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第27話


王子殿下が隣国への使節団として旅立ってから、もう数日が経った。

王宮は、彼の出発前とは打って変わって、どこか静寂に包まれている。

彼がいないだけで、こんなにも空気が変わるものなのかと、私は毎日感じていた。

王子の執務室は、彼の出発前に私が完璧に整えたまま、ひっそりと佇んでいる。

机の上には、彼が読みかけだった書類が積み重ねられ、その一つ一つに彼の指の跡が残っているようだった。

彼の香りも、まだ微かに室内に漂っている。

私は、毎日その執務室を訪れ、窓を開けて空気を入れ替える。

そして、彼が座っていた椅子にそっと触れ、彼の温もりを確かめるように、指でなぞった。

そのたびに、胸の奥が、温かく、そして少しだけ切なくなるのを感じる。

彼が遠い隣国で、無事に交渉を進めているだろうか。

危険な目に遭ってはいないだろうか。

不安が、私の心を締め付けた。

王宮での私の日々は、以前にも増して単調に感じられた。

王子の秘書としての業務は、彼が不在の間、大幅に減っていたからだ。

日中は、通常のメイド業務をこなし、夜はひっそりと彼の執務室で過ごすことが多くなった。

彼の不在を痛感するたび、私は彼がどれほど私の中で大きな存在になっていたかを思い知らされる。

彼が傍にいることが、私にとってどれほど当たり前で、そして大切なことだったのか。

今になって、そのことに気づかされる。

これは、メイドとしてあるまじき感情だろうか。

主君を恋しく思うなど、あってはならないことだ。

そう自分に言い聞かせるけれど、心の奥底で募る思いは、抑えようがなかった。

私は、鏡に映る自分の顔を見るたび、少しだけ頬が赤くなっていることに気づき、慌てて視線を逸らす。

誰かに、この感情を見透かされてしまうのではないかと、密かに怯えていた。

ある日の午後、王宮の庭園を散策していた時のことだ。

色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。

噴水の水音が心地よく、心が安らぐはずなのに、私の心はどこか落ち着かなかった。

ふと、王子の執務室の窓が目に入った。

あそこには、もう彼が座っていることはない。

その事実が、胸に重くのしかかった。

私は、庭園のベンチに腰掛け、空を見上げた。

青く広がる空には、白い雲がゆっくりと流れていく。

王子も、今、この空を見上げているだろうか。

遠い隣国で、彼も私と同じように、この空を見ているのだろうか。

そんなことを考えると、彼のことをもっと近くに感じられるような気がした。

その時、一人の若い侍女が私の隣に座ってきた。

彼女は、以前、私が王子の専属メイドになる前、共に働いていた友人の一人だった。

「ロゼ、元気?最近、あまり顔を見ないから心配してたのよ」

彼女の優しい声に、私は少しだけ微笑んだ。

「うん、元気だよ。ただ、王子殿下がご不在だから、少し時間ができてしまって」

私が答えると、彼女は少し驚いたような顔をした。

「そうよね。王子殿下って、本当に仕事熱心だもの。でも、ロゼも大変だったでしょう?いつも王子殿下の傍で、忙しそうにしていたものね」

彼女の言葉に、私は頷いた。

確かに、毎日が多忙を極めていた。

しかし、その忙しさこそが、私にとっての充実だったのだ。

「うん。でも、殿下のお役に立てることが、私にとって何よりも喜びだから」

私がそう言うと、彼女はふふっと笑った。

「ロゼって、本当に真面目ね。でも、わかるわ。王子殿下って、すごく素敵だもの。賢くて、優しくて、それに、すごく頼りになる。王宮の侍女たちの間でも、王子殿下の話で持ちきりなのよ」

