第2話
王宮での私の評判は、日増しに高まっていった。
貴族からの個人的な依頼も増え、私はメイドとしての通常の仕事に加え、彼らの「困りごと相談役」のような立場になっていた。
他のメイドたちは、最初は私に嫉妬の眼差しを向けていたが、私が誰に対しても分け隔てなく接し、謙虚な姿勢を崩さなかったためか、次第に私を受け入れてくれるようになった。
むしろ、私が貴族から感謝される姿を見て、喜んでくれる者さえいた。
「ロゼ、あなたのおかげで、私たちの仕事も効率的になったわ。本当に助かるわ」
そう言って、笑顔で私に感謝する先輩メイドの言葉に、私は胸を撫で下ろした。
彼女たちの理解と協力がなければ、私の偽りの身分は、もっと早くに露見していたかもしれない。
(このまま、穏やかな日々が続けばいいのに……)
私はそう願っていた。
たとえ身分が低くても、誰かの役に立てる喜びを感じながら、静かに生きていけるのなら、それで十分だと。
故郷を失い、すべてを失った私にとって、このアストライアの王宮で得たささやかな平穏は、何よりも代えがたいものだった。
しかし、私の運命は、私の意思とは裏腹に、大きなうねりを上げ始めていたのだ。
それは、まるで静かな湖面に投げ込まれた小石が、やがて巨大な波紋となって広がるように、私の日常を飲み込んでいく兆しだった。
その日、私は珍しく王宮の奥まった回廊を掃除していた。
普段は立ち入ることのない、王子や高位の貴族たちが暮らす区域だ。
この時間帯は、使用人も少なく、静まり返っていた。
大理石の床に、コツコツと、私の履く靴の音が響く。
窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた床に反射して、眩いばかりに輝いていた。
その光は、王宮の華やかさと、私のいる場所との隔絶を、より一層際立たせているかのようだった。
(こんな場所で、私が掃除をするなんて……)
内心、緊張していた。
この区域は、厳重に管理されており、メイドであっても許可なく立ち入ることはできない。
たまたま、この日、この回廊を担当するメイドが体調を崩し、私が急遽代理として派遣されたのだ。
他のメイドたちは、この場所の重苦しい空気を嫌がる傾向があった。
高位貴族たちの視線、そして彼らの間の権力争いの気配が、常にこの回廊には漂っている。
けれど、私にとっては、故郷の王宮と比べれば、この程度の緊張など、取るに足らないものだった。
それでも、私はいつも以上に慎重に、そして丁寧に、床を磨き上げていた。
万が一にも、不手際があってはならない。
ふと、開け放たれた書斎から、楽しそうな、そしてどこか涼やかな声が聞こえてきた。
「はは、これはまた、傑作だな」
(誰だろう?こんなに無邪気に笑うなんて……この王宮で、そんな声を聞くこと自体、珍しいことだ)
普段、王宮の奥からは、常に張り詰めた緊張感や、陰謀の匂いしかしない。
誰もが仮面を被り、感情を押し殺して生きているような場所で、こんなにも無邪気な笑い声が聞こえてくること自体が、私にとっては驚きだった。
まるで、この重苦しい空気を切り裂くかのような、清らかな響きを持った声。
好奇心に駆られ、私は掃除の手を止め、音のする方へと顔を向けた。
そこには、一人の青年がいた。
燃えるようなブロンドの髪は、窓から差し込む光を受けて黄金色に輝き、どこか冷たさを秘めた瑠璃色の瞳が、書卓の上の一点を見つめていた。
その瞳は、深淵を思わせるほど深く、吸い込まれそうなほど美しかった。
端正な顔立ちに、すらりと伸びた長身。
彼の身につけている衣服は、シンプルながらも最高級の生地で作られており、その立ち姿からは、紛れもない高貴な気品が漂っていた。
彼は、この国の第一王子、リオネル様だった。
私は、彼の姿を一目見ただけで、背筋が凍り付くような感覚に襲われた。
噂に聞く、冷徹で、感情を表に出さない印象。
その噂は、彼の容姿と完璧に合致していた。
しかし、その瞳は、書卓に飾られた木彫りに注がれ、どこか楽しげに輝いていた。
彼の口元には、かすかに笑みが浮かんでおり、それは彼の冷たい印象を打ち消すほどに、無邪気で、そしてどこか幼い表情に見えた。
彼の手には、掌に乗るほどの小さな鳥の木彫り。
それは、非常に精巧に作られており、まるで生きているかのように見えた。
羽根の一枚一枚、木の幹のしわまで、丹念に彫り込まれており、息をのむほどの芸術品だった。
彼の隣には、彼が可愛がっているらしい、子猫ほどの小さな犬がちょこんと座っている。
毛並みは雪のように白く、つぶらな瞳で王子を見上げている姿は、息をのむほどに可愛らしかった。
その小犬は、王子の指先から伸びる木の小枝を、まるで獲物を見つけたかのようにじっと見つめている。
(……可愛い!)
