第19話
夜会の大成功は、王宮内に大きな波紋を広げた。
セシリア皇妃の顔は日に日に険しさを増し、その苛立ちは隠しようがなかった。
一方、ベアトリス様の宮殿には、以前にも増して多くの招待状が届くようになり、彼女の周りには、少しずつだが、確かな支持者が集まり始めていた。
私は、ベアトリス様が王宮で確固たる居場所を築きつつあることに、深い安堵と喜びを感じていた。
メイド長としての私の職務は、夜会の後も多忙を極めた。
王宮全体の清掃、備品の管理、メイドたちの勤怠管理、そして各部署からの様々な要望への対応。
私は、毎日休む間もなく王宮中を駆け回り、指示を出し、問題解決に奔走した。
しかし、その中でも、秘匿された書庫での調査は、私の唯一の心の安らぎであり、最も重要な任務だった。
(「転移」…それが真実なら、私自身の過去と、この王国の歴史が繋がるはず。
もしロゼリア王国が滅びたのではなく、その一部がここに転移したのだとしたら…)私は、秘匿された書庫で得た情報と、故郷の王宮で学んだ知識を照らし合わせる日々を送っていた。
書庫には、ロゼリア王国に関する断片的な記述が点在していた。
古い王家の系譜図には、私の知る王家の紋章に酷似したものが描かれていたり、失われた魔術に関する古文書には、ロゼリア王国で伝承されていた魔術の記述と符合する箇所が見られたりした。
それは、まるで散りばめられた星々が、少しずつ星座の形を成していくかのようだった。
しかし、それらの情報は、まだ仮説の域を出ず、確固たる証拠には程遠かった。
私は、さらに深く、より確実な証拠を見つけ出す必要があると感じていた。
そんなある日の午後、私は王宮の庭園で、傷んだ花壇の手入れをしていた。
夜会のために飾られた花々が枯れ始め、新たな芽吹きのために土を耕す作業は、私の心を落ち着かせてくれるものだった。
土の感触、花の香り、そして温かい陽光が、私を包み込む。
「メイド長。このような作業まで、自ら行うのか」静かな声が、背後から聞こえた。
振り返ると、リオネル王子が立っていた。
彼は、いつものように感情の読めない表情で、私の手元の道具に視線を落とした。
彼の瑠璃色の瞳には、私の行動に対する微かな驚きと、そして純粋な好奇心が宿っているように見えた。
私が、このような地味な作業をしていることに、彼は戸惑っているようだった。
「王子殿下。花壇の手入れは、王宮の美観を保つ上で重要な務めでございます。
土の状態や、植物の成長を直接確認することで、より適切な手入れが可能となります」私は、土まみれになった手で、丁寧に答えた。
彼の視線は、私が土を耕す指の動きから、私の顔、そして私の髪に付いたわずかな土埃へと移った。
その瞳には、私の言葉を評価するような、そして何かを探るような光が宿っていた。
しかし、それは、私が彼の期待に応えているかどうかを見極めようとする、彼の**「仕事に対する真摯な視線」**だと私は受け止めていた。
「…そうか。お前は、本当にあらゆることに精通しているな。感心する」彼の言葉には、かすかな感嘆の色が混じっていた。
彼は、私のメイド長としての手腕だけでなく、花壇の手入れという細やかな作業にまで私が精通していることに、心から感銘を受けているようだった。
その言葉が、私の心に、かすかな優越感を抱かせた。
私は、彼の期待に応えられていることに、静かな満足を覚えた。
リオネル王子は、私が花壇の手入れを続ける間、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
彼は、私が他のメイドたちと談笑している姿を目にすると、遠くからその様子を静かに観察していることが多かった。
彼が、私がメイドたちに優しく、しかし毅然とした態度で接している姿を目にすると、彼の表情に、普段は見せない微かな柔和な表情が浮かぶのを感じた。
それは、彼が私の「人間性」に、わずかながらに触れているような感覚だった。
彼の視線は、私の知らぬ間に、私の一挙手一投足に注がれていた。
私が、疲労で一瞬目を伏せた時、彼が眉をひそめたのが見えた。
