第43話
私の掌に残されたアクアマリンの首飾りは、まるで彼の体温を宿しているかのように温かかった。
王子殿下の言葉が、耳の奥で、まだ鮮やかに響いている。
「その輝きは、まるで、お前の瞳のようだ。澄み切っていて、見れば見るほど、深く知りたいと思わせる」
その言葉一つ一つが、私の心を甘く締め付け、そして、得体の知れない熱を私の中に灯していく。
彼が私に、こんなにも個人的で、情熱的な言葉を贈ってくれた。
そして、これほどまでに美しい贈り物を。
それが、ただのメイドに対するものだとは、到底思えなかった。
もしかして、本当に、彼は私に……。
淡い期待が、私の胸の奥で、小さな光を放つ。
しかし、その光は、同時に、身分の差という巨大な壁に阻まれ、瞬く間に霞んでいく。
私はただのメイド。彼はこの国の王子。
このどうしようもない隔たりが、私を苦しめる。
それでも、彼の言葉が、私の心に深く食い込み、その全てを支配していくようだった。
私は、首飾りをそっと握りしめ、彼の旅立ちを見送るため、広場の端へと移動した。
王宮の空は、重く、鉛色にどんよりと曇っていた。
まるで、これから始まる交渉の行方を憂いているかのように。
広場には、すでに多くの兵士と馬が整列していた。
国王陛下と王子殿下が、それぞれの馬に跨る。
国王陛下の顔は、いつになく険しく、その隣に立つ王子の表情もまた、重々しい。
彼らの背中からは、この国の命運を背負う者の、計り知れない重圧が伝わってくる。
私の視線は、自然と王子殿下の背中に吸い寄せられた。
彼の鎧は、陽光を受けて鈍く光っている。
あの逞しい背中が、今、この国の未来を乗せて、危険な交渉へと向かう。
どうか、無事に。
私の心の中で、ただその願いだけが、切実に繰り返された。
彼が馬の鞍に手をかけ、まさに乗り込もうとしたその時、ふと、視線を私の方へと向けた。
彼の琥珀色の瞳と、私の瞳が、一瞬、交錯する。
その視線に、私の心臓は大きく跳ねた。
彼の口元が、わずかに緩む。
それは、かすかな、しかし、私の心を震わせるほど優しい、微笑みだった。
その笑顔は、まるで凍てついた心を解かす、春の陽光のように、私の心に温かい波紋を広げた。
彼は何も言わず、ただ、その視線だけで私に何かを伝えようとしているかのようだった。
そして、その視線のまま、彼は馬に跨り、出発の合図とともに、広場を後にした。
彼の後ろ姿が、遠ざかるにつれて、私の胸は、言いようのない不安に押し潰されそうになった。
私は、その場に立ち尽くし、彼の姿が見えなくなるまで、ただ、じっと見つめ続けていた。
掌の中のアクアマリンが、じんわりと熱を帯びていくのを感じる。
まるで、彼の温もりが、私の手の中に残されているかのように。
私は、その首飾りをぎゅっと握りしめ、彼の無事を、心から祈った。
そして、この石が、彼が必ず帰ってきてくれる、希望の証であると、そう信じようとした。
王子殿下と国王陛下の出発後、王宮は、重い沈黙に包まれた。
民衆の不安は日増しに高まり、通りでは、不穏な噂が囁かれ始める。
隣国との交渉が失敗すれば、この国は、再び戦火に包まれるだろう。
その重苦しい空気に、私は胸が締め付けられる思いだった。
そんな中、私の仕事は、これまで以上に増えた。
王子の不在中、私が彼の執務室の管理を任されたのだ。
膨大な書類の整理、各部署からの報告の取りまとめ、そして、国王陛下からの指示を正確に伝えること。
一つ一つの仕事に、私は全力を尽くした。
それが、今、私が彼のためにできる唯一のことだったから。
夜遅くまで執務室に残り、蝋燭の灯りの下で書類を読み込む日々が続いた。
疲労は蓄積していくが、それでも、彼の無事を祈りながら、私は決して手を止めなかった。
ある夜、私は執務室で、古い記録書を調べていた。
それは、この国の外交史に関するもので、隣国との過去の条約や、王族間の婚姻に関する記録が記されている。
セレフィーナ王女の「返還要求」の裏には、何か隠された意図があるはず。
その謎を解き明かす手がかりが、この古文書の中にあるかもしれない。
そう思い、私は何日もかけて、この分厚い書物を読み漁っていた。
しかし、これといった手がかりは見つからない。
疲労で、私の意識は朦朧としていた。
視線が文字の上を滑り、時折、活字がぼやけて見える。
もう、夜中をとうに過ぎているだろう。
早く仕事を終わらせ、休まなければ。
そう思いながら、私の指先は、次のページを繰ろうとしていた。
その時、不意に、机の上の書類の山が、グラリと揺れた。
どうやら、積み重ねすぎたらしい。
私は、慌てて書類を支えようと手を伸ばしたが、間に合わない。
