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第8話

ベアトリス様との間に芽生えた小さな信頼の光は、日を追うごとにその輝きを増していった。

以前は絵本を読むことさえ稀だった彼女が、今では私に物語の続きをせがむようになり、時には、絵本にまつわる幼い頃の思い出を訥々と語ってくれることさえあった。

その思い出は、たいてい悲しく、胸を締め付けられるものだったが、彼女が私に心を開いてくれている証拠だと感じた。

彼女の口から紡がれる言葉の一つ一つに、これまで抱え込んできた孤独や悲しみが滲み出ていたが、私と分かち合うことで、その表情はほんのわずかだが和らいでいくように見えた。

(ベアトリス様は、少しずつだけど、心を開いてくれているわ。まるで、閉ざされた蕾が、陽光を浴びてゆっくりと花びらを広げるみたいにね)

彼女が語る母の思い出は、どれも温かく、その中に幼い頃のベアトリス様の無邪気な笑顔が見えるようだった。

亡き母の愛情に包まれていた頃の彼女は、きっと無邪気で、好奇心に満ちた子供だったに違いない。

私自身の両親を失った悲しみと重なり、私たちは言葉なく、ただ互いの存在を分かち合うことが増えた。

私は、ベアトリス様のために、故郷ロゼリア王国で伝わる子守唄を小さな声で歌って聞かせることもあった。

その歌声は、遠い記憶の彼方から呼び覚まされたかのように、この宮殿の静寂に優しく響き渡った。

その歌声に、ベアトリス様の表情が和らぎ、静かに目を閉じる姿を見ると、私の心は温かくなった。

彼女が、ほんの束の間でも安らぎを感じてくれていることが、何よりも嬉しかった。

宮殿の雰囲気も、目に見えて変わり始めていた。

私が手入れを始めた庭園には、希望の花の小さな芽が、風に揺られながら少しずつ成長していた。

以前は雑草に覆われていた地面も、私が丁寧に手入れをすることで、少しずつ息を吹き返し、緑の絨毯を広げ始めていた。

冷たく閉ざされていた窓は、私がこまめに開け放つようになり、新鮮な空気が宮殿の奥まで流れ込むようになった。

淀んだ空気が入れ替わるたびに、宮殿全体が深呼吸をしているかのように感じられた。

年老いた使用人たちも、以前よりほんの少しだけ口数が増え、私に微笑みかけるようになった。

彼らの目には、この宮殿の変化に対する微かな期待が宿っているように見えた。

私への警戒心も薄れ、時には、彼らがかつてこの宮殿で過ごした穏やかな日々の思い出を語ってくれることさえあった。

その話は、ベアトリス様が幼い頃の、明るく活気に満ちていた宮殿の姿を私に教えてくれた。

そんな中、リオネル王子がこの宮殿を訪れる頻度は、確実に増していた。

彼の来訪は、依然として唐突で、目的も定かではなかった。

彼はベアトリス様の部屋に立ち寄ることもあれば、ただ宮殿の廊下を歩き、窓から庭を眺めることもある。

彼の行動は、相変わらず掴みどころがなく、私には理解できなかった。

彼の視線は、常に冷静で、私が読み取れる感情はほとんどなかった。

(王子様は、この宮殿の変化を、どう思っているのかしら。ベアトリス様が、少しずつ元気になっていることに、気づいているのよね)

ある日の午後、私が庭園で希望の花の芽に水をやっていると、リオネル王子が私の背後に立っていた。

彼の足音は、いつも驚くほど静かで、気づくとそこにいる、ということが多かった。

まるで、幽霊のように突然現れる彼には、まだ慣れない。

「…随分と、変わったものだな」

彼の声は、いつものように感情を読み取れない響きだったが、その視線は、私が手入れをした庭園に向けられていた。

彼の瑠璃色の瞳が、注意深く庭の隅々まで見つめているのが分かった。

私は、彼が庭の変化に気づいたのだと思い、内心で喜びを感じた。

私の努力が、少しでも報われた気がしたのよ。

「はい、ベアトリス様が、少しでも穏やかにお過ごしいただけるようにと、少しばかり手入れをさせていただきました」

私がそう答えると、リオネル王子は何も言わず、ただ庭を見つめていた。

彼の瑠璃色の瞳が、私が植えた小さな芽に、ほんのわずかだが、留まったように見えた。

その視線には、庭の生命力に対する純粋な好奇心が宿っているように思えた。

まるで、珍しい植物でも観察するかのような、冷静な視線だった。

(彼は、ベアトリス様が、少しずつ前向きになっていることに、気づいているのね。私がこの宮殿にもたらした、良い変化を認めてくれているのだわ)

