第31話
セレフィーナ王女が王宮に来訪してから、数日が経った。
その数日は、まるで数ヶ月のように長く感じられた。
王宮の空気は、彼女の存在によって一変していた。
まるで、色鮮やかな嵐が吹き荒れたかのようだ。
彼女は、その華やかさと自信に満ちた振る舞いで、瞬く間に王宮の人々の注目を集めた。
そして、その矛先は、常に王子殿下へと向けられている。
私は、王子の専属メイドとして、彼女の行動を間近で見る機会が多かった。
そして、その度に、心の奥底で、言いようのない痛みが走るのを感じていた。
セレフィーナ王女は、毎日、王子殿下の執務室を訪れた。
以前は、私と王子殿下だけの静かな空間だった執務室が、彼女の訪問によって、にわかに華やぎ、そして騒がしくなった。
彼女は、まるで自分の宮殿であるかのように振る舞い、王子の許可も得ずに、彼の机の上に置かれた書類を興味深そうに眺めたり、時には彼の私物に触れたりすることもあった。
彼女の行動は、王子殿下にとって、明らかに迷惑そうに見えた。
彼の顔には、常に困惑と、そしてわずかな苛立ちの色が浮かんでいる。
しかし、隣国の王女である彼女に対して、王子は毅然とした態度を取りつつも、露骨に不快感を示すことはなかった。
それは、すべて国の平和のため。
そう、私は自分に言い聞かせていた。
しかし、彼女が王子殿下の隣に立つたび、私の胸は締め付けられた。
私には許されない、あまりに親密な距離。
彼女のその振る舞い全てが、私にとって、胸をえぐられるような苦痛だった。
セレフィーナ王女は、非常にわがままな性格だった。
彼女は、王宮のメイドたちをまるで自分の召使いのように扱い、些細なことで厳しく叱責することもあった。
彼女の気に入らないことがあれば、すぐに不機嫌になり、周囲の人間を巻き込んで騒ぎを起こす。
その度に、私は彼女の後始末に追われた。
割られた高価な壺、散らかった書物、そして、彼女の気分を害したために泣き出したメイドたち。
私は、その全てを黙々と片付けた。
彼女の振る舞いは、王宮の秩序を乱し、メイドたちの士気を低下させた。
しかし、彼女は隣国の王女。
誰も、公然と彼女に逆らうことはできなかった。
王子殿下も、外交問題に発展することを恐れ、彼女の行動をある程度容認せざるを得ない状況だった。
その結果、王子殿下と私が二人きりで過ごせる時間は、極端に少なくなった。
以前は、夜遅くまで執務室で共に過ごし、私が淹れた紅茶を飲みながら、彼がこの国の未来について語ってくれることもあった。
その時間が、私にとって、何よりも大切なものだった。
しかし、今は、セレフィーナ王女が王子殿下の傍を片時も離れようとしないため、私には、彼と個人的な会話をする機会さえ与えられなかった。
彼が、彼女の相手をしている間、私はひっそりと執務室の隅で、二人の様子を眺めているしかなかった。
彼女の甲高い笑い声が、私の耳に突き刺さる。
彼女が、王子殿下の腕にそっと触れるのを見るたび、私の胸は激しく痛み、呼吸が苦しくなる。
嫉妬。
その感情が、私の心を蝕んでいく。
それは、まるで胸の奥に燃え盛る火が灯されたかのように、熱く、そして苦しいものだった。
私は、自分の感情を誰にも悟られないよう、必死で平静を装った。
しかし、手のひらには、うっすらと汗が滲み、握りしめた拳は震えていた。
こんなにも苦しいのに、私は何もできない。
ただ、静かに、この状況を受け入れるしかなかった。
ある日のこと、私は執務室で書類を整理していた。
王子殿下は、重臣たちとの会議のため、席を外していた。
執務室は、久しぶりに私一人きりの静寂に包まれていた。
その時、扉が勢いよく開かれ、セレフィーナ王女が執務室に入ってきた。
彼女の顔には、不機嫌そうな色が浮かんでいる。
私の姿を見ると、彼女の表情は、さらに険しいものになった。
「あなた、ここで何をしているの?王子殿下の執務室に、メイドが勝手に入り込むなんて、無礼にもほどがあるわ!」
彼女の言葉は、まるで氷のように冷たく、私の心を凍らせた。
私は、すぐに頭を下げ、弁解しようとした。
「セレフィーナ殿下。わたくしは、王子殿下の秘書として、書類の整理をしておりました。王子殿下からのご命令で…」
私が言葉を続けようとすると、彼女は私の言葉を遮った。
「黙りなさい!王子殿下があなたに命じるはずがないでしょう!あなたは、ただのメイドよ!王子の傍に仕えるなど、烏滸がましいにもほどがあるわ!」
彼女の声は、甲高く、執務室に響き渡った。
その言葉は、私の心を深く抉った。
ただのメイド。
その言葉が、私の胸に重くのしかかる。
彼女は、私の存在そのものを否定しようとしているかのようだった。
私の心臓は、激しく脈打っていた。
頬が熱くなり、全身が震える。
屈辱と、悲しみと、そして、言いようのない怒りが、私の心を支配した。
しかし、私は何も言い返すことができなかった。
彼女は、隣国の王女。
私は、ただのメイド。
この身分の差は、あまりにも大きい。
セレフィーナ王女は、私に近づくと、私の手から書類を乱暴に奪い取った。
そして、その書類を床にばら撒いた。
私の心臓は、さらに激しく脈打った。
彼女は、私を睨みつけると、冷たい声で言った。
