第3話
リオネル王子の後を追って、私は第二皇妃ベアトリスの宮殿へと足を踏み入れた。
王宮の奥まった場所に位置するその宮殿は、メインの王宮とは打って変わって、どこか寂寥とした雰囲気に包まれていた。
磨き上げられたはずの石畳にはわずかな苔が見られ、手入れが行き届いていない庭園の草花は、どこか精彩を欠いていた。
メインの宮殿が放つ華やかな光とは対照的に、ここは薄暗く、人々の関心が向けられていないことを如実に物語っていた。
窓には埃がうっすらと積もり、装飾は簡素で、調度品にも生気が感じられない。
掃除が行き届いていないわけではないのに、人気のなさが、その空間を一層冷たく、そしてどこか孤独に感じさせていた。
まるで、時間が止まってしまったかのような、あるいは忘れ去られてしまったかのような静けさが、宮殿全体を覆っている。
その静寂は、私の心臓の音さえも、妙に大きく響かせるほどだった。
この静けさの裏には、きっと深い孤独が隠されているのだろうと感じた。
(本当に、誰も寄り付かない場所なのね……)
心の声が、警戒を強める。
王宮内では「嫌われ者の第二皇妃」と噂されていたベアトリス。
その言葉が、この宮殿の荒涼とした空気を物語っていた。
私の故郷の王宮であれば、王族の住まいはどこも豪華絢爛で、常に人の気配に満ち溢れ、使用人たちの活気ある声が響き渡っていた。
侍女たちの明るい笑い声や、騎士たちの重厚な足音、そして子供たちの無邪気な声が、常に宮殿に満ちていたものよ。
しかし、ここはまるで、生命の息吹が失われてしまったかのような静けさに包まれていた。
その静けさは、私自身の失われた故郷の記憶を呼び起こすようで、胸の奥が締め付けられる思いだった。
私もまた、かつては輝く王宮の住人だった。
その輝きが、今は遠い過去の夢のようだった。
リオネル王子は、躊躇なく奥へと進んでいく。
その足取りは、私という存在が、彼にとっては単なる「面白いもの」を見つけた延長線上に過ぎないことを雄弁に物語っていた。
彼の視線は、決して私に温かい関心を向けるものではなく、まるで彼が連れてきた一匹の珍しい動物でも見るかのような、冷たい好奇心に満ちていた。
その冷たい視線が、私を道具として扱っていることを理解させてくれる。
彼の表情からは一切の感情が読み取れず、その無関心さが、私を深く突き刺した。
それでも、私は彼に逆らうことはできなかった。
かつての王女として、そして今はメイドとして、私は理不尽な運命を受け入れるしかなかった。
その経験が、私に沈黙を強いていたのよ。
やがて、私たちは宮殿の一室へと到着した。
そこは、応接間にしては簡素で、私室にしては広すぎる空間だった。
部屋の中央には、年代物のソファが置かれ、その脇には、無造作に積み上げられた書物が散乱している。
高貴な方が暮らす場所とは思えないほど、生活感に溢れていた。
その散らかった様子は、この部屋の主が、外の世界の秩序や形式にあまり関心がないことを示しているようだった。
埃っぽい空気と、古びた紙の匂いが混じり合い、どこか懐かしいような、しかし同時に寂しいような独特の香りがした。
壁には、一枚の絵も飾られておらず、その空白が、この部屋の主の心の空白を映し出しているかのようだった。
「ベアトリス、この者が今日からお仕えするロゼだ」
リオネル王子の声は、静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
その声は、命令であり、決定であり、そこに議論の余地はなかった。
まるで、この部屋の主権が、全て彼の掌中にあるかのように。
その声に促されるように、私は一歩前に出た。
私の心臓は、警鐘のように激しく鳴り響いていた。
これから始まるであろう新しい生活への不安と、この場所に潜むであろう真実への好奇心が、私の胸をざわつかせた。
ソファに座っていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。
それが、第二皇妃ベアトリスだった。
彼女は、王宮の噂とは裏腹に、驚くほどに美しかった。