私が、小さなメイドの失敗を優しく諭している時、彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだのが見えた。
その笑みは、まるで彼の冷徹な仮面の下に隠された、温かい感情が垣間見えたかのようだった。
その時、一人のメイドが慌てた様子で、私の元へと駆け寄ってきた。
「メイド長殿!大変でございます!陛下が、突如として激しい咳と発熱を…!」その言葉に、私の心臓が大きく跳ね上がった。
陛下が、倒れたというのか。
私は、すぐに道具を置き、メイドを伴って、足早に陛下の寝室へと向かった。
リオネル王子も、私の言葉を聞きつけ、私に続いて駆け出した。
彼の顔には、明らかに焦りの色が浮かんでいた。
陛下の寝室は、すでに騒然としていた。
侍医たちが慌ただしく動き回り、陛下は苦しそうに咳き込み、顔色は見るからに悪かった。
私は、すぐに侍医に状況を尋ねた。
「陛下のご容態は?何が原因でしょうか?」侍医は、困惑した表情で首を振った。
「それが…原因が特定できず、これほど急激に悪化するとは…」その言葉に、私の胸に嫌な予感が走った。
私は、陛下の顔色、そして咳の様子を注意深く観察した。
その症状は、故郷の王宮で流行した、ある奇病の初期症状に酷似していた。
その奇病は、ごく初期の段階で適切な処置を施さなければ、数日のうちに命を落とす恐ろしい病だった。
(これは…もしや、あの「黒い病」…!?)私の脳裏に、故郷で学んだ知識が蘇った。
私は、侍医に尋ねた。
「侍医殿。陛下は、最近、どこか遠方から取り寄せた珍しい植物や、動物に触れられましたか?あるいは、貯蔵庫の奥に長期間保管されていたものに、直接触れられたことは?」私の言葉に、侍医は驚いたように目を見開いた。
「確かに…先日、隣国から献上された、珍しい香木を陛下が直接ご覧になられました。
それが原因だとでも…?」
「その香木は、どちらにございますか!?」私は、半ば叫ぶように尋ねた。
侍医は、私に香木の保管場所を告げた。
私は、すぐにその場所へと向かおうとした。
その時、リオネル王子が私の腕を掴んだ。
「メイド長!一体どういうことだ!?お前は、この病について何か知っているのか!?」彼の声には、強い焦りと、そして私への不信感が入り混じっていた。
私が、ただのメイドでありながら、陛下の病について、まるで専門家のように尋ねていることに、彼は戸惑っているようだった。
「王子殿下。今は説明している時間はございません!もしわたくしの推測が正しければ、一刻も早く処置を施さなければ、陛下のお命に関わります!どうか、わたくしを信じてください!」私の言葉に、リオネル王子は一瞬躊躇した。
しかし、彼の瞳には、私の言葉を信じるかどうかの葛藤の色が浮かんでいた。
彼の顔には、焦燥と、そして私に対する抗いがたい信頼が混じっていた。
彼は、私の目の中に、ただならぬ真剣さと、確かな知識の光を見出したのだろう。
「…分かった。メイド長。全て、お前に任せる。ただし、万が一、陛下に何かあれば、お前では済まされないぞ」彼の言葉は、私への全幅の信頼と、そして同時に、重い責任を伴うものだった。
私は、彼の言葉に深く頷き、香木の保管場所へと急いだ。
香木は、王宮の地下深くにある、厳重に管理された貯蔵庫に保管されていた。
私は、貯蔵庫の扉を開け、中へと足を踏み入れた。
貯蔵庫の中は、湿気が高く、カビの匂いが充満していた。
目的の香木は、奥の棚に置かれていた。
それは、見た目は美しいが、その周囲には、かすかに黒いカビのようなものが付着していた。
(やはり…「黒い病」の原因となる菌は、このカビの中に潜んでいる…!)私は、故郷でこの病の治療法を学んでいた。
まず、患部に触れないよう、厳重な手袋を着用し、香木を密閉できる容器に入れる必要がある。
そして、その容器を、王宮の最も深い地下にある「封印の間」へと運び、特定の薬草を用いて、菌を死滅させるための儀式を行うのだ。
その儀式は、故郷の王族に伝わる秘術であり、その知識は、ごく限られた者にしか伝えられていないものだった。
私は、手袋を着用し、慎重に香木を容器に入れた。
その間も、私の心臓は激しく高鳴っていた。
