第18話
夜会の準備は、まさに私の全てを捧げるような、目まぐるしいものだった。
メイド長としての職務は、私が想像していた以上に広範かつ複雑であり、
その中でも王宮で最も重要な行事の一つである夜会の指揮を執ることは、私にとって最大の試練だった。
王宮の広大な舞踏会の間を、一晩で来賓を迎えるにふさわしい、
華やかで完璧な空間へと変貌させなければならない。
私は、まず招待客のリストを隅々まで確認した。
リストには、この国の名だたる貴族たちの名前がずらりと並び、
その中には、セシリア皇妃の側近や、私に冷たい視線を向ける者たちの名も含まれていた。
それぞれの貴族の嗜好や、アレルギー、過去の宴での振る舞いまで、
可能な限りの情報を集め、献立の調整に反映させた。
料理は、単なる食材の組み合わせではなく、
来賓たちの舌を満足させ、彼らの会話を弾ませる
「 仕掛け 」
でなければならなかった。
私は、料理長と何度も打ち合わせを重ね、
この季節ならではの旬の食材を最大限に活かしつつ、
視覚的にも楽しめるような盛り付けや、
この王宮でしか味わえない特別なデザートまで、細部にわたって指示を出した。
会場の装飾も、私の重要な仕事だった。
舞踏会の間は、その広大さゆえに、一歩間違えれば閑散とした印象を与えかねない。
私は、季節の花々をふんだんに使い、色彩豊かな装飾を施すことを決めた。
王宮の庭園で育った花々だけでなく、遠方の領地からも珍しい花を取り寄せ、
会場の隅々まで、甘く芳醇な香りが漂うように配置した。
壁には、この国の歴史を描いた巨大なタペストリーが飾られ、
そこに照明の光が当たることで、幻想的な雰囲気を醸し出すよう工夫した。
シャンデリアの輝きが、磨き上げられた大理石の床に反射し、
まるで夜空にきらめく無数の星々が降り注いだかのようだった。
楽団の選定から演奏曲目の指示も、私の重要な役割だった。
私は、来賓たちが心地よく会話を楽しめるような、優雅で洗練されたクラシック音楽を中心に選曲し、
しかし単調にならないよう、途中で活気のある舞曲を挟むことを提案した。
楽団の指揮者と何度も打ち合わせを重ね、
それぞれの曲の開始と終了のタイミング、音量の調整まで、細かく指示を出した。
そして何よりも、数百人ものメイドたちの動きを秒単位で管理する進行表の作成は、
私にとって最大の挑戦だった。
飲み物の補充、料理の提供、空になったグラスや皿の片付け、来賓たちの案内、
そして突発的なトラブルへの対応。
その全てを、滞りなく、そして来賓に気づかれないようにスムーズに行うためには、
メイド一人ひとりの動きを完全に把握し、最適な配置とタイミングで指示を出す必要があった。
私は、王宮全体のメイドたちの顔と名前、そしてそれぞれの得意分野を全て頭に入れ、
誰がどの位置で、どのタイミングで動くべきか、綿密な計画を立てた。
「 メイド長、このテーブルクロスはこれでよろしいでしょうか?
もう少し右にずらした方が、花の配置が引き立つかと… 」
「 メイド長、こちらのワインはどの銘柄にいたしますか?
