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第25話


夜が明ける前から、王宮はすでに喧騒に包まれていた。

私と王子殿下の、失われた鉱山を探す旅立ちの日だ。

まだ暗い空には、いくつかの星が瞬いているが、それも次第に薄れていく夜明けの兆しだった。

私は、眠い目をこすりながら、旅の最終準備に余念がなかった。

水筒、保存食、予備の着替え、薬草、地図、そして防寒具。

すべてをリュックサックに詰め込みながら、私の胸は期待と、ほんの少しの不安で高鳴っていた。

王子殿下との二人きりの旅。

それは、メイドとしての職務を超えた、私自身の、小さな冒険でもあった。

旅支度を終え、私は王子の執務室へと向かった。

扉の隙間から、すでに室内の明かりが漏れている。

彼もまた、私と同じように、夜明け前から準備を進めているのだろう。

ノックをして中に入ると、王子は机の上で、一枚の古い地図を広げていた。

彼の顔には、徹夜明けの疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は決意に満ち、一点の曇りもなかった。

その視線は、地図の、私たちがこれから向かうであろう山脈の奥地を鋭く捉えている。

「殿下、ご準備はよろしいでしょうか」

私が声をかけると、王子は顔を上げ、私に微笑みかけた。

その微笑みは、普段の厳格な表情からは想像もできないほど柔らかく、私の心を温かく包んだ。

「ああ、ロゼ。準備は万端だ」

彼の声は、静かだが、その中には確かな自信と期待が込められている。

王子は、立ち上がり、私の方へと歩み寄ってきた。

彼の背丈は私よりもずっと高く、見上げるたびに、その威厳と、そして頼もしさを感じる。

「お前も、よく眠れなかっただろう。だが、今日の旅は、この国の未来を左右する、重要な旅となる。気を引き締めていくぞ」

王子の言葉に、私は頷いた。

彼の真剣な眼差しに、私の心も引き締まる。

私たちは、この国の命運をかけた旅に出るのだ。

その重責を、改めて感じた。

「はい、殿下。このロゼリア、いかなる困難にも立ち向かう覚悟でございます」

私は、深々と頭を下げた。

王子の瞳が、私の言葉に満足そうに細められた。

私たちは、王宮の裏門からひっそりと出発した。

夜明け前の薄闇の中、二頭の頑丈な馬が私たちを待っていた。

護衛の騎士はいない。

この旅は、王子と私、二人きりの、極秘の旅なのだ。

周囲に気づかれぬよう、細心の注意を払って王都を後にした。

馬の蹄の音が、静かな石畳に響く。

王都の街並みが、徐々に遠ざかっていく。

私は、振り返ることなく、前を見据えた。

私の心は、もう王宮のしがらみや、複雑な人間関係から解き放たれ、ただひたすらに、王子と共に目的を達成することだけを考えていた。

王都を離れると、道は徐々に険しくなっていった。

未舗装の道を馬で進むうち、辺りは鬱蒼とした森に変わっていく。

木々の間から差し込む朝日は、まだ弱く、森の奥は深い影に覆われている。

鳥の声が、静かな森に響き渡る。

風が、木々の葉を揺らし、さやさやと音を立てる。

自然の雄大さと、その中に潜む危険が、肌で感じられた。

初日は、幸いにも大きなトラブルに見舞われることなく、順調に進んだ。

王子は、慣れた手つきで馬を操り、時折、地図と周囲の景色を見比べながら、道を確認する。

彼の背中は、どんな時も頼りになる。

私は、王子の少し後ろを付いていく。

彼の背中を見つめながら、私は彼の隣にいることの幸福を噛み締めていた。

普段は王宮の雑多な業務に追われ、ゆっくりと話す機会も少ないが、この旅では、二人きりの時間が流れていく。

それが、私には何よりも嬉しかった。

昼食は、小川のほとりで済ませた。

澄んだ水の音が心地よく、鳥のさえずりが耳に優しい。

王子は、私があらかじめ用意しておいた保存食を、黙々と口に運ぶ。

彼の顔には、ようやく少しだけ安堵の色が浮かんでいた。

私は、彼が少しでもリラックスできるよう、温かいスープを淹れて差し出した。

「ロゼ、このスープは温まるな。美味い」

王子は、スープを一口飲むと、優しい声で言った。

その言葉に、私の心も温かくなる。

彼が喜んでくれることが、私にとって何よりの喜びだった。

私たちは、静かに食事を終え、再び旅路についた。

日が傾き始めると、森の空気は一層冷たくなった。