もし、私の推測が外れていれば、私はこの王宮で、取り返しのつかない過ちを犯すことになる。
しかし、陛下のお命を救うため、私は迷うことはできなかった。
私は、香木を抱え、急いで「封印の間」へと向かった。
その間は、王宮の中でも最も古く、人目につかない場所だった。
扉を開けると、そこはひんやりとした空気が漂い、壁には、古代の文字が刻まれていた。
私は、その文字に、かすかな既視感を覚えた。
私は、持参した薬草を、床に描かれた魔術陣の上に並べた。
そして、故郷で学んだ秘術の詠唱を始めた。
その言葉は、私自身の母国語であり、この王宮では誰も理解できないだろう。
私の声が、静かな間に響き渡る。
魔術陣が、かすかに光を放ち始めた。
王宮の陛下の寝室。
リオネル王子は、侍医たちに指示を出していた。
彼の顔には、依然として焦りの色が浮かんでいたが、その瞳には、私への複雑な感情が入り混じっていた。
彼は、私がただのメイドではないことを、感じ始めていた。
彼女の知識は、メイドのそれをはるかに超え、まるで、この国のどこかの貴族の令嬢、いや、それ以上の高貴な血筋の者であるかのようだった。
しかし、彼女がなぜ、そこまでの知識を持っているのか。
彼の探求心は、もはや抑えきれないほどに高まっていた。
「…メイド長は、一体何者なのだ?」彼は、侍医にそう尋ねた。
侍医は、困惑した表情で首を横に振った。
「それが…孤児院出身だと聞いておりますが、彼女の知識や所作は、常軌を逸しております。
まるで、貴族教育を受けた者のようです」その言葉に、リオネル王子の顔に、深い思索の影が落ちた。
彼の心には、メイド長への疑問と、そして抗いがたい魅力が、さらに深く刻み込まれていった。
彼は、メイド長という存在が、自身の想像をはるかに超える、特別な存在であることに気づき始めていた。
彼女の行動の全てが、彼の心を強く揺さぶっていた。
「陛下のご容態は!?」その時、陛下の寝室に、セシリア皇妃が息を切らせて駆け込んできた。
彼女の顔には、陛下の病状への心配と、そして何よりも、私の存在への苛立ちが混じっていた。
「一体、あのメイドは何をしているのです!?陛下のお命を弄ぶつもりですか!?」セシリア皇妃は、私を非難する言葉を口にした。
リオネル王子は、そんなセシリア皇妃の言葉を遮るように、静かに、しかし毅然とした声で答えた。
「母上。メイド長は、陛下のお命を救おうと奮闘してくれている。
メイド長を信じるしかない」彼の言葉に、セシリア皇妃は驚きを隠せなかった。
彼女は、リオネル王子が、一介のメイドである私を、ここまで信頼していることに、理解ができないようだった。
彼女の視線が、不審そうにリオネル王子に向けられた。
「封印の間」。
私は儀式を続けていた。
魔術陣の光は、次第に強くなり、香木から黒い靄のようなものが立ち上り始めた。
それが、病の原因となる菌が死滅していく証拠だった。
私は、全ての菌が完全に消滅するまで、決して詠唱を止めなかった。
魔術陣の輝きが、私の顔を照らし、その光は、私の体から発せられているかのようにも見えた。
数時間後、儀式は無事に終了した。
香木からは、もう黒い靄は立ち上らず、代わりに、清らかな光が放たれていた。
私は、安堵のため息をつき、密閉容器をしっかりと確認した。
私は、再び陛下の寝室へと急いだ。
寝室では、まだ侍医たちが困惑した表情で陛下の様子を見守っていた。
リオネル王子とセシリア皇妃も、心配そうに陛下の傍らに立っていた。
「王子殿下。儀式は無事に終了いたしました。陛下は、もうご安心ください」私の言葉に、誰もが驚きを隠せなかった。
リオネル王子は、私の手元の容器に視線を落とし、その瞳には、私の言葉を信じるかどうかの葛藤と、そしてかすかな希望の光が宿っていた。
「…本当なのか?メイド長」彼の声は、わずかに震えていた。
私は、深く頷いた。
「はい、王子殿下。あとは、侍医殿が適切な処置を施せば、すぐに回復に向かわれるかと存じます。
恐らく、陛下は、あの香木に付着していた、ごく微量の菌を吸い込まれたのでしょう」私は、侍医に、故郷で学んだ治療法を簡潔に伝えた。