私は思わず、その可愛らしい小犬の姿に目を奪われた。
王子の冷たい印象とは裏腹に、彼がこんなにも可愛らしい小動物を慈しむ姿は、私にとっては意外だった。
その小さな犬の仕草一つ一つが、私の心を掴んで離さない。
王子は、その木彫りを大切そうに指でなぞりながら、もう一度言葉を紡いだ。
「面白いものだな」
その声は、噂通りの氷のような響きを持っていた。
けれど、その中にわずかに好奇の光が宿っているのを、私は見逃さなかった。
彼の視線は、まだ木彫りに向けられている。
私には気づいていない。
私は慌てて、身を隠そうとした。
もし見つかれば、不審がられるかもしれない。
この奥まった回廊で、メイドが覗き見をしていたなどと知られれば、厳重な処罰を受ける可能性がある。
だが、時すでに遅し。
ふいに王子の視線が、まるで空気を読むかのように、正確に私に向けられた。
私の心臓が、ドクリと大きく鳴る。
まるで、罠にかかった小動物のように、身動きが取れなくなる。
彼の瑠璃色の瞳が、私の存在を捉えた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
「おい、メイド。お前か、最近、王宮内で何かと話題になっているというのは」
その声は、私に対する興味や関心を示すものではなく、ただ事実を確認するような、淡々とした響きだった。
彼の口調には、私が「気の利くメイド」として評判になっているという情報を、単に確認しているだけの響きがあった。
しかし、その瞳は、まるで私を品定めするかのように、上から下へとゆっくりと動く。
その視線は、鋭く、そしてどこか冷徹だった。
まるで、珍しい昆虫でも観察するかのような、そんな無機質な視線だった。
私は、彼の好奇心の対象が、私自身ではなく、「王宮で話題になっている現象」そのものであることを瞬時に理解した。
私は、慌てて頭を下げ、深くお辞儀をした。
頭を下げた姿勢のまま、私の両手は、スカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
その手のひらは、汗でしっとりと湿っている。
「は、はい。ロゼと申します」
絞り出すような声だった。
喉がカラカラに乾いて、声がかすれてしまう。
メイドが、王子に直接呼びかけられること自体が、稀なことだ。
ましてや、私のような新米メイドが、王子の視線の先に立つことなど、前代未聞だった。
私は、この状況をどう乗り切るべきか、必死に思考を巡らせた。
「ほう。ロゼか。お前、面白いものに詳しいと聞くが、あの鳥の木彫りについて何か知っているか?」
王子は、私の反応を試すように問いかけた。
その口調からは、私に対する期待や、深い興味は感じられない。
ただ、面白いものにまつわる情報を持っているか、程度の関心しかないようだった。
まるで、手元にある書物の解説書を求めるかのように、淡々と問うてきた。
私は一瞬迷った。
正直に言っていいものか。
もし、ここで口を滑らせれば、王女としての過去が露見するかもしれない。
いや、それ以前に、メイドが王子の質問に答えるなど、本来であれば不敬にあたるだろう。
けれど、彼の瞳は、どこか私の中に隠された「何か」を見透かそうとしているようだった。
その好奇の光が、私の背中を押した。
(ここで黙り込むのは、かえって不自然だ。
それに、この木彫りについては、王女時代に深く学んだ知識だ。
答えられる……私の知識が、ここで役立つならば)
私は腹を括った。
頭を上げ、王子の顔をまっすぐに見つめた。
彼の瞳は、私を捕らえて離さない。
王女時代に学んだ膨大な知識の中から、その木彫りについて、最も適切と思われる情報を引き出す。
「はい、存じております。
その木彫りは、古くはロゼリア王国の北部に伝わる伝統工芸品で、伝説の鳥『シルフ』を模したものでございます。
シルフは、幸福と豊穣を司る鳥とされており、特にこの木彫りのように、細かな羽根の一枚一枚まで丁寧に彫り込まれているものは、王族への献上品として作られたと聞いております。
製作者は、代々王室御用達の彫刻師を務めていた、リデル家の一族だと……彼らの作品は、細部にまで魂が宿ると言われ、特にシルフの木彫りは、王家の安寧を願って作られたとされます。
ロゼリア王国では、新年の儀式で、王がこのシルフの木彫りを掲げ、民の幸福と豊穣を祈願する習わしがありました。