夜の帳が降りる前に、野営地を見つけなければならない。

王子は、周囲を注意深く見回しながら、適切な場所を探した。

そして、開けた場所を見つけると、馬を止め、野営の準備に取り掛かった。

私は、手際よく薪を集め、火を起こす準備をする。

王子は、馬の世話を終えると、慣れた手つきでテントを設営し始めた。

その姿は、王族というよりも、経験豊富な旅人のようだった。

彼のたくましい腕や、真剣な眼差しに、私は見惚れていた。

やがて、パチパチと音を立てて焚き火が燃え上がった。

その炎が、暗闇を明るく照らし、周囲を温める。

夜空には、満点の星が輝いていた。

王宮の明かりに遮られて見えない星々が、ここでは手の届きそうなほど近くに感じられる。

私は、焚き火のそばに座り、夜空を見上げた。

こんなに美しい星空を見たのは、いつ以来だろう。

「ロゼ、見てみろ。あれが、竜の星座だ」

王子の声に、私は顔を上げた。

王子は、夜空の一角を指差していた。

彼の指の先に、たしかに竜の形をした星座が輝いている。

その姿は、まるで天空を悠然と泳ぐ竜のようだった。

「わたくし、初めて見ました。とても、美しいです」

私が感動して言うと、王子は静かに微笑んだ。

その笑顔は、星の光に照らされて、一層輝いて見えた。

「王宮では、なかなか見ることができぬからな。たまには、こうして空を見上げるのも良い」

王子の言葉は、どこか遠い過去を懐かしむような響きがあった。

彼は、私が王宮に仕えるよりもずっと前から、この景色を知っているのだろう。

そのことを思うと、私は少しだけ寂しい気持ちになった。

彼の知らない過去に、私が存在しなかったこと。

私たちは、焚き火を囲んで、静かに語り合った。

王子は、子供の頃の思い出や、この国の歴史について、穏やかな口調で話してくれた。

普段の王子からは想像もできないほど、親密な時間だった。

彼の話を聞いていると、彼のことをもっと深く知りたい、彼の全てを受け入れたい、そんな感情が私の心に芽生えた。

それは、メイドとしての感情だけではない。

もっと個人的な、もっと甘やかな感情だった。

この夜空の下で、彼と二人きりでいることの幸せを、私は噛み締めていた。

翌日も、旅は続いた。

森はさらに深まり、道はほとんど獣道に近いものになっていた。

馬を降り、時には自らの足で、険しい坂道を登る。

足元は滑りやすく、木の根や岩が道を塞いでいる。

私は、慎重に足を進めながら、王子の後ろを付いていった。

彼の足取りは、どんなに険しい道でも揺らぐことなく、力強かった。

私は、彼に遅れを取らないよう、必死に食らいついた。

王子は、時折振り返り、私が遅れていないか確認する。

その眼差しには、私を気遣う優しさが含まれていた。

「ロゼ、疲れていないか。無理はするな」

王子が声をかけると、私は首を横に振った。

「いいえ、殿下。わたくしは大丈夫でございます」

私は、彼の足手まといになりたくなかった。

彼の役に立ちたい、その一心で、私は自分の体力を顧みず進んだ。

王子は、私の言葉に、少しだけ眉を下げた。

その表情は、どこか心配しているようだった。

「そうか。だが、無理は禁物だ。この先は、さらに険しくなるだろうからな」

王子の言葉は、私の心に深く響いた。

彼は、私のことを本当に気遣ってくれている。

その優しさが、私の心を温かくした。

私は、彼の期待に応えられるよう、さらに気を引き締めた。

夕方近くになり、私たちはようやく山脈の麓に辿り着いた。

そこは、周囲を高い山々に囲まれた、静かな谷間だった。

空気は澄み切っていて、遠くから、水の流れる音が聞こえてくる。

地図によれば、この谷の奥に、失われた鉱山があるはずだ。

しかし、周囲には、人の気配は全くない。

ただ、静かにそびえ立つ山々が、私たちを圧倒する。

その日の野営地は、谷の中央に広がる小さな平地を選んだ。

王子は、周囲を警戒しながら、焚き火の準備を始める。

私は、枯れ木や枝を集め、火がつきやすいよう細かく砕いていく。

日が沈むと、谷はあっという間に闇に包まれた。

しかし、空には再び満天の星が輝き、私たちを照らしてくれていた。

焚き火の炎が、パチパチと音を立てて燃え上がる。

その温かい光が、谷の闇をほんの少しだけ照らし出した。

夕食を終え、王子は再び地図を広げた。

彼の指が、失われた鉱山の位置を指し示す。

