていくのを、山神自身も見て取った。
「あ……いや、その、冗談だよ、冗談。あはは」
無理に笑いながら、山神は手元の煙草を消すと、
「さて、仕事仕事……」と気まずそうに呟いて、喫煙室を出て行った。
残された両角は、その場に立ち尽くした。
希望だった“支線”は、絵に描いた餅どころか、仕組まれた幻想だった。
この家も、人生も、その幻想の上に築かれていたのか――。
だが、その“現実”と向き合う時間すら、彼には残されていなかった。
その日の午後、両角は変電所のメンテナンス作業中に事故に遭い、命を落とした。
接触不良を起こした旧式の高圧機器が、一瞬にして彼を吹き飛ばしたと報告書には記されている。
その報せが山神のもとに届いたのは、翌朝のことだった。
「……あいつ、本気で信じてたんだな……」
手元のコーヒーが妙に苦かった。
それは、でっち上げられた線路の先に横たわる“一人の人生”の重さを、わずかに実感させる味だった。