その中でも、これほどまでに精巧なものは、滅多にお目にかかれない逸品かと……」
私の言葉に、王子は静かに耳を傾けた。
その表情は、私をじっと見つめているだけで、何を考えているのか読み取れない。
ただ、時折「ふむ」と小さく頷くたびに、彼の瞳の奥で、わずかな光が瞬くのが見えた。
まるで、興味深い書物を読み進めるかのように、私の言葉を聞き入っていた。
彼の視線は、私が話す間、一度も私から外れることはなかった。
その視線は、私という人間そのものに関心があるというよりも、私の口から語られる情報、私の持つ知識そのものに興味があるかのようだった。
話し終えると、彼はじっと私を見つめた。
まるで、珍しい小動物でも見るかのような、好奇心に満ちた視線だった。
その視線に、私はまるで品定めをされているかのような居心地の悪さを感じた。
「なるほど、悪くない。
メイドの身でありながら、よくそこまで知っているものだ」
彼の言葉は、褒めているのか、あるいは皮肉なのか、判別しがたい。
だが、その声には、確かに微かな「面白い」という感情が乗っていた。
彼の瞳には、小動物を見るような好奇心と、わずかな娯楽を見つけたような輝きが見て取れた。
彼にとって、私は単なるメイドではなく、知的好奇心を満たすための、あるいは退屈を紛らわすための、新しい「おもちゃ」のような存在なのかもしれない。
「おい、メイド。
そこのお前、明日から私の侍女となるように」
(え……?)
その言葉は、唐突で、そして決定的なものだった。
私の思考は一瞬停止した。
しがないメイドが、王子の侍女に?それは、私のような身分にはありえない、破格の昇進だった。
王宮の侍女は、通常、それなりの家柄の令嬢が務めるものだ。
ましてや、第一王子の侍女となれば、社交界でも注目される立場となる。
私の偽りの身分が、いつか露見してしまうかもしれない。
そんな不安が、胸に押し寄せた。
私の心臓が、激しく脈打つ。
喜びよりも、恐怖の方が大きかった。
もし、私がロゼリア王国の元王女であることが露見すれば、私はこのアストライアの地でも、安全な場所を失うだろう。
あるいは、もっとひどい運命が待っているかもしれない。
しかし、私が返答する間もなく、事態は動いた。
「お待ちくださいませ、リオネル」
涼やかな、しかし氷のような声が、書斎の入り口から響いた。
そこに立っていたのは、この国の皇妃、すなわちリオネル王子の生母であるセシリア皇妃だった。
彼女は、王宮で最も強い権力を持つ女性の一人であり、その美貌は歳を重ねても衰えず、常に完璧なまでに整えられた姿で、周囲を圧倒するオーラを放っていた。
彼女の身につけているドレスは、最高級のシルクと宝石で飾られており、その輝きは、周囲の光を全て吸い取るかのようだった。
彼女の視線が、私に向けられる。
その視線は、まるで汚いものを見るかのような、冷たい軽蔑を含んでいた。
(……最悪だ。
なぜ、このタイミングで皇妃様が……)
私は、思わず身を縮めた。
彼女の視線は、私の存在そのものを否定するかのようだった。
その視線は、私を、まるで王宮の敷地に入り込んだ不潔な害虫を見るかのようだった。
「王子の侍女は、身分のある者が務めるべきです。
いくら有能とはいえ、どこの馬の骨とも知れぬメイドを侍女にするなど、アストライアの格式に関わること。
ましてや、あなたは将来、この国の王となるお方。
そのような者に仕えさせるなど、許されることではございません。
この王宮には、王子の侍女に相応しい、優れた家柄の令嬢たちがいくらでもおりますのに、なぜ、あのような下賤なメイドを……」
セシリア皇妃の言葉は、冷たく、そして有無を言わせぬ響きがあった。
彼女の言葉には、一切の慈悲も、妥協もなかった。
その声は、王宮の回廊に響き渡り、私の心を深く抉った。
彼女の視線は、私を完全に無視し、リオネル王子だけを見つめていた。
まるで、私がその場に存在しないかのように。
リオネル王子は一瞬眉をひそめ、不満げな表情を浮かべた。
彼の唇は、わずかに引き結ばれている。
彼は母親の言葉に逆らえないことを知っているかのようだった。
王子の顔に浮かんだその表情は、不満ではあるが、諦めも含まれているように見えた。
私もまた、自分の立場を理解していた。
たとえ王子が望んだとしても、皇妃の権力の前では、私のような存在は塵同然なのだ。
(ああ、やはり無理だったか……。
当然だ。