亜麻色の髪は、陽の光を受けて柔らかく輝き、翡翠色の瞳は、どこか憂いを帯びていた。
その容姿は、まるで絵画から抜け出してきたかのように完璧だった。
しかし、その顔には、深い疲労の色が刻まれており、唇は固く結ばれている。
噂の「気性の荒さ」とは、かけ離れた印象だった。
むしろ、彼女の瞳には、長年の苦痛と孤独が深く刻まれているように見えた。
その美しさは、まるで枯れかけた花のように、儚く、そして悲しげだった。
彼女の視線は、私を捕らえず、どこか遠くを見ているかのようだった。
彼女の纏うドレスは、最高級のシルクで作られているものの、どこか着慣れない様子で、王宮の他の貴婦人たちのような華やかさはなかった。
豪華な装飾が、かえって彼女の細い肩に重くのしかかっているかのようだった。
まるで、彼女自身がその豪華な装飾に押し潰されそうになっているかのようだった。
その姿は、まるで、不本意に飾られた人形のようで、痛々しささえ感じさせた。
彼女の指先は、僅かに震えているように見えた。
ベアトリスは、私を一瞥すると、すぐに視線をリオネル王子に戻した。
その視線には、わずかな諦めと、そして強い拒絶の感情が読み取れた。
彼女の視線は、リオネル王子に対して向けられており、私への関心は皆無に等しかった。
まるで、私という存在が、この部屋に置かれた一つの物としか認識されていないかのようだった。
彼女の口元には、諦めの笑みが浮かんでいるように見えた。
「……また、あなたのお気に入りを私のもとへ寄越すのか、リオネル。
もう結構だわ。
どうせ、すぐに辞めてしまうでしょう?」
彼女の声は、か細く、そしてどこか諦めに満ちていた。
その言葉には、何度も同じような経験をしてきた疲弊が滲み出ている。
彼女の瞳は、私を軽蔑するのではなく、ただ「また同じことの繰り返しだ」とでも言いたげに、諦念を帯びていた。
まるで、過去の苦い経験が、彼女の心を深く縛り付けているかのようだった。
その声は、この宮殿の静けさに吸い込まれていくように、弱々しく響いた。
その声には、助けを求めるような響きは一切なく、ただただ虚しさが漂っていた。
リオネル王子は、ベアトリスの言葉に眉一つ動かさなかった。
彼の表情は、まるで、この状況を、どこか冷めた目で観察しているかのように見えた。
彼は、あくまで事務的に、そして冷静に言い放った。
「母上がお決めになったことだ。
私もこれ以上、口を挟むことはできない」
その言葉は、冷たく、そしてどこか突き放すような響きがあった。
彼の口から発せられた「母上」という言葉は、形式的な敬意を表しているものの、その裏には、複雑な感情が隠されているように感じられた。
実の母ではないにもかかわらず、その呼び名を使う彼の意図は計り知れない。
まるで、この状況を、リオネル王子自身が楽しんでいるかのように。
彼は、この宮殿の冷遇と、ベアトリスの苦境を、どこか冷めた目で見ているようだった。
その言葉には、親子の情など微塵も感じられず、ただ義務的な響きがあるだけだった。
彼の瞳の奥には、計算された冷酷さが宿っているように見えた。
それは、彼が王となるための、ある種の訓練なのかもしれない。
ベアトリスは、リオネル王子の言葉に、深くため息をついた。
その溜息は、宮殿の重い空気に溶け込み、私の心を締め付けた。
そして、再び私へと視線を向けた。
その瞳は、もはや私を品定めするようなものではなく、ただ、どうすればいいのか分からないという戸惑いを秘めていた。
彼女の目には、私への興味よりも、自らの運命に対する諦めが色濃く表れていた。
彼女は、まるで私に助けを求めるかのように、しかしその言葉は紡がれないまま、ただただ視線だけで訴えかけているかのようだった。
「…好きにしなさい。
どうせ、あなたも長続きしないでしょうから」
彼女の言葉は、諦念に満ちていた。
その視線は、私がすぐに立ち去ってしまうことを予期しているかのようだった。
まるで、私の存在を、一時の気の迷いか何かとしか思っていないかのようだった。
