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第42話


執務室に残された私は、未だ脈打つ心臓の音を聞いていた。

王子殿下の言葉が、脳裏で何度も反響する。


「お前のその澄んだ瞳は、俺の心を捕らえて離さない。この王宮で、お前ほど俺の心に深く食い込む存在はいない。俺は、お前の全てを知りたい。隠された過去も、秘めたる想いも、その一つ残らず、俺の隣で語ってほしい」


その言葉は、まるで魔物の囁きのように、私の心を甘く誘い、同時に深く抉り取る。

私への愛情…いや、それはきっと、私の秘密への興味が混じり合っているのだろう。

「全てを知りたい」という彼の言葉の裏には、私が持つ「元王女」という過去への探究心が見え隠れする。

分かっている。分かっているのに、彼の言葉が私の胸を締め付ける。

この身分の差がある限り、彼の言葉を真正面から受け止めることは許されない。


私はただのメイド。彼はこの国の王子。

このどうしようもない隔たりが、私を苦しめる。

それでも、彼の「心を奪われる存在」「深く食い込む存在」という言葉が、私の心の奥底に、消えることのない希望の火を灯す。

この火は、私を温め、同時に焼き尽くすかのような熱を帯びていた。

私は、その場で膝から崩れ落ちそうになる衝動を必死で抑え、震える手で机の上の書類を片付け始めた。

指先が、文字の上で滑る。

何も頭に入ってこない。

ただ、彼の言葉が、私の耳元で、甘く、そして残酷に響き続けていた。

この感情と、私はどう向き合えばいいのだろう。

答えは、まだ見つからない。

王宮の夜は、深く、まるで私の心の混乱を映し出しているかのようだった。




翌日から、王宮の空気は一層張り詰めたものとなった。

隣国からの「セレフィーナ王女の返還要求」は、外交上の大きな問題となり、国王陛下と重臣たちは、連日、解決策を模索していた。

私もまた、王子の補佐として、その会議に侍女として同席することが増えた。


会議の度に、私はセレフィーナ王女の横顔を目にする。

彼女は、以前にも増して憔悴し、その瞳には私への恨みが深く刻まれているように見えた。

私のせいで、彼女がこんな状況に陥ったのか。

その思いが、私の心を締め付ける。

しかし、同時に、彼女の口から語られた「シミを落としたことで、隣国の外交官が激怒した」という言葉の真意が、どうしても理解できなかった。

なぜ、たかがシミ抜きが、外交問題にまで発展するのか。

そこに、何らかの裏があるはずだ。

その謎が、私の心の中で、燻り続けていた。


王子殿下は、会議の間も、時折私に視線を送ることがあった。

その視線は、会議の内容を探るものではなく、私の表情や仕草を観察するかのようだった。

彼の視線を感じるたび、私の心臓は不規則に跳ねる。

まるで、彼の視線が、私の心の奥底にある秘密を暴こうとしているかのように感じられた。

私は、平静を装い、視線を彼から逸らした。

しかし、彼の視線は、まるで私の肌に焼き付くように熱く、私の心を離さなかった。

集中しようとすればするほど、彼の存在が私の意識を支配していく。

私は、ペンを握る指先に、全ての意識を集中させた。

そうしなければ、この溢れ出しそうな感情を抑えきれない気がしたからだ。




数日後、国王陛下は、セレフィーナ王女の返還について、隣国と直接交渉の場を設けることを決定した。

外交官ではなく、国王陛下と王子殿下が直接出向くというのだ。

それは、非常に危険な賭けだった。

隣国が、どのような意図でセレフィーナ王女の返還を要求しているのか、未だ不明だからだ。

しかし、このまま膠着状態が続けば、この国は戦へと突入するしかない。

国王陛下は、この危険な交渉に、一縷の望みを託したのだ。


私は、その知らせを聞き、動揺を隠せなかった。

王子殿下が、再び危険な場所に赴く。

その事実が、私の心を締め付けた。

無事に帰ってきてほしい。

そして、今度こそ、彼に、私の本当の気持ちを伝えたい。

しかし、その言葉は、喉の奥に張り付いて、どうしても出てこない。

彼の逞しい背中を見つめながら、私は唇を噛み締めた。


「ロゼ……」


不意に、王子殿下が私を呼んだ。

彼の声に、私の心臓は大きく跳ねた。

私は、慌てて顔を上げる。

彼の琥珀色の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。

その視線に、私の心は乱される。

彼の表情は、真剣そのものだった。


「出発前に、お前に渡しておきたいものがある」


