第6話
ベアトリス様と絵本を通して心が通じ合ったあの夜から、私たちの間には、確かに新しい空気が流れ始めた。
以前と変わらず、彼女は寡黙で、多くを語ることはなかったけれど、時折、絵本を読み終えた後に私へ向ける視線に、ほんのわずかな温かさを感じるようになった。
その変化は、まるで凍てついた湖面に、春の陽光が差し込み、小さな氷の粒が解け始めるかのようだった。
私は、ベアトリス様の心の氷を、少しずつでも溶かしていけることに、静かな喜びを感じていた。
(これで、本当に、私の居場所を築けるかもしれないわ)
そんな希望を胸に、私は毎日を過ごしていた。
ベアトリス様の世話をするだけでなく、宮殿の隅々まで磨き上げ、庭の手入れも始めた。
荒れ果てていた庭園に、故郷で見た希望の花の種を蒔いた。
いつか、この寂しい宮殿にも、美しい花が咲き誇ることを願ってのことだった。
ある日の深夜、私は奇妙な物音で目を覚ました。
ベッドから体を起こし、耳を澄ます。
遠くから聞こえる、かすかな話し声と、何かが引きずられるような音。
この宮殿に、私たち以外に人がいる気配などなかったはずなのに。
不審に思い、私はそっと部屋を出た。
(まさか、侵入者…?)
私の心臓が、激しく脈打った。
故郷の王宮が襲われた時の記憶が、脳裏をよぎる。
あの日のような悲劇を、二度と繰り返してはならない。
私は、音のする方へと、注意深く足を進めた。
暗闇の中、冷たい大理石の床が、裸足の足裏にひんやりと触れる。
廊下の奥から、わずかな光が漏れているのが見えた。
光の元へと近づくと、それはベアトリス様の私室から漏れ出ているものだった。
私は、そっと扉の隙間から中を覗いた。
そこで見た光景に、私は息をのんだ。
部屋の中には、リオネル王子がいた。
彼は、ベアトリス様のソファの傍らに立ち、手に持った古びた地図を広げていた。
その表情は、いつもの冷徹な仮面が剥がれ落ち、どこか焦燥と苦悩に満ちていた。
彼の口元からは、低い声が漏れている。
「…このままでは、間に合わない。
もう、時間がないんだ」
彼の声は、普段の冷静さとは異なり、微かに震えていた。
その声には、深い絶望と、何かへの焦りが混じっていた。
ベアトリス様は、ソファに座ったまま、リオネル王子を見上げていた。
彼女の表情は、いつも以上に青ざめており、その瞳は、恐怖に揺れていた。
彼女は、首を横に振った。
「無理よ、リオネル。
もう諦めるしかないわ。
誰も、この状況を覆すことなんてできない」
ベアトリス様の声は、震え、か細く、絶望に満ちていた。
彼女の言葉からは、何か大きな、絶望的な状況に直面していることが伝わってきた。
そして、彼女の視線は、リオネル王子が広げている地図の一点に向けられていた。
その場所は、かつて私が住んでいた、ロゼリア王国の旧領地だった。
(ロゼリア王国…?なぜ、この二人が私の故郷の地図を見ているの?)
私の胸に、疑問と、そして強い不安が押し寄せた。
私の故郷は、すでに滅びた国のはずだった。
その地図を、なぜアストライアの王子と皇妃が見ているのか。
しかも、こんな夜中に、秘密裏に。
リオネル王子は、苛立ちを隠せない様子で、手に持った地図を強く握りしめた。
「諦めるだと?そんなことは許されない!この国は、まだ希望を失っていない。
母上は、そう仰られた。
我々が、最後の希望なのだと…」
「母上」という言葉に、私は再び耳を疑った。
彼が指す「母上」とは、セシリア皇妃のことだろう。
しかし、セシリア皇妃は、ベアトリス様を冷遇し、リオネル王子をベアトリス様の元へ送り込んだ張本人のはず。
その彼女が、この状況にどう関わっているというのか。
そして、リオネル王子は、なぜこれほどまでに感情を露わにしているのか。
彼の言葉の端々から、彼が抱える重圧と、深い使命感が伝わってきた。
ベアトリス様は、顔を覆い、すすり泣いた。
「…もう、うんざりだわ。
これ以上、私に何をさせたいの?私はもう、何も持っていない。
何もできないわ…」
その声は、絶望の淵にいる者の叫びのように響いた。
彼女の姿は、まるで嵐の中で力尽きようとしている小さな船のようだった。
私は、彼女の悲しみが、決して演技などではないことを確信した。
リオネル王子は、そんなベアトリス様に、強く言い放った。
「まだだ、ベアトリス!まだ、終わりではない!お前には、まだやるべきことがあるはずだ。
この国の未来のために、そして、お前自身の誇りのために…」
彼の言葉は、厳しいながらも、どこかベアトリス様を鼓舞しようとするかのような響きがあった。
しかし、ベアトリス様は、ただ震えるばかりだった。
私は、これ以上ここにいるべきではないと判断した。
二人の会話は、私にはまだ理解できない、しかし非常に重要な秘密を含んでいるようだった。
特に、ロゼリア王国の名前が出たこと、そしてベアトリス様とリオネル王子が、何か大きな問題に直面しているらしいこと。
これらが、私の心を強く揺さぶった。
(もしかして、ロゼリア王国は、まだ完全に滅びていなかったの?それとも、彼らが言っているのは、故郷の、別の何か…?)
自室に戻った私は、興奮と不安で眠れなかった。
リオネル王子とベアトリス様の秘密の会話。
そして、あの地図。
全てが、私自身の故郷と、深く結びついているように思えた。
そして、ベアトリス様が抱える悲しみが、私が絵本から感じ取っていたものよりも、はるかに深いものであることを知った。
私は、ベッドの中で、静かに考えを巡らせた。
これまで私は、自分の身を守ることだけを考えていた。
故郷を失い、身分を偽り、ただひたすらに平穏な日々を願っていた。
しかし、今、私の目の前で、この国の王族が、私の故郷にまつわる秘密を抱え、苦悩している。
そして、ベアトリス様は、私と同じように、深い悲しみを抱えていた。
(私は、ただ隠れているだけでいいのだろうか?この宮殿に来たのは、偶然ではなかったのかもしれないわ)
私の心の中に、新しい決意が芽生えた。
ベアトリス様の心の扉を開くこと。
それは、彼女の孤独を癒すだけでなく、もしかしたら、私自身の失われた故郷の真実を知るきっかけになるかもしれない。
そして、この国で、私にしかできないことがあるのかもしれないと、強く感じた。
私は、ただのメイドではない。
かつて、ロゼリア王国の王女だったのだ。
この知識と、この経験は、決して無駄ではないはずだ。
私は、この宮殿で、ベアトリス様を支え、彼女の真実を探り、そして、この国で、私自身の新しい道を切り開いてみせる。
そう、心に誓ったのだった。
夜明け前の空が、ほんのり白み始めていた。