彼女の言葉に、私は内心ドキリとした。

他の侍女たちも、王子をそう見ているのか。

それは、当然のことだろう。

彼ほどの高潔な人物は、そうはいない。

しかし、なぜか胸の奥が、チクリと痛んだ。

これは、嫉妬なのだろうか。

そんな感情を抱く資格など、私にはないはずなのに。

私は、慌てて表情を取り繕った。

「そう…だよね。殿下は、本当に素晴らしい方だから」

私の言葉は、どこかぎこちなかった。

侍女は、私の変化に気づくことなく、話を続けた。

「ねえ、ロゼ。王子殿下って、どんな女性が好みなんだろう?やっぱり、公爵令嬢とか、高貴な身分の方なのかな」

彼女の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。

王子殿下の好み。

そんなことを、考えたこともなかった。

いや、考えないようにしていたのかもしれない。

私のような身分の人間が、そんなことを考えること自体、許されないことだと思っていたから。

「さ、さあ…私には、わからないな」

私の声は、わずかに震えていた。

頬が熱くなり、顔が紅潮しているのが自分でもわかる。

侍女は、私の様子に気づかないまま、夢見るような表情で言った。

「もし、私が王子殿下の妻になれたら…なんて、夢のような話よね。でも、王宮の誰もが、そう思っているわ」

彼女の言葉が、私の心に深く突き刺さる。

王宮の誰もが、そう思っている。

当たり前のことだ。

王子殿下は、この国の未来を背負う方なのだから。

高貴な身分の女性と結ばれ、この国を繁栄させるのが、彼の使命なのだ。

私の心の中で、理性と感情が激しくぶつかり合った。

分かっている。

分かっているけれど、どうしても、心の奥底で湧き上がるこの感情を抑えることができない。

胸が締め付けられ、息が苦しくなる。

私は、彼女に悟られないよう、必死に平静を装った。

「そう…だね。殿下には、素晴らしいお相手が見つかることを、私も願ってるよ」

私の声は、かすれていた。

その言葉は、私の本心とは裏腹だった。

私の心の中では、矛盾した感情が渦巻いていた。

彼の幸せを願う気持ちと、彼を独り占めしたいという、決して許されない独占欲。

私は、そっとベンチから立ち上がり、彼女に別れを告げた。

これ以上、ここにいるのは耐えられなかった。

庭園の美しい花々も、今は私の目には、霞んで見えた。

その夜、私は自室のベッドで、静かに一人、涙を流していた。

なぜ、こんなにも心が苦しいのだろう。

なぜ、こんなにも彼を想ってしまうのだろう。

この感情は、一体何なのだろう。

メイドとしての忠誠心だけではない、もっと深く、そして個人的な感情。

それは、まるで深い井戸の底に沈んでいるかのように、私の中で渦巻いている。

そして、その感情の正体に、私は気づかないふりをしてきたのだ。

気づいてしまえば、この関係が壊れてしまうかもしれないと、恐れていたから。

しかし、もう、これ以上、見て見ぬふりはできない。

私は、彼を、愛している。

その事実が、私の心に、激しい波紋を広げた。

同時に、その感情が、どれほど許されないものかという現実が、私を打ちのめした。

私は、たかが一介のメイド。

彼は、この国の王子。

住む世界が違う。

決して、交わることのない運命。

その事実が、私の胸を締め付け、涙が止まらなかった。

どれほど時間が経っただろうか。

涙が枯れ果て、私はようやく冷静さを取り戻した。

しかし、心に去来するのは、絶望だけではない。

たとえ、この感情が報われなくても、私は彼の傍にいたい。

彼を支えたい。

彼の力になりたい。

その一心で、私は再び立ち上がった。

この感情は、誰にも知られてはならない。

そう、私は心の中で強く誓った。

秘めたる恋心を、誰にも悟られることなく、私は彼の傍に仕え続ける。

それが、私にできる、唯一のことだから。

そして、いつか、彼が本当に愛する人を見つけた時、心から彼の幸せを願えるよう、今のうちに心を整理しなければならないと、強く思った。

それは、私にとって、あまりにも辛い覚悟だった。

数日後、王都に隣国からの使節団が到着したという報が入った。

私の心臓は、大きく跳ねた。

王子が、戻ってきたのだ。

私は、すぐさま王宮の門へと駆けつけた。

門前には、既に多くの人々が集まっている。

重臣たち、そして他のメイドや侍女たちも、皆、王子の帰還を今か今かと待ち望んでいた。

その中には、先日私に話しかけてきた侍女の姿もあった。

彼女は、期待に満ちた瞳で、門の向こうを見つめている。