彼女の口から紡がれる言葉の一つ一つが、彼女が背負う重い鎖を、私に感じさせていた。
その言葉の奥には、「どうせ裏切られる」という深い絶望が隠されているように聞こえた。
(これでいいのよ。
目立たない場所で、身を潜めるには、これ以上の場所はないわ。)
私は心の中でそう呟いた。
王子の侍女になることは、私にとって危険な賭けだった。
いつ私の身分が露見するか、常に不安に苛まれるだろう。
だが、この宮殿ならば、私の過去が露見する可能性は低いだろう。
王宮の華やかな社交界から隔絶されたこの場所こそ、私にとっての「安全な隠れ家」になるかもしれない。
少なくとも、多くの貴族の目に触れる王子直属の侍女になるよりは、はるかに安全だ。
人々の噂話の対象になりにくいこの場所は、私にとっての最後の砦となるかもしれない。
この孤独な場所こそが、にとっては最も安全な場所なのかもしれない。
「はい、ベアトリス様。
このロゼ、精一杯お仕えさせていただきます」
私は深くお辞儀をした。
頭を下げた姿勢のまま、私の両手は、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
その手のひらは、希望と、そして不安が混じり合った汗でしっとりと湿っている。
希望は、この場所で新たな生活を築けるかもしれないという微かな光。
不安は、この孤独な宮殿で、私が本当に生き残れるのかという疑念。
それでも、私はこのチャンスに賭けるしかなかった。
私は、この場所で、何かを変えられるかもしれないという、漠然とした予感に駆られていたのよ。
リオネル王子は、私の返事には一切興味を示さず、すぐにその場を立ち去ろうとした。
彼の背中は、あっという間に部屋の入り口へと消えていく。
その足音は、宮殿の静寂の中に吸い込まれ、あっという間に消え去った。
私は、静かにその背中を見送った。
彼の冷酷なまでの無関心は、私にとってかえって都合が良いのかもしれない。
彼の存在は、まるで嵐の後の静けさのように、全てを置き去りにして去っていった。
ベアトリスは、何も言わず、再びソファに深く身を沈めた。
彼女の翡翠色の瞳は、窓の外の空をぼんやりと見つめている。
その表情は、まるで、世界中の重みを一人で背負っているかのように、深く憂いを帯びていた。
彼女の肩は、小さく震えているように見えた。
その姿は、私自身の過去と重なり、胸の奥が締め付けられるようだった。
かつて私も、全てを失い、絶望の淵に立たされたことがある。
その時の孤独と、無力感は、今でも私の心に深く刻まれている。
彼女の背後から差し込む午後の光が、彼女の儚さを一層際立たせていた。
私は、彼女の隣にそっと歩み寄った。
そして、散乱した書物の中から、一冊の絵本を見つけた。
それは、色褪せた表紙の、古びた絵本だった。
その絵本は、大切に読み込まれた形跡があり、ページは擦り切れ、ところどころに小さなシミがある。
しかし、その古さにもかかわらず、そこには温かい愛情が込められているかのようだった。
表紙には、小さな花が描かれており、その花の色は、私の故郷で咲いていた花に似ていた。
その絵本は、この冷たく閉ざされた宮殿の中で、唯一温かみのあるもののように感じられた。
(この宮殿が、本当に誰も寄り付かない場所なら、私がその理由を見つけ出す時よ。)
私は、絵本を手に取り、ベアトリスの顔をそっと見上げた。
彼女の横顔は、あまりにも寂しげだった。
この冷遇された宮殿で、私の新たな生活が始まる。
そして、この場所で、私は第二皇妃ベアトリスの真実を知ることになるだろう。
それは、想像よりも、ずっと複雑で、そして悲しい真実だったのだ。
そして、その真実が、私自身の運命をも大きく変えていくことになることを、この時の私はまだ知る由もなかった。
この冷たい宮殿の奥で、私とベアトリスの間に、予期せぬ絆が芽生え始めることになるのだ。
それは、単なる主従の関係を超え、互いを支え合う、かけがえのない関係へと発展していく。
この絵本が、その始まりを告げるかのように、私の手の中で静かに輝いていた。