侯爵がお好みの銘柄は、こちらとあちらの二種類がございますが… 」
休む間もなく飛んでくる質問に、私は一つ一つ的確な指示を出した。
私の声は、決して大きくはなかったが、
その言葉には確かな響きと、迷いのない意志が込められていた。
王宮の執事長や侍女長たちは、最初は私のような若輩者がメイド長に就任したことに
戸惑いを隠せないようだった。
中には、長年培ってきた経験と自負から、私の指示に抵抗を見せる者もいた。
しかし、私は感情的になることなく、冷静に、そして理論的に私の計画の意図を説明した。
無駄な作業を省き、適材適所の配置転換を行うことで、全体の作業効率は飛躍的に向上し、
彼らの長年の経験をもってしても思いつかなかったような、画期的な改善策も提案した。
例えば、以前は各部署が別々に調達していた消耗品を一括で管理し、
共同で購入することで、大幅な予算削減を実現した。
また、清掃業務においては、汚れやすい場所とそうでない場所の頻度を細かく設定し直し、
必要に応じてメイドを柔軟に配置転換することで、
全体的な清潔感を保ちつつ、無駄な労働時間を削減した。
最初は渋っていたメイドたちも、彼らの労働がより効率的になり、
休息時間も確保されるようになったことで、次第に私の指示に従うようになり、
王宮の清掃や管理は、目に見えて改善されていった。
彼らは、私をただのメイド長としてだけでなく、
その能力と行動力に対して、確かな敬意を抱くようになった。
私自身も、彼らとの協力関係が深まるにつれて、
王宮全体のメイドたちが一つのチームとして機能する喜びを感じていた。
夜が明ける頃には、私の指示はもはや
「 命令 」
ではなく、
「 メイド長殿の指示ならば間違いない 」
と、王宮全体で共有されるようになっていた。
私自身、休む間もなく動き回り、食事もまともに取れない日々が続いた。
眠気と疲労が私を襲い、頭痛に悩まされることもあったが、
ベアトリス様の笑顔と、この王宮での私の使命が、私を突き動かした。
ふと、故郷の王宮での日々を思い出した。
あの頃も、私は王女として、国の宴の準備に携わることがあった。
しかし、その時は、多くの侍女や執事が私の傍らに控えて、私を支えてくれた。
私はただ、彼らの提案の中から最適なものを選ぶだけでよかった。
今、私は一人で、この巨大な王宮の全てを指揮している。
その事実に、私はかすかな誇りを感じると同時に、
故郷を離れて遥か異国で、このような大役を任されていることへの、不思議な感慨を覚えた。
夜会当日、王宮の舞踏会の間は、まさに息をのむような美しさだった。
豪華なシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、きらめく無数の星のようだった。
壁には、この季節ならではの純白のバラや、鮮やかな青いアジサイ、
そして金色のユリがふんだんに飾られ、甘く芳醇な香りが空間を満たしていた。
楽団の奏でる優雅な音楽が、会場全体を包み込み、
訪れる貴族たちのざわめきと祝福の言葉が響き渡った。
リオネル王子は、王族の紋章が刺繍された紺色の豪華な礼服を身につけ、
会場の中央、一段高い位置に立っていた。
その姿は、まるでこの王宮の絶対的な支配者であるかのような威厳を放っていた。
彼の隣には、薄い藤色のドレスを纏ったベアトリス様が控えている。
ベアトリス様のドレスは、私の助言で選ばれたもので、
彼女の翡翠色の瞳の色と、穏やかな雰囲気に見事に調和していた。
彼女の顔には、わずかな緊張の色が浮かんでいたものの、
その瞳には確かな自信が宿り、以前のような怯えはどこにもなかった。
彼女は、私との事前の打ち合わせ通り、優雅な仕草で貴族たちを迎え入れていた。
その姿は、もはや冷遇された皇妃ではなく、
この国の未来を担うべき、真の皇妃の姿だった。
私は、舞踏会の間の隅、来賓の視線から隠れるようにして控えていた。
手に持った進行表を時折確認しながら、会場の隅々まで目を光らせ、
些細な問題も見逃さないよう注意を払った。
飲み物がこぼれればすぐに近くのメイドに目配せで指示を出し、
料理が少なくなれば素早く補充を命じた。
来賓同士の会話が途切れないよう、適切なタイミングで新しい話題を振るようにメイドたちに耳打ちし、
彼らがスムーズに社交を楽しめるよう、あらゆる配慮を怠らなかった。
私の指示は、まるで空気のように自然に、しかし確実に、会場全体に浸透していった。
全てのメイドが、私の意図を理解し、完璧に動いていた。
その連携は、まるで一糸乱れぬ精巧な機械のようだった。
その間、リオネル王子は、時折、私の元へと歩み寄ってきた。
彼は、会場の様子を視察するという名目で、私に言葉をかけることが多かった。
「 メイド長。
料理の提供は、予定通り進んでいるか?
