第9話
ベアトリス様の宮殿には微かな変化の兆しが訪れていたものの、王宮からの冷遇は相変わらずだった。
特に、セシリア皇妃からの圧力は、水面下で着実に続いていたように感じられた。
しかし、私にはまだ、その真の目的が見えていなかった。
私の日々の務めは、ベアトリス様が少しでも心安らかに過ごせるよう、宮殿の隅々まで気を配ること。
そして、彼女が自ら心を語り出すまで、静かに寄り添い続けることだった。
(ベアトリス様が、完全に心を開いてくれるまで、私は決して諦めないわ)
そんなある日の朝、宮殿を激しい騒音が揺らした。
遠くから聞こえる怒鳴り声と、何かが砕けるような音。
私は驚いて、すぐにベアトリス様の部屋へと向かった。
彼女の部屋の扉は開け放たれており、中から複数の人の声が聞こえてくる。
「何をしているのですか!勝手に他人の私室に踏み込むなど、許されません!」
ベアトリス様の、普段からは想像もできないほどの、激しい声が聞こえた。
その声には、怒りよりも、強い恐怖と戸惑いが入り混じっているようだった。
部屋に飛び込むと、私は息をのんだ。
そこには、数人の見慣れない役人が、ベアトリス様の私物を乱暴にひっくり返していた。
書物が床に散乱し、花瓶が倒れて水が広がり、まるで嵐が通り過ぎた後のようだった。
彼らは、王室の紋章が入った腕章をつけており、どうやら正規の役人のようだった。
その中心には、セシリア皇妃の側近と思われる、口元のきつい中年女性が立っていた。
彼女の視線は、ベアトリス様を蔑むように見下ろしている。
「第二皇妃ベアトリス殿下。王宮の財産管理部門からの通達です。あなたは長らく、国庫からの援助を不当に受け、遊興にふけっているとの密告がありました。よって、王室の財産である私物を一時的に差し押さえ、調査を行うことになりました」
中年女性の言葉は、冷たく、そして容赦なかった。
その目は、ベアトリス様を罪人のように見下ろしており、一片の慈悲も感じられない。
「何を馬鹿なことを!私は決して、そのようなことは…!」
ベアトリス様は、顔を青ざめさせ、震える声で反論した。
しかし、彼女の言葉は、役人たちには届かなかった。
彼らは、ベアトリス様が大切にしていたであろう調度品を、次々と運び出していく。
その中には、ベアトリス様が唯一心を許しかけていたあの絵本をしまってあった小箱も含まれていた。
その小箱は、年季が入っていたが、彼女が幼い頃から大切にしていたことがわかるほど、丁寧に磨かれていた。
(こんな横暴が許されるはずがないわ!これは、セシリア皇妃の差し金に違いないわ!)
私は、すぐに状況を理解した。
これは、ベアトリス様をさらに追い込むための、セシリア皇妃による嫌がらせに他ならなかった。
彼女の目的は、ベアトリス様の地位を完全に失墜させることにあるのだろう。
役人たちが、小箱を乱暴に持ち上げようとしたその時、私は思わず体が動いた。
「お待ちください!」
私は、彼らの前に立ちはだかった。
役人たちは、突然のメイドの介入に驚き、動きを止めた。
中年女性が、私を鋭い視線で睨みつけた。
「無礼者!身分をわきまえなさい、メイド風情が!」
彼女の声は、氷のように冷たく、私を威圧するようだった。
しかし、私はここで引くわけにはいかない。
あの小箱は、ベアトリス様が唯一心を許しかけていた、あの絵本をしまってある場所だった。
「この小箱だけは、ベアトリス様が大変大切にされているものです!どうか、これだけは、乱暴に扱わないでください…!」
私の言葉は、震えていたが、強い意志を込めていた。
しかし、中年女性は嘲笑を浮かべた。
「たかが箱一つで、何を騒いでいるのだ。これも王室の財産である。無駄な抵抗はやめなさい。さあ、どきなさい!」
役人たちが、私を押し退けて小箱を奪おうとしたその時、私は小箱を両腕でしっかりと抱きしめ、身をかがめた。
役人の一人が、私の腕を掴んで無理やり小箱を奪い取ろうとした。
しかし、私は決して手を離さなかった。
掴まれた腕に痛みが走る。
それでも、私は小箱を離さなかった。
それは、ただの箱ではなく、ベアトリス様の心の拠り所だったからだ。
私の腕は、まるで鉄のように硬く、小箱を守ろうと必死だった。
「離してください!これは…これはベアトリス様の、何よりも大切な…!」
私が必死で抵抗していると、さらに別の役人が私の肩を強く掴み、引き離そうとした。
その衝撃で、私はバランスを崩し、床に倒れ込んだ。
しかし、その時も、私は小箱を離さなかった。
私の体が、小箱を覆い隠すように倒れ込んだのだ。
床に強く打ち付けられ、腕に激痛が走った。
それでも、小箱は無事だった。
ベアトリス様は、私の行動に目を見開いていた。
