第4話
ベアトリス様の宮殿での生活は、私が想像していた以上に静かで、そして孤独なものだった。
広大な屋敷の中には、私たち以外に、数人の年老いた使用人がいるだけで、ほとんど人の気配がなかった。
彼らもまた、皆一様に口数が少なく、まるでこの宮殿の静けさに溶け込んでいるかのようだった。
彼らの足音は、大理石の床に吸い込まれるかのように小さく、ひそひそと交わされる会話も、すぐに風に消えてしまうようだった。
その静寂は、私の足音や、布を拭く音さえも、まるで罪であるかのように大きく響かせた。
(まるで、時間が止まった場所みたいね。それどころか、最初から時間が存在しなかった場所みたい)
私は日課として、宮殿の掃除とベアトリス様の身の回りの世話を始めた。
メインの王宮でのメイドの仕事は、多岐にわたり、常に時間に追われていた。
朝早くから夜遅くまで、休む間もなく動き回り、常に誰かの指示に従っていた。
しかし、ここでは、時間だけが無限にあるかのようだった。
時計の針は、まるで怠惰に、あるいはわざとゆっくりと進んでいるかのようだった。
ベアトリス様は、ほとんどの時間を部屋のソファで過ごし、ぼんやりと窓の外を眺めているか、あるいは積まれた書物をただ眺めているかのどちらかだった。
彼女の視線は、常に遠くを見つめており、まるでこの場所に彼女の意識が宿っていないかのようだった。
その姿は、まるで精巧な人形が、ただそこに置かれているかのようだった。
彼女は私に、具体的な指示を出すことはほとんどなかった。
ただ、私が何かを尋ねると、短く答えるだけだった。
その声は、いつもか細く、感情が読み取れない。
まるで、言葉を発すること自体が、彼女にとって重労働であるかのように、その声は掠れていた。
瞳の奥には、深い悲しみが沈んでいるように見えたが、それが何から来るものなのか、私には知る由もなかった。
「…紅茶を淹れてくれるかしら」
彼女がそう言ったのは、私が来てから三日目のことだった。
その言葉さえも、まるで重い鎖に繋がれたかのように、力なく響いた。
まるで、その言葉を発するのに、全ての力を使い果たしたかのようだった。
私は言われた通りに丁寧に紅茶を淹れ、彼女の傍らに置いた。
湯気と共に立ち上る甘い香りが、一瞬だけ部屋の重い空気を和らげる。
しかし、彼女は一口も飲まず、ただカップを見つめているだけだった。
そのカップの中の紅茶は、やがて冷めきり、湯気も消えていった。
彼女の視線は、紅茶ではなく、その先の虚空を見つめているかのようだった。
(本当に、心を閉ざしているのね。まるで、感情の全てを深い井戸の底に閉じ込めてしまったみたい)
私は、彼女がなぜ「嫌われ者」と呼ばれているのか、理解に苦しんだ。
私が見る限り、彼女は感情を表に出すこともなく、誰かを罵倒するようなこともなかった。
ただ、ひたすらに孤独なだけだった。
その孤独が、彼女をまるで透明な壁で囲んでいるかのようだった。
誰もその壁の内側に入り込むことができず、彼女自身も、そこから出ることを望んでいないかのようだった。
彼女は、まるでこの宮殿全体が彼女の心の殻であるかのように、その中に深く閉じこもっていた。
王宮内の貴族たちが、彼女を気性が荒いと噂していること自体が、私にとっては信じられないことだった。
彼女は、ただひたすらに、静かに、そこに存在しているだけだった。
ある日、私はベアトリス様の部屋を掃除していた。
彼女はいつものようにソファに座っていたが、その手には、私が以前見つけた古びた絵本が握られていた。
その絵本は、色褪せた表紙の、古びた絵本だった。
何度も何度も読み返されたであろうその本は、ページの端が擦り切れ、ところどころに小さなシミがある。
それでも、その古さにもかかわらず、そこには温かい愛情が込められているかのようだった。
私は、その絵本を手に取るべきか迷った。
それは、彼女にとって大切なものなのかもしれない。
下手に触れて、彼女の心を傷つけてしまうかもしれないという不安が、私の胸をよぎった。
しかし、同時に、彼女の心の扉を開く鍵になるかもしれないとも感じた。
この宮殿で、唯一、彼女の感情が揺れ動くきっかけになり得るものだと直感的に悟った。
「ベアトリス様、その絵本は…」
私が尋ねると、彼女はゆっくりと私に視線を向けた。
その翡翠色の瞳には、ほんのわずかな動揺がよぎったように見えた。
それは、水面に小石を投げ入れた時にできる、ごく小さな波紋のようなものだった。
その波紋はすぐに消えてしまったが、私には確かに見えた。
彼女の心が、ほんの少しだけ揺れた瞬間だった。
「これは…私の、大切なものよ」
彼女の声は、普段よりも少しだけ強く、そして明確だった。
その言葉には、絵本に対する深い愛着が込められているのが分かった。
その声には、微かな熱が宿っており、彼女の感情が確かにそこにあることを示していた。
私は、その言葉に、わずかな希望を見出した。
彼女の感情が、ほんの少しだけ垣間見えた瞬間だった。
それは、暗闇の中で、微かな光が灯されたような感覚だった。
(もしかしたら、この絵本が、ベアトリス様の過去を知る手がかりになるかもしれないわ。そして、その過去こそが、彼女がこの宮殿に閉じこもる理由なのかもしれないわ)
私は、その絵本をじっと見つめた。
表紙には、小さな花が描かれていた。
その花は、私の故郷、ロゼリア王国で咲いていた花に似ていた。
淡い青色と、かすかな桃色が混じり合った、可憐な花。
それは、私の故郷では「希望の花」と呼ばれ、困難な時期を乗り越える象徴とされていた。
偶然だろうか、それとも、何か意味があるのだろうか。
私の胸の中に、かすかな予感が芽生えた。
この宮殿で、ベアトリス様の真実を知ること。
そして、それが、私自身の居場所を見つけるための、最初の一歩になるかもしれない。
この絵本に、私とベアトリス様を結びつける、何かしらの繋がりがあるのかもしれないと、直感的に感じた。
その日以来、私はベアトリス様の傍らで、静かに彼女の様子を観察し続けた。
彼女が絵本を手に取るたび、その表情に微かな変化が現れるのが見られた。
時には、口元に薄い笑みが浮かび、時には、瞳の奥に深い悲しみが宿る。
その絵本は、まるで彼女の感情を映し出す鏡のようだった。
私は、その絵本の内容が気になり始めた。
この絵本に、彼女の心の鍵が隠されているに違いないと確信した。
私のメイドとしての務めは、ただ彼女の身の回りの世話をするだけでなく、彼女の閉ざされた心を、少しでも開いてあげることなのかもしれないと、私は強く感じた。