私は、彼女の隣に立つのを躊躇った。

自分の感情が、顔に出てしまわないか不安だったからだ。

やがて、遠くから馬の蹄の音が聞こえてきた。

その音は、次第に大きくなり、人々の中から歓声が上がる。

そして、門の向こうから、王子が乗る馬が現れた。

彼の姿を見つけると、私の胸は高鳴り、視界が滲んだ。

王子は、疲労の色を浮かべながらも、その瞳は自信と達成感に満ちていた。

彼の隣には、隣国の使者たちが並んで馬を進めている。

その表情は、どこか満足げに見えた。

交渉は、うまくいったのだろうか。

王子は、馬から降りると、国王陛下に深々と頭を下げた。

国王陛下は、王子の肩に手を置き、その功績を称えている。

周囲からは、称賛の声が上がった。

私は、その光景を、少し離れた場所から見守っていた。

彼の晴れやかな姿を見て、私は心から嬉しく思った。

同時に、彼がどれほど遠い存在であるかを、改めて痛感させられた。

私は、一歩下がり、彼に視線を送った。

彼の目が、私を探しているように見えた。

そして、その視線が、私に辿り着いた瞬間。

「ロゼ!」

王子の声が、喧騒の中で、私の耳にだけ届いたように感じられた。

彼は、人ごみをかき分け、私の元へと歩み寄ってきた。

周囲の誰もが、その光景に驚いているようだった。

重臣たちも、侍女たちも、皆、何が起こっているのかとばかりに、私たちを見つめている。

私は、あまりのことに、その場で立ち尽くしていた。

私の心臓は、激しく脈打っている。

顔が熱くなり、全身が震える。

王子は、私の目の前まで来ると、私の両手をそっと包み込んだ。

彼の温かい手が、私の冷えた指を温める。

彼の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。

その琥珀色の瞳は、深く、私を吸い込むかのように輝いている。

「無事に、戻ってきたぞ。そして、交渉も成功した」

王子の声は、静かだが、その中には安堵と、そして私への深い感情が込められていた。

私の頬は、火が付いたように熱くなり、心臓は激しく脈打っていた。

彼の言葉が、私の中で新しい感情の種を蒔いたことは確かだった。

周りの視線が、私と王子に集まっているのが分かる。

彼が、なぜ、こんなにも私に公衆の面前で親密に接するのか、理解できなかった。

これは、メイドとしての私への労いなのだろうか。

それとも、旅を共にした仲間としての、親愛の情なのだろうか。

私の頭は混乱し、彼の言葉の真意を捉えることができなかった。

「殿下…おかえりなさい。ご無事で、何よりです」

私は、精一杯の平静を装い、そう答えるのがやっとだった。

私の声は、わずかに震えていた。

王子は、私の返答に満足そうに微笑んだ。

そして、私の手を握ったまま、国王陛下の方へと視線を向けた。

「父上、失われた鉱山からの資源を、今後どのように活用していくか。そして、隣国との今後の関係について、詳細な報告をさせていただきます」

王子の声は、再び王子のものに戻っていた。

その声は、威厳に満ち、彼の言葉は、この国の未来を切り開くという強い意志を明確に示していた。

彼は、私の手を離し、国王陛下の隣へと向かった。

私は、その場に一人立ち尽くし、熱を帯びた自分の手のひらを見つめていた。

まだ、彼の温もりが残っている。

私の心は、複雑な感情で渦巻いていた。

彼の言葉の意味を、私はまだ完全に理解できないでいたが、それでも、彼の傍にいることの幸福を噛み締めていた。

この人のためなら、どんな困難も乗り越えられる。

そう、私は心の中で強く誓った。

しかし、王子の隣に立つ資格は、私にはない。

彼の未来を照らす光となれるのは、高貴な身分の女性だけだ。

その事実が、私の胸を締め付けた。

私は、秘めたる恋心を、誰にも悟られることなく、彼の傍に仕え続ける。

それが、私にできる、唯一のことだから。

そして、いつか、彼が本当に愛する人を見つけた時、心から彼の幸せを願えるよう、今のうちに心を整理しなければならないと、強く思った。

それは、私にとって、あまりにも辛い覚悟だった。

王宮は、鉱山の発見と外交交渉の成功に沸き立っていたが、私の心の中では、報われない恋の苦しみが、静かに、しかし深く響き渡っていた。

この感情と、私はどう向き合っていけばいいのだろう。

答えは、まだ見つからない。

私は、ただ、彼のために、メイドとして、彼の傍に立ち続けることしかできなかった。


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