来賓の反応はどうか 」
彼の声は、静かだったが、その問いには、厳格な王族としての責任感が滲み出ていた。
彼の視線は、私の顔に、そして私の手元にある進行表に注がれていた。
その瞳は、まるで私という存在の奥底にある何かを探ろうとしているかのように、
鋭く、そして深い輝きを放っていた。
「 はい、王子殿下。
全て滞りなく進行しております。
特に、この季節の海の幸を使った料理は、大変ご好評をいただいております。
来賓の方々からも、料理長への賞賛の声が多数届いております 」
私は、即座に答えた。
彼の視線は、私の報告を評価するような、そして何かを探るような光を宿していた。
しかし、それは、私が彼の期待に応えているかどうかを見極めようとする、
彼の**「 仕事に対する真摯な視線 」**
だと私は受け止めていた。
「 …そうか。
お前は、本当に完璧にこなすな。
どのような状況でも、冷静さを失わずに。
まるで、全てを予測しているかのようだ 」
彼の言葉には、かすかな感嘆の色が混じっていた。
彼は、私のメイド長としての手腕に、心から感銘を受けているようだった。
その言葉が、私の心に、かすかな優越感を抱かせた。
私は、彼の期待に応えられていることに、静かな満足を覚えた。
リオネル王子は、私が他のメイドたちに指示を出している時も、
遠くからその様子を静かに観察していることが多かった。
彼が、私がメイドたちに優しく、しかし毅然とした態度で接している姿を目にすると、
彼の表情に、普段は見せない微かな柔和な表情が浮かぶのを感じた。
それは、彼が私の
「 人間性 」
に、わずかながらに触れているような感覚だった。
彼の視線は、私の知らぬ間に、私の一挙手一投足に注がれていた。
私が、疲労で一瞬目を伏せた時、彼が眉をひそめたのが見えた。
私が、小さなメイドの失敗を優しく諭している時、
彼の口元に、かすかな笑みが浮かんだのが見えた。
その笑みは、まるで彼の冷徹な仮面の下に隠された、温かい感情が垣間見えたかのようだった。
夜会の終盤、王宮の重鎮である老侯爵が、リオネル王子の元へ歩み寄ってきた。
彼は、夜会の成功を称賛した後、リオネル王子に耳打ちするような仕草を見せた。
その侯爵の視線が、私に一瞬向けられたのが分かった。
彼の目に、警戒の色が宿っているように感じられた。
老侯爵は、セシリア皇妃派の筆頭であり、私の存在を快く思っていないことは明らかだった。
彼の表情は、何か不穏な情報を耳にしたかのように、険しくなっていた。
「 侯爵様は、私のことを警戒しているのかしら。
王子の隣にいるメイド長として、目立ちすぎたのかしら。
それとも、私の正体に関する何かを嗅ぎつけたのかしら… 」
私の心に、かすかな不安がよぎった。
私は、二人の間で何が話されているのか、気になったが、遠すぎて言葉を聞き取ることはできなかった。
しかし、王子の表情には、わずかな満足気な笑みが浮かんでいた。
それは、彼が自身の思惑通りに事が運んでいることを示しているかのようだった。
その笑みは、まるでチェス盤の駒を動かすかのような、冷静で計算されたものだったが、
その中に、ほんのわずかだが、達成感のような個人的な感情が滲んでいるように見えた。
夜会は、大成功のうちに幕を閉じた。
来賓たちは皆、満足げな表情で王宮を後にした。
彼らの間からは、
「 素晴らしい夜会だった 」
「 第二皇妃殿下も、随分と変わられた 」
「 あのメイド長は、一体何者だ? 」
といった声が聞こえてくる。
ベアトリス様は、疲労困憊ではあったが、
その顔には、確かな充実感と、誇らしげな笑顔が浮かんでいた。
彼女の瞳は、未来への希望に満ち、その輝きは、以前よりも一層強くなっていた。
「 ロゼ、本当にありがとう。
貴女のおかげで、私は今日、この王宮で、新たな一歩を踏み出せたわ。
貴女は、私の人生の光よ 」
ベアトリス様は、私の手をぎゅっと握りしめた。
彼女の温かい言葉に、私の胸は熱くなった。
これまでの全ての苦労が、この瞬間のためにあったのだと、心の底からそう感じた。
「 いいえ、ベアトリス様。
貴女様ご自身の努力の賜物でございます。
わたくしは、お手伝いさせていただいただけです 」
私は謙遜したが、ベアトリス様は首を横に振った。
「 貴女がいなければ、今日の成功はあり得なかったわ。
貴女は、私の希望よ 」
その言葉は、私の心を深く温めた。
私は、この王宮で、ベアトリス様のために尽くすことが、
私の新たな生きがいとなっていることを改めて実感した。
彼女の成長と、王宮での地位回復を間近で見守れることほど、私にとって喜ばしいことはなかった。
夜会が終わると、王宮は静寂に包まれた。
私は、残りのメイドたちに指示を出し、最後の片付けを見届けた。
舞踏会の間は、再び静かな広間へと戻っていたが、
そこには、華やかな夜会の余韻がかすかに残っているようだった。
全ての業務が終了し、メイド長室に戻った時、私は疲労困憊で、そのままベッドに倒れ込んだ。
深い眠りが、私を包み込んだ。
王宮の執務室。
リオネル王子は、静かに一人、琥珀色のワインをグラスに注ぎ、ゆっくりと傾けていた。
彼の脳裏には、夜会でのロゼの姿が鮮明に焼き付いていた。
彼女が、数百人ものメイドを完璧に指揮し、あの広大な会場を隅々まで管理する様子は、
まさに**「 才気溢れる女王 」**
のようだった。
彼女が、些細なミスも許さず、完璧なパフォーマンスを見せるたびに、
彼の心臓は高鳴り、彼女への抗いがたい魅力が募っていった。
「 あの女は…どこまで私の期待を上回るのだ。
そして、どこまで、私を惹きつけるのだ?
