第36話
夜が深まる中、私は自室の蝋燭の明かりの下で、セレフィーナ王女から預かったドレスを広げていた。
豪華な装飾が施された、真紅のドレス。
その裾には、はっきりと黒いシミがついていた。
彼女の言葉通り、確かに普通の染料ではなかった。
しかし、私には、このシミを落とせる自信があった。
幼い頃、王女としての教育の一環で、各国の特殊な染料や、その手入れの方法について、徹底的に学んでいたからだ。
それは、他のメイドたちには知られていない、私だけの秘密の知識。
王女だった頃の、唯一残された痕跡のようなものだった。
私は、慎重にシミのついた部分を調べた。
隣国特有の、植物性の染料が使われている。
それを確認すると、私は自室の隅に隠していた、小さな木箱を取り出した。
中には、私が密かに集めていた、様々な薬草や鉱石の粉がしまわれている。
その中から、シミ抜きに最適なものを選び出し、丁寧に調合を始めた。
粉を混ぜ、水を加え、指先で感触を確かめる。
集中すると、周囲の音も、時間の流れも、全てが遠のいていく。
私の手は、まるで魔法を使うかのように、淀みなく動いた。
かつて、私はこの知識を、ただの教養として学んだだけだった。
まさか、それが、今、こんな形で誰かの助けになるとは思ってもみなかった。
そして、この作業が、私にとって、心の安らぎとなっていることにも気づいた。
無心で作業に打ち込む時間は、私の中の不安や、報われない恋の苦しみを、一時的に忘れさせてくれた。
どれほどの時間が経っただろうか。
夜空には、すでに暁の光が差していた。
私は、完成したシミ抜き剤を、筆の先に少量取り、ドレスのシミにそっと塗った。
そして、しばらく待つと、驚くべきことに、黒いシミが、まるで魔法のように薄れていくのが見えた。
私は、丁寧に、そして慎重に作業を続けた。
シミが完全に消え去るまで、何度も、何度も。
そして、夜明けの光が部屋を満たす頃には、ドレスのシミは、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消え去っていた。
ドレスは、新品のように、鮮やかな真紅の輝きを取り戻している。
私は、達成感と安堵の息を漏らした。
これで、メイドを助けることができる。
そして、セレフィーナ王女にも、一泡吹かせることができるだろう。
私の心は、かすかな高揚感で満たされた。
翌朝、私はシミの消えたドレスを丁寧に畳み、セレフィーナ王女の部屋へと向かった。
彼女は、まだ眠っている時間だったが、私は扉をノックした。
やがて、部屋の中から、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「…誰?こんな朝早くに!」
セレフィーナ王女の声だった。
私は、扉越しに答えた。
「わたくし、ロゼでございます。殿下からお預かりいたしましたドレスをお持ちいたしました」
私の言葉に、部屋の中が静かになった。
やがて、ガチャリと扉が開かれ、セレフィーナ王女が寝起きの顔で姿を現した。
彼女の顔には、不機嫌そうな色が浮かんでいる。
私の手にあるドレスを見ると、彼女の眉間に深い皺が刻まれた。
「あら、あなた。まだ諦めていなかったの?どうせ、落とせなかったでしょう。もういいわ、そんな汚いドレス、わたくしはもういらない!」
彼女は、そう言って、私の手からドレスをひったくろうとした。
しかし、私がドレスを差し出すと、彼女の動きが止まった。
彼女の目が、ドレスの裾に注がれる。
そこには、シミ一つない、完璧な真紅の生地が広がっていた。
セレフィーナ王女の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
彼女の瞳は、驚きと、そして信じられないという表情で、ドレスを見つめている。
彼女は、ドレスをまじまじと見つめ、何度も、何度も確認した。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、私を睨みつけるように冷たく、そして、はっきりと警戒の色を帯びていた。
「…あなた、一体、何者なの?」
彼女の声は、かすかに震えていた。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
彼女は、私がただのメイドではないことに、気づき始めているのだろうか。
しかし、私は、平静を装い、深々と頭を下げた。
「わたくしは、ただのメイドでございます。殿下のご命令に従い、シミを落とさせていただいただけです」
