第29話
隣国との外交交渉は、一進一退の攻防が続いていた。
王宮内は、依然として緊張感に包まれている。
王子殿下の執務室には、連日、国内外の情勢に関する報告書が山と積まれ、私はその処理に追われていた。
隣国の要求は強硬になり、平和的な解決の道は、ますます困難に見えた。
重臣たちの間でも、意見の対立は深まるばかりだった。
一部の者は、隣国が要求を受け入れてでも平和を維持すべきだと主張し、また一部の者は、徹底抗戦を唱えていた。
その度に、会議室からは激しい議論の声が漏れ聞こえてくる。
王子は、その激しい意見の対立の中で、常に冷静さを保っていた。
彼は、双方の意見に耳を傾けながらも、決して感情に流されることはなかった。
彼の目は、常に国の未来を深く見据え、最善の選択肢を探している。
私は、彼の傍で、その困難な状況を目の当たりにするたび、彼の王としての器の大きさと、この国への深い愛情を改めて感じていた。
その姿は、私にとって、ただの主君という存在を超え、心の奥底で深く慕う、かけがえのない人となっていた。
私の胸は、彼の困難に共鳴するように痛み、同時に、彼を支えたいという強い思いで満たされていた。
この人ならば、きっとこの国を正しい道へと導いてくれる。
そう、私は心から信じていた。
ある夜遅く、執務室で王子と二人きりになった時のことだ。
私は、疲れ果てた彼の顔に、そっとリラックス効果のある香油を置いた。
彼の指が、私の指に触れる。
その温かさに、私の心臓は小さく跳ねた。
触れた瞬間に、熱い電流が全身を駆け巡るような錯覚に陥る。
私は、慌てて手を離そうとしたが、彼は私の手をそっと握った。
彼の指が、私の手の甲を優しく撫でる。
その感触に、私の心臓はさらに激しく脈打った。
頬が、みるみるうちに熱くなっていくのがわかる。
まるで、全身の血液が顔に集中しているかのようだった。
息をするのも苦しく、鼓動が耳元で大きく鳴り響いている。
こんなにも、彼の指先一つで心が乱れる自分に、私は驚きを隠せないでいた。
これは、メイドとしてあってはならない感情。
そう自分に言い聞かせるけれど、募る想いは抑えようがない。
「ロゼ、いつもありがとう。お前がいると、この暗い執務室も、まるで花が咲いたかのように明るく感じる。本当に、お前の存在が俺の支えだ」
王子の声は、静かで、その中には深い疲労と、そして私への温かい感謝が込められていた。
彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。
その琥珀色の瞳は、深く、私を吸い込むかのように輝いている。
私の心臓は、さらに激しく脈打った。
彼の言葉は、私の心を深く揺さぶる。
これは、一体どういう意味なのだろう。
感謝の言葉。
信頼の言葉。
それとも、もっと深い、個人的な感情なのだろうか。
私の頭は混乱し、彼の言葉の真意を捉えることができなかった。
ただ、彼の温かい手が私の手を握り続ける感覚だけが、現実だった。
照れと困惑で、私は彼の目を見ることができず、ただ俯くことしかできない。
このままでは、私の感情が彼に悟られてしまうかもしれない。
そう思うと、さらに心臓が跳ね上がった。
「殿下…わたくしは、ただのメイドでございます故…」
私は、精一杯の平静を装い、そう答えるのがやっとだった。
私の声は、かすかに震えていた。
彼の言葉が、私の中で新しい感情の種を蒔いたことは確かだった。
王子は、私の言葉に、少しだけ眉を下げた。
その表情は、どこか寂しそうにも見えたが、すぐに元の真剣な表情に戻った。
彼は、私の手をゆっくりと離し、再び書類に視線を向けた。
その瞬間、私の心には、安堵と、そして言いようのない寂しさが入り混じった。
もう少しだけ、彼の手の温もりを感じていたかった。
しかし、同時に、これ以上は危険だという理性も働いていた。
私は、彼の傍で、ただ静かに佇んでいた。
彼の言葉の真意を、私はまだ完全に理解できないでいたが、それでも、彼の傍にいることの幸福を噛み締めていた。
この人のためなら、どんな困難も乗り越えられる。
そう、私は心の中で強く誓った。
しかし、私の心には、彼の言葉が深く刻み込まれていた。
「お前がいると、この暗い執務室も、まるで花が咲いたかのように明るく感じる」
その言葉が、まるで呪文のように、私の心の中で何度も繰り返される。
それは、私にとって、どんな褒め言葉よりも、どんな宝物よりも、甘く響いた。
