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第5話

ベアトリス様の宮殿での日々は、静かに過ぎていった。

私は毎日、彼女の身の回りの世話をこなし、宮殿の掃除に勤しんだ。

しかし、私の本当の務めは、彼女の心の奥深くを探ることだと、ひそかに感じていた。

あの古びた絵本が、その鍵を握っているのは明らかだった。

私は、ベアトリス様が絵本を手に取るたびに、そのわずかな表情の変化を見逃さないよう、細心の注意を払っていた。

彼女が、その絵本を愛おしそうに撫でる指先、あるいはページをめくる際に浮かべる、寂しげな眼差し。

それら全てが、私にとっては重要な手がかりだった。

(この絵本には、きっとベアトリス様の、誰にも言えない秘密が隠されているわ)

ある日の午後、宮殿は特に静まり返っていた。

外は小雨が降り続き、窓ガラスを叩く雨音が、この場所の静けさを一層際立たせていた。

ベアトリス様は、いつものようにソファに座り、絵本を開いていた。

その日、彼女の表情は、いつもよりも深い悲しみに沈んでいるように見えた。

その瞳は、まるで遠い過去の幻を見ているかのように、焦点が定まっていなかった。

私は、この機会を逃すべきではないと感じた。

彼女の心が、ほんのわずかでも開かれている今こそ、話しかけるべきだと直感した。

私は、そっと彼女の傍らに歩み寄った。

私の足音は、宮殿の静けさに吸い込まれていくかのように小さく、彼女の邪魔にならないよう細心の注意を払った。

「ベアトリス様、もし差し支えなければ、その絵本のお話を聞かせていただけますか?」

私の声は、できるだけ穏やかに、そして優しく響くように心がけた。

彼女は、私の言葉にゆっくりと顔を上げた。

その翡翠色の瞳が、驚きと、ほんのわずかな警戒の色を帯びて、私を捉えた。

しかし、すぐにその警戒心は消え、諦めにも似た疲労が彼女の表情に広がった。

「…構わないわ。

どうせ、誰も聞いてくれないのだから」

彼女の声は、か細く、そしてどこか諦めに満ちていた。

その言葉には、これまで誰にも理解されなかった孤独と、深い絶望が滲み出ていた。

私は、その言葉に胸が締め付けられる思いがした。

彼女は、きっと長い間、一人でこの感情を抱え込んできたのだろう。

ベアトリス様は、ゆっくりと絵本のページをめくり始めた。

彼女の指先は、僅かに震えていた。

「これは…私が幼い頃に、母が読んでくれた絵本よ」

彼女の口から語られる「母」という言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。

リオネル王子の生母が幼い頃に亡くなっているという事実を知っていた私は、この絵本がベアトリス様の、失われた記憶と深く結びついていることを予感した。

「この物語の主人公は、小さな鳥なの。

羽がまだ生え揃わないひな鳥で、いつも一人ぼっちだったわ。

他の鳥たちは、みんな空を自由に飛び回って、楽しそうに歌っていたけれど、このひな鳥だけは、飛び方も分からず、ただ巣の中で震えているだけだったのよ」

ベアトリス様の声は、物語を語るにつれて、ほんのわずかに感情を取り戻していくように聞こえた。

その声は、悲しみを帯びてはいたが、どこか懐かしさや、愛おしさを含んでいるようだった。

彼女の視線は、絵本の挿絵を追っていたが、その瞳の奥には、幼い頃の彼女自身の姿が映し出されているかのようだった。

「ひな鳥は、毎日、空を見上げていたわ。

いつか、自分もあんな風に飛べるようになるのかって、ずっと願っていたのよ。

でもある日、嵐が来て、ひな鳥の巣は壊れてしまったの。

ひな鳥は、一人ぼっちで、冷たい雨の中に投げ出されてしまって…」

ベアトリス様の声が、そこで途切れた。

彼女の瞳には、涙がにじんでいた。

私は何も言わず、ただ彼女の言葉の続きを待った。

彼女の背後で、窓を叩く雨音が、まるで彼女の悲しみに寄り添うかのように響いた。

「…その時、一羽の大きな鳥が、ひな鳥の前に現れたの。

その鳥は、ひな鳥に優しく寄り添い、温かい羽で包み込んでくれたわ。

そして、ひな鳥に、飛び方を教えてくれたのよ。

『恐れないで。

翼を広げれば、きっと空はあなたを受け入れてくれるわ』って」

彼女の言葉に、私は胸が熱くなった。

その大きな鳥は、きっとベアトリス様の母の姿を象徴しているのだろう。

そして、ひな鳥は、幼い頃のベアトリス様自身。

「その大きな鳥のおかげで、ひな鳥は、ついに空を飛べるようになったのよ。

最初はぎこちなかったけれど、次第に大きく羽ばたいて、やがて他の鳥たちと同じように、大空を自由に舞い上がることができたの。

そして、ひな鳥は、知ったのよ。

空は、自分を拒絶していたわけじゃなかった。

ただ、自分が飛び方を知らなかっただけだって…」

ベアトリス様は、そこで再び言葉を区切った。

彼女の瞳からは、一筋の涙が流れ落ち、絵本のページに小さな染みを作った。

彼女は、涙を拭うこともせず、ただ静かに泣いていた。

その涙は、彼女が長い間、誰にも見せずに抱え込んできた悲しみや、絶望の現れだった。

「…でもね、ロゼ。

私の大きな鳥は、いなくなってしまったわ。

私が、まだ、飛び方も知らないうちにね…」

その言葉に、私は全ての事情を察した。

ベアトリス様の生母は、きっと彼女が幼い頃に亡くなったのだろう。

そして、彼女は、母親を失った悲しみと、一人で生きていかなければならないという絶望の中で、心を閉ざしてしまったのだ。

王宮の冷遇は、その孤独を一層深くするだけだったのだろう。

(ベアトリス様は、私と同じなのよ。

大切な人を失い、一人で生きてきたのね)

私の故郷、ロゼリア王国が滅び、父と母を失った時の痛みが、再び私の胸を襲った。

あの時、私もまた、暗闇の中で一人ぼっちになったひな鳥のようだった。

ベアトリス様が抱える悲しみは、私自身の悲しみと重なり、深い共感を覚えた。

私は、無意識のうちに、ベアトリス様の手をそっと握っていた。

彼女の指先は、冷たく、そして震えていた。

彼女は驚いたように私を見つめたが、その瞳には、私への拒絶の感情はなかった。

「ベアトリス様…貴女は、決して一人ではありませんよ」

私の言葉は、彼女の心の奥深くに、確かに響いたようだった。

彼女の瞳から、また一筋の涙が流れ落ちた。

それは、悲しみの涙であると同時に、ほんのわずかな安堵を含んでいるようにも見えた。

彼女は、何も言わず、ただ私の手を見つめていた。

その手は、まるで冷たい氷の中に差し込まれた温かい光のように、彼女の心を少しずつ溶かしていくかのようだった。

「…ありがとう。

ロゼ」

彼女の口から発せられたその言葉は、私にとって、この宮殿に来てから初めて聞く、はっきりと感情のこもった言葉だった。

その声は、まだか細かったが、そこには確かに、感謝の気持ちが込められていた。

その言葉が、私の心に深く染み渡った。

(これで、少しだけ、ベアトリス様の心に触れることができたわ)

この宮殿で、私自身の居場所を見つけること。

それは、ベアトリス様の閉ざされた心を開き、彼女の孤独を癒すことと、同じ意味を持つのかもしれない。

私は、この日から、ベアトリス様にとっての「大きな鳥」になることを、心に誓ったのだった。


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