「これからは、私の許可なく、この執務室に入らないこと。王子殿下の傍に近づくことも、許さないわ。分かった?」
彼女の言葉は、私の心を深く切り裂いた。
彼女は、私から王子殿下を奪おうとしている。
私の、唯一の、大切な場所を奪おうとしている。
その事実に、私は絶望した。
私の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
しかし、私は必死でそれを堪えた。
彼女の前で、弱い姿を見せるわけにはいかない。
私は、静かに頭を下げた。
「かしこまりました。セレフィーナ殿下」
私の声は、かすれていた。
セレフィーナ王女は、私の返答に満足したかのように、鼻で笑った。
そして、くるりと踵を返し、執務室を出て行った。
彼女が去った後、私はその場に立ち尽くしていた。
床に散らばった書類。
それは、まるで、私の心そのもののようだった。
バラバラに砕け散り、もう元には戻らない。
涙が、頬を伝って流れ落ちる。
私は、その場で膝から崩れ落ち、静かに泣き続けた。
この王宮で、私の居場所は、もうないのかもしれない。
そう思うと、心が凍り付くようだった。
その日の夜、私は自室のベッドで、静かに一人、泣き続けた。
セレフィーナ王女の言葉が、私の頭の中で何度も繰り返される。
「ただのメイド」。
その言葉が、私の心を深く抉る。
私は、一体、彼の傍で、何ができるのだろう。
私には、彼を守る力もない。
彼の重圧を分かち合うこともできない。
ただ、彼の足手まといになるだけなのではないか。
そんな思いが、私の心を支配し始めた。
彼の隣に立つ資格は、私にはない。
彼の未来を照らす光となれるのは、高貴な身分の女性だけだ。
その事実が、私の胸を締め付けた。
どれほど時間が経っただろうか。
涙が枯れ果て、私はようやく冷静さを取り戻した。
しかし、心に去来するのは、絶望だけではない。
たとえ、この感情が報われなくても、私は彼の傍にいたい。
彼を支えたい。
彼の力になりたい。
その一心で、私は再び立ち上がった。
この感情は、誰にも知られてはならない。
そう、私は心の中で強く誓った。
秘めたる恋心を、誰にも悟られることなく、私は彼の傍に仕え続ける。
それが、私にできる、唯一のことだから。
そして、いつか、彼が本当に愛する人を見つけた時、心から彼の幸せを願えるよう、今のうちに心を整理しなければならないと、強く思った。
それは、私にとって、あまりにも辛い覚悟だった。
私は、鏡に映る自分の顔を見た。
涙で濡れた頬に、決意の光が宿っている。
私は、どんな困難にも負けない。
彼の傍にいるために、私は強くなる。
そう、心の中で強く誓った。
翌日、私はいつも通り、王子の執務室へと向かった。
扉の前で、一瞬、ためらいが生じた。
セレフィーナ王女の言葉が、脳裏をよぎる。
しかし、私は、その言葉を振り払い、扉に手をかけた。
扉を開けると、王子がすでに執務室に座っていた。
彼の顔には、疲労の色が浮かんでいる。
しかし、その瞳は、いつものように、未来を見据える強い光を宿していた。
私は、彼に深々と頭を下げた。
「殿下、おはようございます」
私が言うと、王子は顔を上げた。
彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。
その視線に、私の心臓は小さく跳ねた。
彼は、私に微笑みかけた。
そして、その口から、思いがけない言葉が紡がれた。
「ロゼ、おはよう。今日は一段と顔色が良く見えるな。お前は今日も可愛いな」
王子の言葉は、私の心を直撃した。
「可愛い」。
その言葉が、私の頭の中を何度も反響する。
私の頬は、一瞬にして火が付いたように熱くなり、耳まで真っ赤になったのが自分でも分かった。
心臓が激しく脈打ち、体が微かに震える。
どうして、彼がそんな言葉を私に?
これは、からかっているのだろうか。
それとも、メイドとしての私を褒めているのだろうか。
様々な思いが頭の中を駆け巡り、私は彼の言葉の真意を測りかねていた。
まさか、彼が私に、そのような個人的な感情を抱いているはずがない。
そう自分に言い聞かせるけれど、胸の高鳴りは収まらない。
私は、恥ずかしさと混乱で、彼に視線を合わせることができず、ただ俯くことしかできなかった。
こんなにも嬉しいのに、こんなにも恥ずかしい。
彼の言葉が、私の心に甘い毒のように染み渡っていく。
「可愛い」なんて、私のようなメイドに、そんな言葉を。
顔が熱くて、彼の顔をまともに見ることができない。
それでも、彼の視線が、私を優しく見つめているのを感じた。
「殿下…わたくしは、ただ、殿下のお役に立ちたくて…」
私は、精一杯の平静を装い、そう答えるのがやっとだった。
私の声は、かすかに震えていた。
王子は、私の言葉に、満足そうに頷いた。
そして、再び書類に視線を戻した。
王宮の新しい朝は、セレフィーナ王女の存在によって、以前とは違う緊張感を伴っていた。
しかし、私は、王子の傍で、この新たな試練に立ち向かう覚悟を決めていた。
私の心の中では、彼への深い愛情と、報われない恋の苦しみが、静かに、しかし深く響き渡っていた。
この感情と、私はどう向き合っていけばいいのだろう。
答えは、まだ見つからない。