王子殿下は、そう言って、懐から小さな革袋を取り出した。

それは、手のひらに収まるほどの小さな袋だったが、その中には、何か硬いものが入っているようだった。

彼は、その袋を私の掌にそっと乗せた。

彼の指が、私の指に触れる。

その温かさに、私の心臓はさらに激しく脈打った。

熱い電流が全身を駆け巡るような錯覚に陥る。

私は、恐る恐る袋の中を覗き込んだ。


そこには、澄んだアクアマリンの結晶石が、静かに輝いていた。

光を透かすと、まるで王宮の泉の水底を映し出すかのように、深い青色が揺らめく。

そして、その結晶石には、細い銀の鎖が通され、首飾りとして身につけられるように加工されていた。

この国の職人でも、これほど精巧な細工ができる者は限られているはず。

高貴な身分の者が、特別な意匠を凝らして作らせたものに違いない。


「これは……?」


私が尋ねると、王子殿下は、私の手を取ると、その結晶石を優しく包み込んだ。

彼の指が、私の手の甲をゆっくりと撫でる。

その感触に、私の心は締め付けられる。


こんなにも触れてくれるのに、これは一体どういう意味なのだろう。

彼の行動が、私の心をさらにかき乱す。


「これは、遠い北方の鉱山で見つかった、希少なアクアマリンの結晶だ。俺が個人的に依頼して、特別な細工を施してもらった。その輝きは、まるで、お前の瞳のようだ。澄み切っていて、見れば見るほど、深く知りたいと思わせる」


王子の声は、静かだったが、その中には、はっきりと私への深い愛情と、熱い想いが込められているように聞こえた。

私の心臓は、激しく跳ねた。


「お前の瞳のようだ」「見れば見るほど、深く知りたいと思わせる」


彼の言葉の響きは、私の心を甘く、そして切なく締め付けた。

彼は、この美しい結晶石に私を重ね、私のためだけに、これほどの高価な贈り物を準備してくれたというのか。

まさか。こんなにもストレートで、心を揺さぶる言葉を、私に贈ってくれるなんて。


彼の視線が、私を貫く。

その熱に、私の頬は火が付いたように熱くなり、まるで全身の血液が顔に集中しているかのようだった。

息をするのも苦しく、鼓動が耳元で大きく鳴り響いている。

言葉が、喉の奥に詰まって出てこない。

私は、ただ、彼の言葉に耳を傾けることしかできなかった。

私の瞳は、彼の琥珀色の瞳に吸い込まれるように見つめ返していた。


彼が、私に、こんなにも甘い言葉を囁き、私に触れている。

まるで夢を見ているかのようだった。

しかし、その現実が、私をさらに苦しめる。

こんなにも近くに彼を感じるのに、私は、彼に「好き」だというたった一言を伝えることができない。

身分の壁が、あまりにも高く、私の言葉を阻む。

私は、彼の手の中で、結晶石をぎゅっと握りしめた。

彼の温もりが、私の指先から、全身に染み渡っていく。


この温もりが、永遠に続けばいいのに。

しかし、それは叶わない願いだ。

この結晶石は、彼の本心なのだろうか。

それとも、ただの気まぐれなのだろうか。

私の心は、期待と不安の狭間で激しく揺れ動いていた。

その時、不意に、国王陛下の声が広場に響き渡った。


「王子!出立の時だ!」


その声に、王子殿下はハッと我に返ったように、私の手から結晶石を離した。

私の手には、彼の温もりと、あの美しいアクアマリンの首飾りだけが残された。


王子殿下の顔は、心なしか赤くなっているように見えた。

彼は、私に一瞥すると、足早に広場へと向かった。

彼の後ろ姿は、どこか慌てているように見えた。

私は、その場に立ち尽くしていた。

私の心臓は、未だ激しく脈打っていた。

彼の言葉、彼の態度、そして絶妙なタイミングで入った邪魔。

全てが、私の心を大きく揺さぶった。

彼もまた、私に特別な感情を抱いているのかもしれない。

その可能性が、私の心を甘く、そして切なく締め付ける。

しかし、それは、許されない恋。

この感情と、私はどう向き合っていけばいいのだろう。


答えは、まだ見つからない。

私は、ただ、彼のために、彼の選んだ道を、共に歩んでいく覚悟を決めていた。

たとえ、それがどのような結末を迎えようとも。

私は、ただ、彼のために、彼の傍に立ち続けることしかできないのだ。

私の掌に残された、あの美しいアクアマリンが、まるで彼の想いの証であるかのように、静かに輝いていた。


空は、重く、未来の行方を示すかのようにどんよりと曇っていた。

私は、その首飾りをそっと握りしめ、彼の無事を、心から祈った。

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