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第32話


セレフィーナ王女が王宮に来てから、執務室での日々は以前とは全く違うものになっていた。

彼女は、毎日のように執務室に顔を出し、王子殿下の時間を奪っていく。

私は、彼女の視線を避けるように、執務室の隅で、ひっそりとメイドとしての仕事をこなしていた。

以前は、王子殿下の傍で、彼の執務を補佐することが私の主な仕事だったけれど、今は、彼女のわがままに振り回されることが増えた。

例えば、彼女が気分を損ねて書類を散らかしたり、高価な調度品を壊したりすれば、私が後片末をしなければならない。

その度に、心の中で、言いようのない虚しさが広がった。

私は、一体何のためにここにいるのだろう。

彼の力になりたい、ただその一心で、これまで全てを捧げてきたのに。

今は、ただ、邪魔者でしかないのだろうか。

そんな思いが、私の心を締め付けた。

王子殿下は、セレフィーナ王女の振る舞いに、常に困惑したような表情を浮かべていた。

彼は、彼女の要求に可能な限り応えようとするけれど、その瞳の奥には、疲労の色が色濃く浮かんでいるのが見て取れた。

そして、時折、私の方へと視線を向ける。

その視線に気づくと、私の心臓は小さく跳ねた。

まるで、彼が私に助けを求めているかのように感じられたからだ。

しかし、私は何もできない。

ただ、彼の苦悩を傍で見つめることしかできない無力さに、胸が締め付けられた。



ある日の午後、王子殿下とセレフィーナ王女は、庭園を散策していた。

私は、彼らの後を、他のメイドたちと共に控えめに歩いていた。

色とりどりの花々が咲き誇り、鳥のさえずりが聞こえるはずの庭園も、今の私には、どこか寂しく見えた。

セレフィーナ王女は、王子殿下の腕に絡みつき、甲高い声で笑っていた。

その笑い声が、私の耳に突き刺さる。

彼女は、王子殿に熱心に話しかけ、彼を独り占めしようとしているかのようだった。

王子殿下は、彼女の言葉に時折相槌を打つが、その表情はどこか固い。

私が目を伏せたその時、セレフィーナ王女の声が響いた。

「ねえ、王子殿下!この花、とても綺麗でしょう?わたくし、この花が一番好きだわ!」

彼女は、そう言って、鮮やかな赤いバラの蕾を指差した。

そのバラは、まだ完全に開いていないけれど、その中に秘められた美しさを感じさせる。

「確かに、美しいな。だが、まだ蕾だ。花開けば、さらに見事なものになるだろう」

王子殿下の声は、静かだった。

彼の言葉に、セレフィーナ王女は不満げな顔をした。

「あら、そうかしら?わたくしは、この蕾のままでも十分美しいと思うけれど。それに、完璧な花よりも、少し未熟な方が、愛おしいと思わない?」

セレフィーナ王女は、そう言って、王子殿下を見つめた。

その視線は、まるで自分を指しているかのように、私には感じられた。

王子殿下は、一瞬、戸惑ったような表情を見せた後、静かに首を振った。

「そうだな。しかし、蕾が花開くまでの過程もまた、美しいものだ。そして、その過程を共に過ごし、見守ることができれば、その花は、より一層輝くだろう」

王子の言葉は、どこか遠い場所を見つめるかのように、優しく響いた。

私の心臓は、大きく跳ねた。

彼が言った「その過程を共に過ごし、見守る」という言葉。

それは、まるで、私に向けられた言葉のように聞こえた。

彼が、私と、そうした日々を過ごしたいと願っているのだろうか。

そんなはずはない。

そう、自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは収まらない。

私の頬は、ゆっくりと熱を帯びた。

セレフィーナ王女は、王子の言葉に不満げな顔をしたが、それ以上何も言わなかった。

私は、彼女に悟られないよう、必死で平静を装った。

しかし、握りしめた手のひらには、うっすらと汗が滲んでいた。




その日の夜、私は王子の執務室で、夜遅くまで書類を整理していた。

セレフィーナ王女は、先に自室へと戻ったため、久しぶりに王子と二人きりになれた。

静寂に包まれた執務室は、私にとって、何よりも安らぎだった。

王子殿下は、疲れたように深く息を吐き、机に広げられた地図に視線を落とした。

私もまた、彼のために温かい紅茶を用意し、そっと机の端に置いた。

「殿下、もう遅いです。少し、休憩なさいませんか」

私が声をかけると、王子は顔を上げた。

彼の瞳は、疲労の色を浮かべていたが、その奥には、私への優しい光が宿っていた。

「ああ、ロゼ。ありがとう。お前が淹れてくれる紅茶は、まるで疲れた心に注がれる光のようだ。お前の存在が、俺の心を穏やかにしてくれる」