彼女の顔からは血の気が失せ、その瞳は、恐怖と、そして信じられないものを見たかのような驚きに満ちていた。
中年女性は、苛立ちを露わにした。
「無駄な真似を!これ以上抵抗すれば、お前も不敬罪で…!」
その時、宮殿の入り口から、冷たい、しかし聞き慣れた声が響いた。
「そこまでにしろ」
現れたのは、リオネル王子だった。
彼は、いつものように感情の読めない表情で、部屋の様子を一瞥した。
彼の視線は、散乱した部屋、そして床に倒れ込み小箱を守る私、そして青ざめたベアトリス様の全てを捉えていた。
中年女性は、慌てて姿勢を正した。
「リオネル王子殿下!これは、王宮の財産調査の一環でございまして…」
リオネル王子は、彼女の言葉を遮るように冷たく言い放った。
「私の許可なく、この宮殿でそのような騒ぎを起こすことを、誰が許したのだ?母上からの指示とあるが、それが私の許可なく行われることと、何ら関係はない」
彼の言葉には、有無を言わせぬ絶対的な力が宿っていた。
中年女性の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
リオネル王子は、一歩前に進み出ると、私の横を通り過ぎ、床に倒れている小箱に視線を向けた。
そして、私の方へと視線を移した。
その瞳には、一瞬だが、測りかねる光が宿っているように見えた。
彼は、私の腕に残る赤くなった掴み跡に気づいたようだった。
「…この騒ぎは、これで終わりだ。調査は、一旦中止とする。全ての品を元に戻し、二度とこのような不手際がないよう、厳重に申し伝える」
リオネル王子の言葉に、役人たちは慌てて動き出した。
彼らは、私物を元の場所に戻し始め、壊れた花瓶も片付けられた。
中年女性は、顔を真っ青にして頭を下げ、足早に部屋を後にした。
あっという間に、部屋は元の状態に戻され、再び静寂が戻った。
しかし、そこに漂う空気は、先ほどまでとは全く異なっていた。
リオネル王子は、私を一瞥すると、何の言葉も発することなく、ベアトリス様の傍らに歩み寄った。
そして、彼女に短く何かを告げ、すぐに部屋を後にした。
彼の足音は、宮殿の廊下に吸い込まれていった。
残された私とベアトリス様。
彼女は、まだその場にへたり込んだままだった。
私は、ゆっくりと立ち上がり、床に落ちていた小箱を拾い上げた。
小箱は、私の必死の抵抗のおかげで、無事だった。
「ベアトリス様…お怪我はございませんか?」
私が声をかけると、ベアトリス様はゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳は、恐怖と混乱に満ちていたが、その中に、これまでにないほど強い感謝と、戸惑いの感情が渦巻いているのが見て取れた。
彼女の視線は、私の腕の赤い跡に留まった。
「ロゼ…貴女は、なぜ…そこまでして…」
彼女の声は震え、私を訝しむようだった。
しかし、その声には、確かに私を案じる気持ちが込められているように聞こえた。
彼女が、自分のために誰かが傷つくことに、心を痛めているのが伝わってきた。
「ベアトリス様にとって、大切なものですから。私にとって、貴女様は、この宮殿での唯一の光です。だから、お守りしたかったのです」
私は、偽りのない気持ちを告げた。
彼女が、少しでも心の安らぎを得られるなら、この程度の怪我など、どうでもよかった。
ベアトリス様は、私の言葉に目を見開いた。
彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
それは、悲しみだけでなく、深い驚きと、そして温かい感情の涙のように見えた。
彼女は、ゆっくりと震える手を伸ばし、私の手を取った。
その手は、以前のような冷たさではなく、温かい熱を帯びていた。
そして、私の腕に残る赤い跡を、指先でそっと撫でた。
「…ロゼ」
彼女は、私の名前を、初めて感情を込めて呼んだ。
その声は、震えていたが、温かさに満ちていた。
その声が、私と彼女の間に、新たな、そして深い絆が生まれたことを示していた。
このトラブルは、私たち二人の心を、より深く結びつけるきっかけとなったのだ。
凍てついていたベアトリス様の心の扉が、今、確かに開いたように感じられた。
(これで、少しだけ、ベアトリス様の心に触れることができたわ。私自身の居場所も、少しだけ、確かなものになった気がする)
私は、ベアトリス様にとっての「大きな鳥」になることを、改めて心に誓った。
そして、この宮殿で、私自身の新しい道を切り開く決意を新たにした。
リオネル王子の視線の意味は、まだ私には分からない。
ただ、彼の介入が、間接的に私たちを助けたことは確かだった。




