第十六話 書いたのは、誰か
東屋でのひとときが終わり、老婦人たちはそれぞれにゆっくりと帰っていった。
蝉の声は、さっきよりも幾分弱まり、午前中の暑さも少し和らぎ始めている。
諒一は帰り道、コンビニで麦茶を買い足し、商店街を少し回り道してから家に戻った。
玄関先に人の気配を感じて顔を上げると、そこにいたのは――圭子伯母だった。
「おかえり、諒ちゃん」
「え……伯母さん?」
「ふふ、ちょっと寄ったのよ。おばちゃん、久しぶりに五郎ちゃんの顔も見たかったから」
母・深雪と並んで立つ圭子は、昔と変わらぬ笑顔だった。
諒一にとって、父・五郎の姉である圭子は、“もう一人の母親”みたいな存在だった。
五郎を溺愛し、同じように諒一にも甘く、なにかとお菓子や小遣いをくれた。
「姉さん、晩飯食ってってくれよ」
五郎の一言に、母・深雪もすかさず加勢する。
「せっかくだから、ご飯にしましょ。夕方は一緒に飲みましょうよ」
すっかり“家族の時間”となった食卓の上に、冷奴、アジの南蛮漬け、夏野菜の味噌汁が並ぶ。
圭子は箸を進めながら、ふと思い出したように五郎に顔を向けた。
「ねえ、五郎ちゃん――」
その言葉には、ふと空気が引き締まるような重みがあった。
「……もしかして、あの支線計画の古地図、あなたが書いたんじゃない?」
一瞬、五郎の箸が止まった。
諒一も反射的に顔を上げる。
「……え?」
「だってあなた、**あの頃、よくお父様の書斎に入り込んでは、古い資料とか地図とか眺めてたじゃない。
支線計画図案っていうタイトルの資料、私も一度だけ見たことがあったのよ。
細い赤線で“仮想ルート”って書かれてて……あれ、子どもの落書きかと思ったけど、丁寧にトレースしてたの、たぶんあなただと思うの」
沈黙。
五郎は箸を置き、ビールをひと口すすった。
「……ああ。あれ、たぶん俺だよ」
言葉は、あまりにもあっさりと。
「えっ? 本当に!?」
諒一が思わず声をあげると、五郎は照れくさそうに笑って言った。
「だってさ、親父――お前のじいちゃんの書斎ってさ、小学生にはまるで宝の山みたいだったんだよ。
地図、計画書、新聞の切り抜き、ぜーんぶ棚に整ってて。
で、たまたま“未公表支線ルート案”って資料を見つけて、真似して地図帳にトレースしたの。
赤鉛筆でな。下手くそな字で“第八倉地”って書いたのも、その資料にちょこっとメモが残ってたから」
「……それって……もしかして、図書館に残ってた地図……?」
「ああ、俺、あれ無くしたと思ってたんだけど……多分、親父が保存してて、亡くなった後にどっかに寄贈されたんじゃないかな。
だって、じいちゃん、図書館の後援会に入ってたろ?」
真実は、あまりにも自然なところにあった。
架空の支線図――それは、少年だった五郎が、父の書斎で偶然拾った“幻の資料”を写し取ったものだった。
「じゃあ、あの図は……いたずらとか妄想じゃなくて、本当にあった計画の痕跡なんだね……」
圭子がそっと言った。
「ええ、だからこそ、気になったの。あの地図、捨てられていなかったことが、今、きっと意味を持ち始めてる」
諒一は、心の奥で何かがほどけていくのを感じていた。
あの赤い線は、ただの子どもの空想じゃなかった。
記憶のトレースであり、時代の忘れ形見だった。
過去と現在が、一本の細い線でつながっていた。
その線をたどることで、諒一はもうひとつの“自由”を見つけようとしていた。