私は、彼がベアトリス様の変化を気にかけているのだと解釈した。

彼の目的は、ベアトリス様の状況を確認することなのかもしれない。

そうであれば、私の努力が、彼の目にも留まったということになる。

それは、私にとって大きな励みだった。

しかし、私が部屋に戻り、ベアトリス様のために淹れた紅茶を運んでいると、再びリオネル王子が姿を現した。

彼は、ベアトリス様の部屋ではなく、なぜか私のいる給仕室の入り口に立っていた。

その日の彼は、いつも以上に静かで、その存在自体が、給仕室の狭い空間を圧迫するかのようだった。

「おい、メイド」

彼の声に、私はびくりと肩を震わせた。

彼が、私に直接話しかけてくること自体、珍しかった。

しかも、給仕室で、二人きりの状況は初めてだった。

「はい、王子殿下」

私は慌てて頭を下げた。

手のひらにじんわりと汗が滲む。

「お前が淹れる紅茶は、以前と味が違うな」

彼の言葉に、私は戸惑った。

以前、彼がこの宮殿で紅茶を飲んだことなど、ほとんどなかったはずだ。

もしかしたら、私が来る前に、この宮殿に派遣されたメイドの淹れた紅茶と比べているのかもしれない。

王子の言葉の真意が掴めず、私はただ困惑するばかりだった。

(まさか、私が以前いた場所で、紅茶を淹れているところを、一度でも見たことがあったのかしら。でも、あの時は、会話すらしたことないはずなのに。それに、彼はそんな些細なことまで覚えているものなの?)

私は、彼が「以前のメイド」の淹れた紅茶と、私の淹れた紅茶の違いを言っているのだと解釈した。

もしかしたら、私が来る前に、この宮殿に派遣されたメイドの淹れた紅茶と比べているのかもしれない。

あるいは、単に王宮内の他のメイドの紅茶と比べているのかも。

王族が使用人の仕事ぶりを細かく観察していることは、珍しいことではない。

「恐縮です。ベアトリス様のお好みに合わせ、茶葉の種類を変え、淹れ方も工夫しておりますので。もし、殿下のお口に合わないようでしたら、すぐにでも調整させていただきます」

私はそう答えた。

リオネル王子は、何も言わず、ただ私の手元にある紅茶のポットに視線を向けた。

その視線は、紅茶そのものに対する専門的な興味のように見えた。

彼は、紅茶の淹れ方に何か疑問があるのだろうか。

あるいは、使用人の技術力を試しているのだろうか。

彼の表情からは、相変わらず何も読み取れない。

「…そうか。精々、励むことだ」

そう言い残すと、彼は踵を返し、ベアトリス様の部屋へと向かっていった。

彼の足音は、すぐに宮殿の廊下に吸い込まれていった。

その場に残された私は、しばらくの間、彼の言葉の真意を測りかねて立ち尽くしていた。

(彼は、メイドの仕事ぶりにも、細かく目を光らせているのね。さすがは王子の視点だわ。この宮殿の状況を、常に把握しようとしているのだろうか)

私は、リオネル王子が、宮殿の使用人の仕事ぶりを細かくチェックし、その質にも気を配っているのだと感心した。

彼の厳しさの裏には、この王宮をより良くしようとする、真摯な姿勢があるのかもしれない。

そうであれば、彼がベアトリス様に寄越された私に、何らかの期待を抱いているのかもしれない。

そんな風に、私は彼の行動を前向きに解釈した。

彼の私への興味には全く気づかず、ただ仕事への評価だと受け止めたのだった。

私の頭の中は、ベアトリス様の変化と、宮殿の改善のことばかりだった。

ベアトリス様の宮殿は、ゆっくりとではあるが、確実に変化を遂げていた。

閉ざされていた扉は、完全に開かれたわけではないけれど、ほんのわずかな隙間から、光が差し込んでいる。

そして、その光は、やがてこの宮殿全体を、そしてベアトリス様の心を、温かく包み込むだろうと、私は信じていた。

この小さな変化の積み重ねが、いつかベアトリス様の地位回復へと繋がることを願って、私はひたむきに務めを果たし続けた。

私には、この場所で、ベアトリス様を支え、彼女の真実を探り、そして、私自身の新しい道を切り開く使命がある。

その使命が、私を突き動かす原動力となっていた。


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