第41話
リリアーナ王女が現れたことで、テラスでのあの瞬間は、まるで夢のように消え去った。
しかし、王子殿下の言葉と、私の頬に残る彼の指先の温もりは、現実となって私の心に深く刻み込まれていた。
「俺にとって、お前は…もう、ただのメイドではない」
その言葉が、耳の奥で何度も反響する。
彼の視線、彼の態度、その全てが、私に特別な意味を持っているかのように感じられた。
もしかして、本当に……?
淡い期待と、身分の差という現実が、私の心を激しく揺さぶる。
(私はただのメイド。彼はこの国の王子)
このどうしようもない隔たりが、私を苦しめる。
しかし、一度芽生えた希望の光は、簡単には消えてくれなかった。
私は、リリアーナ王女を寝かしつけながら、その小さな温もりの中で、自分の感情と向き合おうとしていた。
私の心は、喜びと、そして報われない恋の苦しみで揺れ動いていた。
その夜は、ほとんど眠ることができなかった。
目を閉じれば、彼の言葉が耳元で囁かれ、心は激しく波打つ。
彼の言葉の真意を探ろうとすればするほど、私の頭は混乱するばかりだった。
夜明けが訪れる頃、私は重い体を起こし、いつものように執務室へと向かった。
窓の外は、すでに明るくなり始めていた。
新しい一日が始まる。
この王宮で、私は何をすべきなのだろう。
自問自答を繰り返しながら、私は静かに執務室の扉を開けた。
王子殿下の戦場からの帰還後も、王宮の緊張は緩和されなかった。
隣国からの「セレフィーナ王女の返還要求」の真意は依然として不明なままだ。
国王陛下と重臣たちは、連日会議を重ねていたが、有効な手立ては見つかっていなかった。
そんな中、私は、メイドとしての仕事に加えて、王子殿下の補佐として、戦後の処理にも追われていた。
負傷した兵士たちの名簿整理、物資の調達、そして戦死した兵士たちの遺族への補償の手続き。
山のような書類に、私は毎日、遅くまで執務室に残っていた。
王子殿下もまた、休む間もなく政務に当たっていた。
彼の顔には、疲労の色が色濃く残っていたが、その瞳には、国の未来を守るという強い決意が宿っている。
私は、彼の傍で、少しでも彼の助けになりたい、その一心で、仕事に打ち込んだ。
ある日の夜遅く、執務室には私と王子殿下だけが残っていた。
蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れ、壁に私たちの影を大きく映し出す。
王子殿下は、重い息を吐きながら、書類の山に視線を落としていた。
彼の肩は、重く、その背中からは、深い疲労が伝わってくる。
私は、そっと彼の傍に歩み寄り、冷めてしまった紅茶を新しいものに入れ替えた。
彼は、何も言わずにそれを受け取り、一口飲んだ。
その顔には、かすかな安堵の表情が浮かんでいる。
「ロゼは……とても美しいな」
王子の言葉は、静かだったが、その中には深い感謝と、そして私への特別な感情が込められているように聞こえた。
私の胸は、静かに震えた。
それは、ただのメイドへの言葉なのだろうか。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥底で確かに芽生えた甘い感情は、抑えようがない。
彼の温かい視線が、私の頬を染め上げる。
その視線に、私は逃れるように視線を落とした。
言葉にできない喜びと、この身分では決して叶えられない願いが、私の中で激しく交錯した。
その時、王子殿下は、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
彼の視線は、執務室の壁に飾られた、古びた地図に向けられた。
それは、この国の古い軍事作戦図で、今はほとんど使われていないものだった。
「そういえば、ロゼ。お前が教えてくれた抜け道だが…本当に助けられた。あの道がなければ、兵士たちの犠牲はもっと増えていたかもしれない」
王子の声は、静かだったが、その中には深い感謝と、そして驚きの色が込められているように聞こえた。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
彼が、私の知識を、こんなにも評価してくれているなんて。
その喜びが、私の心を温かく包み込んだ。
私は、深々と頭を下げた。
「殿下のお役に立てたのなら、光栄でございます」
私が答えると、王子は静かに微笑んだ。
その笑顔は、月の光に照らされた夜のように、優しく、そしてどこか切なげだった。
彼は、ゆっくりと立ち上がり、地図に近づいた。
私もまた、彼の後を追った。
王子殿下の指が、地図の上を滑る。
彼が指し示しているのは、私が教えた抜け道の部分だった。
「だが、この道が、なぜお前のようなメイドが知っていたのか…未だに不思議でならない。まるで、この国の全てを知り尽くしているかのようだ」