書類の山が、ガラガラと音を立てて崩れ落ち、私はその勢いで、椅子から転げ落ちそうになった。
「あ……」
体が、大きく傾く。
床に激突する、その寸前。
不意に、私の体を支える、温かい腕が伸びてきた。
その腕は、私をしっかりと抱きとめ、転倒から守ってくれた。
私は、ハッと息を飲んだ。
顔を上げると、そこにいたのは、王子殿下だった。
彼の琥珀色の瞳が、驚いたように私を見下ろしている。
私の体は、彼の胸に、すっぽりと収まっていた。
彼の腕が、私の腰にしっかりと回され、彼の胸板の硬い感触が、私の背中に伝わる。
彼の吐息が、私の頬にかかる。
そして、彼の体から漂う、どこか懐かしい、心地よい香りが、私の鼻腔をくすぐった。
私は、言葉を失った。
心臓が、激しく、不規則に脈打つ。
こんなにも近くで、彼を感じている。
彼の鼓動が、私の胸に直接響くかのようだ。
頬が、みるみるうちに熱くなっていくのがわかる。
まるで、全身の血液が顔に集中しているかのようだった。
息をするのも苦しく、鼓動が耳元で大きく鳴り響いている。
こんなにも、彼の傍にいるのに、私は、彼に「大丈夫です」と、たった一言すら言えない。
この状況が、私を完全に支配していた。
彼もまた、何も言わず、ただ、私を抱きしめたまま、じっと見つめていた。
彼の瞳の奥には、困惑と、そして、かすかな熱が宿っているように見えた。
その視線に、私の心臓はさらに激しく脈打つ。
彼の視線が、私の唇へと移る。
まるで、吸い寄せられるかのように、彼の顔がゆっくりと、私の顔に近づいてくる。
息が止まる。
このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
私の理性は、メイドとしてあるまじき状況だと叫ぶけれど、私の心は、その甘い誘惑に抗うことができなかった。
体が、彼の腕の中に、さらに深く沈んでいく。
その時、不意に、執務室の扉が、ゆっくりと開かれた。
「ロゼ、まだ執務室にいたの?お兄様、お帰りになったの?」
そこに立っていたのは、眠気を擦りながら、目をこすっているリリアーナ王女だった。
彼女は、私たち二人の姿を見て、目を丸くした。
王子殿下は、ハッと我に返ったように、慌てて私から体を離した。
私の体は、彼の腕から離れ、冷たい空気に触れて、ゾクリとした。
彼の温もりが、一瞬にして失われた喪失感に、私は言いようのない寂しさを感じた。
私の頬は、まだ熱く、顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
王子殿下の顔も、心なしか赤くなっているように見えた。
私たちは、何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
リリアーナ王女は、私たちの様子を見て、きょとんとした顔で首を傾げた。
「お兄様、いつの間に…」
王子殿下は、かすかにどもりながら、平静を装おうとしていた。
しかし、彼の声は、わずかに震えていた。
彼は、リリアーナ王女に顔を向け、無理に笑顔を作った。
「リリアーナか。ああ、ちょうど今、戻ったところだ。ロゼは、まだ仕事をしていたようだから、少し手伝っていたんだ」
彼の言葉は、あまりにも不自然だった。
リリアーナ王女は、小さくあくびをすると、首を傾げた。
「ふーん…そうなんだ。でも、ロゼ、なんだか顔が真っ赤だよ?」
彼女の純粋な言葉に、私の心臓はさらに大きく跳ねた。
王子殿下もまた、その言葉に、わずかにたじろいだように見えた。
彼は、私から視線を逸らし、咳払いをした。
リリアーナ王女は、私の服の裾をぎゅっと掴んだ。
その小さな温もりが、私の心を温かくする。
王子殿下は、重い息を吐き、困ったような表情で私とリリアーナ王女を見つめていた。
彼の視線は、再び私に向けられたが、すぐに逸らされた。
私の心臓は、未だ激しく脈打っていた。
彼の言葉、彼の態度、そして絶妙なタイミングで入った邪魔。
全てが、私の心を大きく揺さぶった。
彼もまた、私に特別な感情を抱いているのかもしれない。
その可能性が、私の心を甘く、そして切なく締め付ける。
しかし、それは、許されない恋。
この感情と、私はどう向き合っていけばいいのだろう。
答えは、まだ見つからない。
私は、ただ、彼のために、彼の選んだ道を、共に歩んでいく覚悟を決めていた。
たとえ、それがどのような結末を迎えようとも。
私は、ただ、彼のために、彼の傍に立ち続けることしかできないのだ。
執務室の窓から見える夜空は、深まり、まるで私の心の混乱を映し出しているかのようだった。