王子の声は、静かだが、その中には深い安堵と、そして私への特別な感情が込められているように聞こえた。

彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。

その眼差しは、私を捕らえて離さない。

私の心臓は、激しく脈打っていた。

彼の言葉は、私の心に深く染み渡り、私の中に秘められていた全ての感情を揺さぶった。

彼が私を「光」と例えた。

その言葉の重みに、私はただただ感動していたが、同時に、その意味を考えて、羞恥と戸惑いで身動きが取れないでいた。

これが、彼にとって、どのような意味を持つ言葉なのか。

私は、彼の視線から逃れるように、そっと俯いた。

こんなにも嬉しいのに、こんなにも苦しい。

彼の温かい視線が、私を包み込んでいる。

その温もりが、私の中に、新しい感情の嵐を巻き起こしていた。

どうすればいいのか、何も分からなかった。

このままでは、私の感情が彼に悟られてしまうかもしれない。

そう思うと、さらに心臓が跳ね上がった。

「殿下…わたくしは、ただ、殿下のお役に立ちたくて…」

私は、精一杯の平静を装い、そう答えるのがやっとだった。

私の声は、かすかに震えていた。

王子は、私の言葉に、少しだけ眉を下げた。

その表情は、どこか寂しそうにも見えたが、すぐに元の真剣な表情に戻った。

彼は、紅茶を一口飲むと、静かに言った。

「ロゼ。お前は、いつも俺の隣で、ひたむきに咲いている可憐な花だ。誰にも気づかれなくとも、俺は知っている。お前という花が、この王宮を、そして俺の心を彩っていることを」

王子の言葉は、私の心に深く響き渡った。

彼は、私を「可憐な花」と例えた。

そして、「誰にも気づかれなくとも、俺は知っている」と。

その言葉の重みに、私の胸は、言いようのない幸福感で満たされた。

同時に、彼の言葉の真意を測りかねて、戸惑う自分もいた。

彼が、私のようなメイドを、そんな風に思ってくれているなんて。

それは、私にとって、最高の褒め言葉だった。

私の頬は、さらに熱くなる。

しかし、これはあくまで、メイドとしての私への賛辞なのだろう。

そう、自分に言い聞かせた。

それでも、彼の言葉が、私の心に深く、深く刻み込まれていく。

私は、彼が紅茶を飲む姿を、ただ静かに見つめていた。

彼の傍にいることの幸福を噛み締めながらも、私の心は、報われない恋の苦しみで満たされていた。




翌日、王宮では、セレフィーナ王女と王子殿下の婚約に関する非公式な会談が設けられた。

私は、その会談に、メイドとして同席していた。

会談は、国王陛下と重臣たち、そしてセレフィーナ王女の父である隣国の外交官を交えて行われた。

セレフィーナ王女は、終始、王子殿下の隣に座り、彼に甘えるような視線を送っていた。

王子殿下は、その視線に気づかないふりをしながら、真剣な表情で会談に臨んでいた。

会談は、和やかな雰囲気で始まったかに見えたが、すぐに重苦しいものへと変わっていった。

隣国の外交官は、王女との婚約を条件に、鉱山の共同開発における隣国側の権限拡大を要求してきたのだ。

それは、実質的に、王国の主権を侵害する内容だった。

国王陛下と重臣たちの顔には、困惑と怒りの色が浮かんでいた。

しかし、外交官は、一切譲歩する姿勢を見せない。

「殿下、この提案を受け入れなければ、両国の関係は、修復不可能なほどに悪化するでしょう。殿下のご決断が、この国の未来を左右するのです」

外交官の言葉は、王子殿下に強い圧力をかけていた。

王子殿下は、静かに、しかし毅然とした表情で外交官を見つめた。

彼の瞳の奥には、深い思案と、そして覚悟の色が宿っている。

私の心臓は、激しく脈打っていた。

彼が、どのような決断を下すのか。

その選択が、この国の未来を、そして私たち二人の関係を、大きく変えることになるだろう。

私は、息を殺して、彼の次の言葉を待った。

王子は、一度、深く息を吐いた。

そして、その視線が、私の方へと向けられた。

彼の瞳は、私に何かを問いかけているかのようだった。

その視線を受け止めると、私の心は、言いようのない不安と、しかし同時に、彼への揺るぎない信頼で満たされた。

私は、彼に、静かに、しかし力強く頷いた。

彼の選ぶ道ならば、きっと正しいと。

私の心は、そう告げていた。

王子は、私の頷きを見ると、わずかに口元を緩めた。

その表情は、私にだけ見せた、安堵の表情だったように感じられた。


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