まるで、彼女自身が、この王宮の新たな光であるかのように… 」
彼は、独りごちた。
彼女の機知、知識、そして何よりも、そのどんな困難にも決して屈しない強い意志は、
彼がこれまで出会ったどんな貴族の女性たちよりも、はるかに魅力的だった。
彼は、ロゼが他のメイドに指示を出し、時には優しく、時には厳しく接する姿を目にすると、
自分でも気づかないうちに、その表情を追っていることに気づいた。
彼女が、無邪気に笑う姿や、困っているメイドに優しく接する姿を見るたびに、
彼の心の奥底に、これまで知らなかった温かい感情が芽生えていくのを感じていた。
それは、彼がこれまで経験したことのない、甘く、そして心地よい感覚だった。
彼自身、それが
「 恋 」
という感情だと認めるには、まだ抵抗があったが、
ロゼへの関心は日ごとに募り、もはや彼女から目が離せない状態になっていた。
彼が、彼女が他の誰かと親しく話しているのを見ると、微かな不快感さえ覚えるようになっていた。
まるで、自分の大切なものを、他の誰かに奪われるのではないか、というような、漠然とした不安だった。
彼は、今日の夜会で、あの老侯爵に、ある話を密かに持ちかけていた。
それは、ロゼの素性に関する、「 不審な点 」
についてだった。
リオネル王子は、老侯爵が王宮の情報網に深く精通し、
様々な貴族の秘密や過去を知っていることを知っていた。
彼は、ロゼの正体をより深く探るための一歩を踏み出したのだ。
しかし、彼の行動は、ロゼの秘密を暴露するためだけではなかった。
彼は、ロゼが抱えるであろう
「 秘密 」
が、彼女の持つ並外れた才能や、
彼の心を惹きつけてやまない
「 魅力 」
に、どのように繋がっているのかを、知りたいと強く願っていた。
そして、その秘密を知った上で、彼女を自分の傍に置くために、何をすべきかを考えていた。
彼女が、もし本当に
「 転移者 」
であるならば、彼女はかけがえのない存在となる。
この国の未来を左右する、重要な鍵となるだろう。
「 …ロゼ 」
彼は、グラスを置き、ロゼの名前を静かに呟いた。
その声には、もはや冷徹さはなく、深い愛情と、かすかな切望が混じり始めていた。
彼は、ロゼという存在が、自身の未来にとって、
そしてこの国の未来にとって、不可欠な存在になりつつあることを、強く自覚し始めていた。
彼女の存在は、まるで夜空に輝く一等星のように、
彼の冷え切った心を照らし、新たな希望を与えていた。
彼は、ロゼの隠された真実を知ることで、彼女との関係を、
メイドと主という枠を超え、より深く、特別なものへと進展させたいと強く願っていた。
彼の心は、ロゼへの恋心で満たされ始めていたのだ。
彼は、次にロゼをどう動かすべきか、そして彼女の心をどう開かせるべきか、新たな策略を巡らせていた。
彼の視線は、執務机に広げられた、ロゼリア王国の古い地図に落とされた。
その地図の端には、かつての王家の紋章が、かすかに描かれていた。
彼は、その紋章に指を滑らせながら、ロゼ自身の知られざる過去、
そしてこの国の未来との繋がりを深く考えていた。
彼の計画は、ロゼの知らぬ間に、しかし確実に、二人の運命を大きく変えようとしていた。
彼は、ロゼ自身が、自らの意思で彼の元へと歩み寄ってくるような状況を作り出すことを決意していた。
そのために、彼はあらゆる手段を講じるだろう。
ロゼは、まだそのことに全く気づかないまま、深い眠りの中にいた。
彼女の夢の中には、故郷の王宮の風景と、ベアトリス様の柔らかな笑顔が、優しく浮かんでいた。