その表情は真剣そのもので、彼の心の中には、強い探求心が燃え上がっているのが見て取れた。

私も、彼の隣に座り、地図を覗き込んだ。

複雑な等高線が、険しい山々を表している。

「明日からは、さらに気を引き締めねばならぬ。この谷の奥地は、魔獣の領域だという話もある」

王子の声は、静かだが、その中には明確な警告の響きがあった。

私は、身震いした。

魔獣。

そんなものと、私たちが戦えるのだろうか。

不安が、私の胸をよぎる。

「ですが、殿下…」

私が言葉を詰まらせると、王子は私の手をそっと握った。

その手は、大きく、温かかった。

彼の指先から伝わる温もりが、私の心に安心感を与える。

「心配するな、ロゼ。俺が、お前を守る」

王子の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。

その眼差しには、揺るぎない決意と、そして私への深い愛情が宿っているように見えた。

私の頬が、ゆっくりと熱を帯びる。

彼の言葉は、私の心に深く染み渡り、不安を打ち消してくれた。

王子が守ってくれる。

その言葉だけで、私はどんな危険にも立ち向かえる気がした。

この人は、本当に私を大切に思ってくれているのだと、改めて感じた。

それは、主君とメイドという関係を超えた、もっと特別な感情。

私は、その感情の正体を、まだはっきりと理解できないでいたが、それでも、彼の傍にいることの幸福を噛み締めていた。

この人のためなら、どんな困難も乗り越えられる。

そう、私は心の中で強く誓った。

翌朝、私たちは谷の奥地へと進んだ。

道はさらに険しくなり、巨木が生い茂る中、ほとんど光も届かない場所もあった。

湿った土の匂い、朽ちた木の葉の匂いが、鼻腔をくすぐる。

鳥の声すら聞こえない、静寂に包まれた森。

その静けさが、かえって不気味に感じられた。

時折、遠くから獣の咆哮のようなものが聞こえてくる。

そのたびに、私は身をすくませたが、王子の後ろ姿を見つめることで、不安を振り払った。

彼は、どんな時も冷静で、その足取りは力強い。

彼の傍にいれば、きっと大丈夫。

そう、私は自分に言い聞かせた。

数時間歩き続け、私たちは奇妙な場所に辿り着いた。

そこは、周囲の木々が不自然に途切れており、ぽっかりと開けた空間が広がっていた。

地面には、金属の欠片のようなものが散らばり、奇妙な形をした岩がいくつも転がっている。

そして、その中央には、巨大な岩肌に開けられた、不自然な穴があった。

まるで、誰かが意図的に掘り進めたような、大きなトンネルの入り口だ。

そこから、冷たい風が吹き出してくる。

「ここが…」

私が呟くと、王子は地図と周囲を見比べ、確信に満ちた声で言った。

「ああ、間違いない。ここが、失われた鉱山の入り口だ」

王子の瞳は、期待に満ちて輝いていた。

彼の顔には、これまで見たことのないような、喜びと興奮の色が浮かんでいた。

長年の伝説が、今、目の前で現実となろうとしているのだ。

私は、その光景に圧倒されながらも、王子の喜びを共有した。

この瞬間に立ち会えること。

それが、私にとって何よりの喜びだった。

しかし、同時に、言いようのない不安が胸をよぎる。

本当に、この先へ進んで良いのだろうか。

この鉱山が、王国に何をもたらすのか。

希望か、それとも、さらなる災いか。

その答えは、まだ誰も知らない。

王子は、迷うことなく、鉱山の入り口へと歩み寄った。

その足取りは力強く、彼の心は、すでに鉱山の奥へと向かっているようだった。

私は、彼の後ろを付いていく。

洞窟の入り口は、闇に覆われ、その奥は何も見えない。

冷たい風が、私たちの頬を撫でる。

その風は、まるで、私たちを拒むかのように、あるいは、何かを警告しているかのように感じられた。

王子は、懐から魔石のランプを取り出し、光を灯した。

その光が、洞窟の入り口を照らし出す。

奥へと続く道は、不規則な岩肌に囲まれ、ひんやりとした空気が漂っている。

足元には、水が滴り落ちる音。

その音だけが、静寂に包まれた洞窟に響き渡る。

「よし、入るぞ、ロゼ」

王子の声は、静かだが、その中には並々ならぬ決意が込められていた。

彼は、私を振り返り、その瞳にわずかな心配の色を浮かべた。

私は、彼の心配を拭い去るように、強く頷いた。

「はい、殿下」

私たちは、一歩ずつ、慎重に洞窟の奥へと足を踏み入れた。