私の言葉に、セレフィーナ王女は、何も言い返すことができなかった。
彼女は、ドレスを抱きしめるようにして、私のことを睨みつけていた。
その瞳には、私への明らかな敵意が宿っている。
私は、これ以上、彼女の部屋にいるべきではないと判断し、静かに頭を下げ、部屋を後にした。
彼女の視線が、私の背中に突き刺さるように感じられた。
廊下に出ると、私は大きく息を吐いた。
緊張で、全身が汗ばんでいた。
しかし、これで、メイドは助かった。
その事実が、私の心を温かくした。
これで、彼女が私を、そして王子殿下を、以前のように邪魔することはなくなるだろうか。
そんな甘い期待を抱きながら、私は自分の部屋へと向かった。
その日の午後、私は王子殿下の執務室で、彼の執務を補佐していた。
王子殿下は、相変わらず国の防衛に関する書類に目を通し、真剣な表情を浮かべていた。
私の心は、朝のセレフィーナ王女との一件で、まだざわついていた。
彼女が、私に何をしてくるのか。
その不安が、私の心を締め付けていた。
その時、執務室の扉がノックされ、国王陛下が姿を現した。
国王陛下は、いつもの穏やかな表情ではなく、どこか険しい顔をしている。
その隣には、重臣の一人が立っていた。
王子殿下は、すぐに立ち上がり、国王陛下に深々と頭を下げた。
私もまた、深々と頭を下げ、その場に控えた。
「王子、急なことで申し訳ないが、お前に伝えねばならぬことがある」
国王陛下の声は、重く、執務室に響き渡った。
王子殿下は、真剣な表情で国王陛下を見つめていた。
国王陛下は、一度、深く息を吐くと、静かに言った。
「隣国が、ついに宣戦布告をしてきた」
その言葉は、まるで雷鳴のように、私の耳に突き刺さった。
「宣戦布告」
その言葉が、私の頭の中を何度も反響する。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
戦争。
ついに、この国にも、戦の時が来てしまったのだ。
私の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
しかし、私は必死でそれを堪えた。
王子殿下の顔は、一瞬、驚きに固まったが、すぐに強い決意の表情へと変わった。
彼は、国王陛下を真っ直ぐに見つめ、静かに言った。
「父上…」
国王陛下は、王子の言葉を遮り、さらに重い口調で続けた。
「そして、隣国は、我が国の王女を要求してきた。王女を差し出せば、戦を回避すると…」
その言葉は、私の心を深く切り裂いた。
「王女を要求」
それは、私のような、身分を隠して生きる者にとっては、最も恐ろしい言葉だった。
私の全身が、震え始めた。
私の正体が、バレてしまったのだろうか。
そんなはずはない。
そう、自分に言い聞かせるけれど、胸の奥底で、言いようのない恐怖が広がった。
王子殿下の顔は、激しい怒りに染まっていた。
彼の瞳は、燃え盛る炎のように、外交官を睨みつけていた。
「そんな要求、到底飲めるはずがありません!隣国は、一体何を考えているのです!」
王子の声は、怒りに震えていた。
国王陛下は、静かに首を振った。
「彼らは、あくまで、我が国の主権を侵害し、我々を屈服させようとしている。だが…この要求は、セレフィーナ王女が申し出たことだ」
国王陛下の言葉は、私の心をさらに深く突き刺した。
「セレフィーナ王女が申し出た」
その言葉が、私の頭の中で何度も反響する。
まさか。
彼女が、そのようなことを。
私は、信じられないという表情で、国王陛下を見つめた。
私の脳裏には、シミを落としたドレスを渡した時の、セレフィーナ王女の冷たい視線が蘇った。
あの時の、私への敵意。
彼女は、私の正体を知っているのだろうか。
そして、私を排除するために、このような手段に出たのだろうか。
恐怖と、そして言いようのない絶望が、私の心を支配した。
私は、その場で膝から崩れ落ちそうになったが、必死で踏みとどまった。
王子殿下は、国王陛下の言葉に、信じられないという表情で立ち尽くしていた。
彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
その瞳には、激しい怒りと、そして困惑の色が浮かんでいる。
国王陛下は、重臣たちに目配せすると、執務室を後にした。
執務室には、王子殿下と私だけが残された。
王子殿下は、深い溜め息をつくと、机に広げられた地図に視線を落とした。
彼の肩は、重く、その背中からは、深い苦悩が伝わってくる。
私は、彼の傍で、ただ静かに佇んでいた。