その翌日、王宮に隣国から一通の親書が届けられた。
その内容は、これまでの交渉とは一変し、驚くべきものだった。
隣国は、鉱山の共同開発と貿易路の管理要求を撤回し、その代わりに、王子殿下の婚約者となる女性を、隣国の王族の中から迎えるという提案をしてきたのだ。
この報せは、王宮全体に衝撃を与えた。
国王陛下も、重臣たちも、誰もがその提案の意図を測りかねていた。
それは、平和を求めるための提案なのか、それとも、新たな策略なのか。
重臣たちの間では、再び激しい議論が交わされた。
私は、王子の傍で、その親書の内容を聞き、心臓が凍り付くような感覚に襲われた。
婚約者。
その言葉が、私の頭の中を激しく駆け巡る。
そして、目の前が真っ暗になったような気がした。
王子の顔は、その報せを聞いても、依然として冷静だった。
しかし、彼の瞳の奥には、わずかな動揺の色が浮かんでいるのが見て取れた。
彼は、親書をじっと見つめ、その内容を深く読み解こうとしていた。
国王陛下は、王子の意見を求めた。
「アルベール、お前はどう思う」
国王陛下の声は、重く、この問題の重大さを物語っていた。
王子は、深く息を吐き、静かに答えた。
「父上。この提案は、隣国の真の意図を探る上で、重要なものとなるでしょう。しかし、同時に、我が国の未来を大きく左右する決断となります。慎重に検討すべきかと」
王子の言葉は、外交的な配慮に満ちたものだった。
彼は、決して感情的になることなく、常に冷静な判断を下そうとしている。
しかし、私の心の中では、激しい嵐が巻き起こっていた。
婚約者。
それは、彼が別の女性と結ばれるということ。
彼が、私のものではない、他の誰かのものになるということ。
その事実に、私の胸は締め付けられ、息が苦しくなる。
今まで、心の奥底に押し込めていたはずの、彼への恋心が、一気に溢れ出しそうになるのを必死で抑えた。
私の頬は、熱くなり、全身が震える。
誰にも、この感情を見透かされてはならない。
そう、私は自分に言い聞かせた。
その日の夜、王子は執務室で、一人、窓の外を眺めていた。
満月が、冷たく、そしてどこか寂しげに輝いている。
私は、彼の傍で、沈黙の時間を共有していた。
彼の背中は、いつもよりも大きく見え、その肩には、計り知れない重圧がのしかかっているようだった。
婚約者という選択。
それは、彼にとって、この国の平和を勝ち取るための、犠牲なのだろうか。
そのことを考えると、胸が締め付けられるようだった。
彼の孤独を、私は少しでも分かち合いたい。
彼の痛みを、少しでも和らげたい。
その思いが、私の心を突き動かした。
「殿下…」
私が声をかけると、王子はゆっくりと振り返った。
彼の瞳は、月の光を映し出し、どこか遠い場所を見つめるような響きを持っていた。
その表情は、普段の冷静さとは異なり、微かに弱々しさが見えるようだった。
彼のその珍しい表情に、私の心はざわめいた。
「ロゼ…俺は、本当にこの国を守れるのだろうか」
王子の声は、静かだが、その中には深い苦悩が込められていた。
彼の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
彼が、こんなにも弱音を吐くのは、初めてだった。
その言葉は、私にとって、彼がどれほど追い詰められているかを物語っていた。
彼の孤独を、私は少しでも分かち合いたい。
彼の痛みを、少しでも和らげたい。
その思いが、私の心を突き動かした。
私は、ためらうことなく、王子の手をそっと握った。
彼の指は、冷たく、そしてかすかに震えていた。
その冷たさが、彼の苦悩を物語っているようだった。
私は、自分の手のひらで、彼の指を優しく包み込む。
その温もりが、少しでも彼に届くようにと願った。
彼の手に触れた瞬間、私の中に秘めていた感情が、一気に溢れ出しそうになった。
熱いものがこみ上げ、喉が詰まる。
私の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
彼に、こんな表情をさせたくない。
私の全てを賭けてでも、彼を支えたい。
そう、心の中で強く願った。
「殿下は、きっとできます。殿下は、この国で一番賢く、そして民を愛しておられます。わたくしは、殿下を信じております。殿下がいらっしゃるから、わたくしはここにいるのです。殿下が光ならば、わたくしは影となり、寄り添いましょう」
私の言葉は、精一杯の真心を込めたものだった。