こんな身分違いのことが、許されるはずがない。
これが、私の運命なのだ……)
諦めと、ほんのわずかな落胆が、私の心に広がった。
王子の侍女になることは、私にとって危険な賭けでもあったが、心のどこかで、この環境から抜け出したいという小さな期待があったのも事実だった。
その期待が、音を立てて崩れていく。
けれど、王子は完全に諦めたわけではなかった。
彼の瞳が、セシリア皇妃の顔から、再び私へと戻ってくる。
そして、わずかに口角を上げた。
その笑みは、どこか挑発的で、計算高いものに見えた。
まるで、母親に対する反発心を、私を利用して表現しているかのようだった。
「では、侍女は諦めよう。
だが、せっかく面白い者を見つけたのだ。
無碍にはできぬ」
彼の言葉に、私は驚きを隠せない。
この状況で、まだ私を諦めないというのか。
リオネル王子は、再びセシリア皇妃へと向き直った。
その目は、静かだが、揺るぎない意志を秘めていた。
「母上。
それでは、嫌われ者の第二皇妃、ベアトリス様の侍女として、そこの者を使わせてはいただけませんか?」
セシリア皇妃の顔に、わずかな嘲りの色が浮かんだ。
そして、私を一瞥し、鼻で笑った。
その笑みは、まるで、どうでもいいものを投げ捨てるかのような、無関心と侮蔑に満ちていた。
彼女にとって、第二皇妃ベアトリス様という存在は、それほどまでに価値のないものなのだろう。
「ベアトリスの侍女、か。
好きにするといいわ。
どうせあのような者に仕えても、碌な未来はないでしょう。
無駄骨となるだけ。
むしろ、厄介払いにはちょうど良いかもしれないわね」
その言葉は、私に向けられた侮蔑と、第二皇妃ベアトリス様に対する露骨な軽蔑を含んでいた。
セシリア皇妃の言葉からは、第二皇妃が王宮内でいかに孤立しているか、そして彼女自身がいかに軽んじられているかが、痛いほど伝わってきた。
(嫌われ者の第二皇妃……?一体、どのような方なのだろう。
そして、なぜ王子は、あえてその方のもとへ私を行かせようとするのだろう?)
私は、その言葉に、わずかな安堵を覚えた。
王子の侍女よりも、ベアトリス様の侍女の方が、身分を偽りやすいかもしれない。
それに、王子の近くにいるよりも、はるかに目立たないだろう。
しかし、すぐに別の不安が胸をよぎった。
ベアトリス様は、その美貌とは裏腹に、気性が荒く、すぐに感情的になると評判だった。
王宮内の噂では、彼女の侍女たちは皆、すぐに辞めてしまうか、あるいは精神的に病んでしまうとまで言われていた。
周囲からは孤立し、侍女たちも長続きしないと噂されていたのだ。
セシリア皇妃の言葉からも、それが事実であることが伺える。
もし、本当にそのような方であれば、私の新しい生活は、より一層厳しいものになるだろう。
しかし、私はこの国の王室に詳しくはない。
なぜ第二皇妃がこれほどまでに嫌われているのか、その理由までは知らなかった。
「おい、メイド。
行くぞ」
リオネル王子の静かな声が、私の思考を遮った。
彼は、まるで私の返事を待つこともなく、既に私を連れて行くつもりでいるようだった。
彼の視線は、すでに私から離れ、前方を向いている。
私への興味は、あくまで「面白いもの」を見つけたという好奇心の範疇でしかないのだろう。
私のことは、単なる道具として利用しているだけなのかもしれない。
それでも、私は彼に逆らうことはできなかった。
私は、与えられた運命を受け入れた。
新たな生活は、困難の連続になるだろう。
嫌われ者の第二皇妃の侍女。
その立場が、どれほど過酷なものになるのか、私には想像もつかない。
けれど、王女時代に培った諦めない心と、メイドとして身につけた粘り強さが、私にはあった。
故郷を失い、すべてを失った私に残されたのは、この二つだけだった。
(どんな場所でも、私は私だ。
ここで、生きていくしかない。
そして、いつか、この国で、私自身の居場所を築いてみせる)
私は、リオネル王子の後を追った。
彼の背中は、私とは全く異なる世界に属していることを雄弁に物語っていた。
その背中は、私には届かないほど遠く、そして冷たい。
彼の足取りは、躊躇いなく、第二皇妃ベアトリス様の宮殿へと向かっている。
それは、かつての王女が、再び自らの運命を切り開くための、小さな一歩だった。
そして、この一歩が、後にアストライア王国を揺るがす大きなうねりの始まりとなることを、この時の私はまだ知る由もなかった。