それは、特定の薬草を煎じたものを服用させ、安静にさせるという、ごく簡単なものだった。
侍医は、私の指示通りに処置を施した。
その夜、陛下は、奇跡のように回復に向かった。
翌朝には、咳も治まり、発熱も引いていた。
陛下の顔には、生気が戻り、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
王宮全体に、安堵の空気が満ち渡った。
陛下の回復は、私にとって大きな喜びだった。
しかし、同時に、私は自分が「転移者」であるという可能性を、強く意識するようになった。
故郷の記憶、そしてこの王宮での「黒い病」に関する知識。
それらは、偶然では片付けられないものだった。
私は、秘匿された書庫での調査を、さらに加速させることを決意した。
王宮の執務室。
リオネル王子は、陛下の回復を間近で見守りながら、メイド長という存在の謎に、深く囚われていた。
彼女が、王族に伝わる秘術を、なぜ知っていたのか。
彼女の知識は、メイドのそれをはるかに超え、この国の学者たちすら知らない領域にまで及んでいた。
(あの女は…一体、何者なのだ…?)彼の脳裏に、秘匿された書庫で見つけた「転移」の記述が、再び頭をよぎる。
しかし、それはあまりにも突飛な話であり、メイド長の並外れた能力の理由としては、まだ現実味がないと感じていた。
彼は、メイド長が単なるメイドではないことを、そして彼女がただならぬ経歴を持つことを強く感じ始めていた。
彼の心は、メイド長への深い興味と、そして、彼女への抗いがたい魅力で満たされていた。
彼女は、彼の想像をはるかに超える、特別な存在になっていた。
その日の夜、リオネル王子は、自身の執務室で、老侯爵から受け取った新たな報告書に目を通していた。
報告書には、メイド長の過去に関する、さらに詳細な情報が記されていた。
孤児院に入居する以前の彼女の記録は、驚くほど空白が多く、まるで存在を消されたかのようだった。
しかし、その報告書の最後に、老侯爵が独自に調査した、ある不確かな情報が付け加えられていた。
『…孤児院に入る以前のメイド長の足取りは不明。
しかし、彼女が使用する古語の一部が、隣国で「失われた古い言葉」として伝わるものと酷似しているとの証言あり。
ただし、この情報には確証がなく、あくまで参考情報として提出する』その記述を読んだ瞬間、リオネル王子の手から報告書が滑り落ちそうになった。
彼はその報告書を強く握りしめ、視線を窓の外に向けた。
彼の瞳は、驚愕と、そして深い思索の光を宿していた。
(失われた古い言葉…?彼女は、一体どこから来たのだ…)彼の心臓は、激しく高鳴っていた。
彼の長年の疑問に、ようやく光が差し込んだような感覚だった。
彼女の並外れた知識、気品、そして彼を惹きつけてやまない魅力の全てが、その「謎」によって説明できる。
彼は、窓の外の月を見上げた。
その光は、まるでメイド長の瞳のように、静かに輝いていた。
彼の心は、メイド長への揺るぎない関心と、そして、彼女への強い保護欲で満たされ始めていた。
彼は、メイド長が過去にどのような経緯を辿ってきたのか、そしてなぜ身分を隠してこの王宮にいるのか、全てを知りたいと強く願った。
そして、彼女をこの王宮で守り、彼女が安心して過ごせる場所を、自らの手で作り出すことを決意した。
「…ロゼ。
お前の秘密は、俺が守る。
そして、お前を、この王宮で、誰よりも輝かせてみせる」彼の声は、静かだったが、その言葉には、未来への強い決意が込められていた。
彼は、メイド長の秘密の深さを知った上で、彼女との関係を、単なるメイドと主という枠を超え、真のパートナーとして、そして魅かれる女性として、歩み始めることを誓った。
彼は、次にメイド長をどう動かすべきか、そして彼女の心をどう開かせるべきか、新たな、そしてより個人的な策略を巡らせ始めた。
彼の視線は、執務机に広げられた、この国の古い地図に落とされた。
その地図には、隣国との国境付近に、未だ立ち入りの少ない広大な森が描かれていた。
彼は、その森に指を滑らせながら、メイド長自身の知られざる過去、そしてこの国の未来との繋がりを深く考えていた。