それは、彼への信頼であり、私の存在意義そのものでもある。
彼の瞳が、私の言葉に反応するように、わずかに揺れた。
彼は、私の手を握り返し、その力を強く込めた。
彼のその強い握り返しに、私の心臓は激しく高鳴った。
彼の指が、私の手の甲を優しく撫でる。
その度に、私の頬は、火が付いたように熱くなる。
視線を合わせることができず、ただ俯くことしかできない。
こんなにも、彼と肌を触れ合っているのに、彼が、遠い存在になってしまうかもしれないという不安が、私の心を締め付けた。
「ロゼ…お前は、まるで夜空に瞬く星のようだ。俺がどんなに暗闇にいても、お前はいつも、かすかな光で俺を照らしてくれる。お前がいなければ、俺は、この道を歩めない」
王子の声は、震えていた。
彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。
その眼差しには、揺るぎない信頼と、そして、まるで甘い告白のように、私の心をかき乱す深い感情が宿っているように見えた。
私の頬は、火が付いたように熱くなり、心臓は激しく脈打っていた。
彼の言葉は、私の心に深く染み渡り、私の中に秘められていた全ての感情を揺さぶった。
彼が私を「夜空に瞬く星のよう」と呼んでくれた。
その言葉の重みに、私はただただ感動していたが、同時に、その意味を考えて、羞恥と戸惑いで身動きが取れないでいた。
これが、彼にとって、どのような意味を持つ言葉なのか。
私は、彼の視線から逃れるように、そっと俯いた。
こんなにも嬉しいのに、こんなにも苦しい。
彼の温かい手が、私の手を包み込んでいる。
その温もりが、私の中に、新しい感情の嵐を巻き起こしていた。
私の頭は混乱し、彼の言葉の真意を捉えることができなかった。
ただ、彼の温かい手が私の手を握り続ける感覚だけが、現実だった。
このままでは、私の感情が彼に悟られてしまうかもしれない。
そう思うと、さらに心臓が跳ね上がった。
私は、彼の手を握り返すことしかできなかった。
翌日、王子は隣国からの婚約提案について、重臣たちとの会議を重ねた。
私は、その会議に同席し、彼の決断を見守った。
重臣たちは、婚約を受け入れることで得られる平和と、拒否した場合の戦争のリスクについて、様々な意見をぶつけ合った。
議論は白熱し、結論はなかなか出なかった。
王子は、それぞれの意見に耳を傾けながら、慎重に、しかし決然とした表情で考え込んでいた。
彼の心の中では、この国の未来と、彼自身の幸福が、天秤にかけられているのだろう。
その姿を見るたび、私の胸は締め付けられるようだった。
そして、会議の終盤、王子は、静かに口を開いた。
彼の声は、会議室に響き渡り、全ての重臣たちの注目を集めた。
「父上、重臣の皆様。この婚約の提案について、私は…」
王子は、一度言葉を区切り、私の方へと視線を向けた。
その視線が、私に辿り着いた瞬間、私の心臓は激しく脈打った。
まるで、彼の言葉が、私に何かを問いかけているかのようだった。
彼の瞳の奥には、迷いと、そして何かを決意したような、複雑な光が宿っている。
私は、彼の視線を受け止め、ただ静かに、彼の次の言葉を待った。
私の心の中では、彼の決断が、私の運命をも大きく左右するであろうという、漠然とした予感が広がっていた。
彼が、隣国の提案を受け入れるのか、それとも拒否するのか。
その選択が、この国の未来を、そして私たち二人の関係を、大きく変えることになるだろう。
私は、息を殺して、彼の次の言葉を待った。
王宮の空は、その日も重く、未来の行方を示すかのようにどんよりと曇っていた。
私は、ただ、彼のために、彼の選んだ道を、共に歩んでいく覚悟を決めていた。
たとえ、それがどのような結末を迎えようとも。
私は、ただ、彼のために、彼の傍に立ち続けることしかできないのだ。
その日の会議は、時間切れとなり、結論は持ち越しとなった。
王子は、重臣たちに深々と頭を下げ、会議室を後にした。
私も、彼の後ろを追うように、会議室を出た。
彼の背中を見つめながら、私は心の中で静かに祈った。
殿下が、どうか、後悔のない選択をしてくださいますように。
そして、その選択が、この国に真の平和をもたらしますように。
私の心は、彼の苦悩と、未来への不安でいっぱいだった。
それでも、私は、彼を信じている。
彼の選ぶ道ならば、きっと正しいと。
私は、彼の背中を見つめながら、固く唇を噛みしめた。