王子の言葉は、静かだったが、その中には、私への好奇心と、そしてかすかな疑念の色が込められているように聞こえた。
私の心臓は、激しく跳ねた。
「この国の全てを知り尽くしているかのようだ」
彼の言葉が、私の心の奥底に、ひっそりと隠している秘密を、まるで暴こうとしているかのようだった。
私の頬は、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かる。
額に、冷たい汗が滲み出る。
私の正体が、彼にバレてしまうのだろうか。
恐怖と、そして言いようのない不安が、私の心を支配した。
私は、平静を装い、必死で言葉を選んだ。
「殿下…わたくしは……偶然、知ったにすぎません」
私の声は、かすかに震えていた。
王子は、私の返答を聞くと、静かに私の顔を見つめた。
彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめ、その奥には、何かを探るような光が宿っている。
まるで、私の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
重い沈黙が、私たちを包み込む。
その沈黙が、私を一層苦しめた。
このままでは、彼に全てを見破られてしまうかもしれない。
私の全身が、震え始めた。
その時、不意に、王子殿下が私の手をそっと掴んだ。
彼の指が、私の手の甲を優しく撫でる。
その温かさに、私の心臓はさらに激しく脈打った。
頬が、みるみるうちに熱くなっていくのがわかる。
まるで、全身の血液が顔に集中しているかのようだった。
息をするのも苦しく、鼓動が耳元で大きく鳴り響いている。
こんなにも、彼の指先一つで心が乱れる自分に、私は驚きを隠せないでいた。
これは、メイドとしてあってはならない感情。
そう自分に言い聞かせるけれど、募る想いは抑えようがない。
「ロゼ…お前のその澄んだ瞳は、俺の心を捕らえて離さない。この王宮で、お前ほど俺の心に深く食い込む存在はいない。俺は、お前の全てを知りたい。隠された過去も、秘めたる想いも、その一つ残らず、俺の隣で語ってほしい」
王子の声は、静かで、しかし、その中には、はっきりと私への情熱と、強い独占欲が込められているように聞こえた。
私の心臓は、激しく跳ねた。
「全てを知りたい。その一つ残らず、俺の隣で語ってほしい」
その言葉の響きは、まるで私の心の扉を無理やりこじ開けようとしているかのようだった。
彼の言葉の真意を測りかねて、私の頭は混乱した。
彼が、私に、個人的な感情を抱いているのだろうか。
それとも、私の秘密を探ろうとしているのだろうか。
愛と疑念が、彼の言葉の奥に同時に存在しているような、矛盾した響きに、私の胸は締め付けられた。
そんなはずはない。
そう自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは止まらない。
私の頬は、火が付いたように熱くなり、彼の目を見ることができない。
まるで、全ての感情が顔に出てしまっているかのようだった。
言葉が、喉の奥に詰まって出てこない。
私は、ただ、彼に身を委ねるしかなかった。
彼の言葉の響きが、私の心を甘く、そして切なく締め付ける。
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
その時、不意に、執務室の扉がノックされた。
「殿下、緊急の御用でございます!」
扉の外から、重臣の声が聞こえてきた。
王子殿下は、ハッと我に返ったように、慌てて私の手を離した。
私の頬は、まだ熱く、顔が赤くなっているのが自分でも分かる。
王子殿下の顔も、心なしか赤くなっているように見えた。
私たちは、何も言えず、ただ立ち尽くしていた。
王子殿下は、大きく息を吐き、重臣の声に応えた。
「ああ、今行く」
王子殿下は、私に一瞥すると、足早に執務室を後にした。
彼の後ろ姿は、どこか慌てているように見えた。
執務室には、私だけが残された。
重い沈黙が、私を包み込む。
私の心臓は、未だ激しく脈打っていた。
彼の言葉、彼の態度、そして絶妙なタイミングで入った邪魔。
全てが、私の心を大きく揺さぶった。
彼もまた、私に特別な感情を抱いているのかもしれない。
その可能性が、私の心を甘く、そして切なく締め付ける。
しかし、それは、許されない恋。
この感情と、私はどう向き合っていけばいいのだろう。
答えは、まだ見つからない。
私は、ただ、彼のために、彼の選んだ道を、共に歩んでいく覚悟を決めていた。
たとえ、それがどのような結末を迎えようとも。
私は、ただ、彼のために、彼の傍に立ち続けることしかできないのだ。
窓の外の夜空は、深まり、まるで私の心の混乱を映し出しているかのようだった。