足元は滑りやすく、時折、天井から水滴が落ちてくる。

洞窟の壁は、冷たく湿っていた。

奥へ進むにつれて、空気は一層冷たくなり、湿気を帯びてくる。

かすかに聞こえる、遠くの水の音が、洞窟の奥深くへと誘っているようだった。

私は、王子の背中にぴったりと寄り添うように進んだ。

彼の背中から伝わる温もりが、私の不安を少しだけ和らげてくれる。

どれくらい歩いたのだろうか。

時間感覚が麻痺するほど、私たちは暗闇の中を進み続けた。

やがて、洞窟の奥から、微かな光が見えてきた。

その光は、まるで宝石のように、幻想的に輝いていた。

王子は、その光を見つけると、足早になった。

彼の心臓が高鳴っているのが、私にも伝わってくるようだった。

私もまた、その光に誘われるように、足を進めた。

その光は、私たちを、未知なる世界へと誘っているようだった。

そして、私たちは、その光の源に辿り着いた。

そこは、巨大な空間が広がっていた。

天井からは、無数の水晶が垂れ下がり、その一つ一つが、淡い光を放っている。

まるで、星空が地下に降りてきたかのような、幻想的な光景だった。

そして、その空間の中央には、巨大な鉱脈が、青白い光を放ちながら横たわっていた。

それは、これまで見たこともないほど、純粋で美しい金属の塊だった。

その光景に、私は息を呑んだ。

これが、失われた鉱山。

伝説は、本当だったのだ。

王子は、その鉱脈を呆然と見つめていた。

彼の瞳は、驚きと感動で大きく見開かれている。

彼の顔には、達成感と、そして新たな希望が浮かんでいた。

その姿は、この国の未来を背負う王子のものとして、神々しく、そして力強く見えた。

「これは…夢か…」

王子の声は、震えていた。

その声には、喜びと、そして信じられないという感情が入り混じっていた。

彼は、ゆっくりと鉱脈に歩み寄り、その表面に手を触れた。

金属は、冷たく、しかし確かにそこに存在していた。

「ロゼ…見つけたぞ。本当に、見つけたのだ」

王子は、私を振り返り、その瞳に涙を浮かべていた。

彼の感情が、私にも伝わってくる。

その瞬間、私の胸は、言いようのない感動で満たされた。

彼の喜びが、私の喜びだった。

この人の夢が、今、目の前で現実となったのだ。

私は、彼の傍で、共にこの喜びを分かち合えることを、心から幸せに思った。

「殿下…おめでとうございます」

私の声も、震えていた。

その声には、感動と、そして王子への深い愛情が込められていた。

彼は、私の手を握り、その力を強く込めた。

「ああ、ロゼ。お前が、俺の傍にいてくれたからこそだ。お前がいなければ、俺はここまで来られなかった。お前は、俺の光だ」

王子の瞳は、私を真っ直ぐに見つめていた。

その視線に、私の頬は熱を帯びる。

彼の言葉は、私の心に深く染み渡り、私の中に秘められていた全ての感情を揺さぶった。

彼が私を光と呼んでくれた。

その言葉の重みに、私はただただ感動していた。

それが、主君からの言葉以上の意味を持つことを、私はまだ理解できずにいたが、それでも、彼の傍にいることの幸福を噛み締めていた。

この人のためなら、どんな困難も乗り越えられる。

そう、私は心の中で強く誓った。

その夜、私たちは鉱山の中で野営した。

水晶の淡い光が、私たちを優しく包み込む。

王子は、その鉱脈を前にして、未来の計画を静かに語った。

この鉱山から得られる資源で、王国は再び力を取り戻せる。

軍事力を強化し、他国との外交においても、より強い立場に立てるだろう。

彼の言葉には、希望と自信が満ち溢れていた。

私もまた、彼の話を聞きながら、この国の未来を想像した。

平和な王国。

民が笑顔で暮らせる世界。

それが、王子の願いであり、私の願いでもあった。

私たちは、希望に満ちた夜を過ごした。

しかし、同時に、私は新たな不安を感じていた。

この鉱山が、本当に王国に平和をもたらすのだろうか。

あるいは、新たな争いの火種となるのではないか。

その答えは、まだ誰も知らない。

それでも、私は王子の傍で、共に歩んでいく覚悟を決めていた。

私の心の中には、王子への深い愛と、揺るぎない希望が、静かに燃え盛っていた。

旅は、まだ終わらない。

真の試練は、これから始まるのだ。


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