第16話
メイド長としての私の日々は、まさに嵐のようだった。
早朝から深夜まで、私は王宮の隅々まで目を配り、
メイドたちの指揮を執り、膨大な量の報告書に目を通した。
各部署の予算編成から、清掃用具の調達、
さらにはメイドたちの労働環境の改善に至るまで、
あらゆる問題が私の元に持ち込まれ、その解決に追われた。
王宮という巨大な組織を動かすことは、想像以上に困難を極めたが、
私は故郷の王宮で培った知識と経験を総動員し、
一つ一つの課題に真摯に向き合った。
私の努力は、王宮のメイドたちの間で徐々に信頼を築き上げ、
彼らは私を
「 ロゼ様 」
と呼んで慕ってくれるようになった。
「 メイド長としての責任は重いけれど、王宮の運営に直接関われることは、私にとって大きな学びになっているわ。
そして何より、ベアトリス様を支えるための力が、少しずつでも手に入っているのだから 」
ベアトリス様の公務への適応は、目覚ましいものがあった。
茶会や午餐会だけでなく、慈善事業の視察や、
外交使節との非公式な面会にも積極的に参加するようになったのだ。
彼女は、もはや周囲の冷ややかな視線に怯えることはなく、
自身の意見を堂々と述べ、その気品と知性で多くの貴族たちの心を掴み始めていた。
彼女の宮殿には、以前よりも多くの招待状が届くようになり、
その中には、セシリア皇妃の側近からのものも含まれるようになった。
それは、ベアトリス様が王宮内で確かな存在感を示し始めている何よりの証拠だった。
彼女の笑顔は、以前にも増して輝きを増し、
その姿を見るたびに、私の胸は温かい喜びに満たされた。
そんなある日、私は王宮の図書館で、古文書を読み漁っていた。
メイド長としての職務の傍ら、私はこの国の歴史、
特に王族の系譜に関する記述を調べていたのだ。
ロゼリア王国とこの国の王室との間に、何らかの繋がりがあるのではないかという
漠然とした予感が、私を突き動かしていた。
図書館は、王宮の中でも特に静かで、知識の香りが漂う場所だった。
私は、書物の山に囲まれ、夢中になってページをめくっていた。
その時、背後から、微かな足音が近づいてくるのを感じた。
振り返ると、そこにはリオネル王子が立っていた。
彼は、いつも通り感情の読めない表情で、私の手元の古文書に視線を落とした。
彼の瑠璃色の瞳には、何かを探るような、そしてどこか愉悦を帯びた光が宿っているように見えた。
「 メイド長。
このような場所で、一体何を調べているのだ? 」
彼の声は静かだったが、その問いには、
私が読んでいる書物の内容、そして私の真の意図を探ろうとするような響きがあった。
「 王子殿下。
王宮の歴史について、見聞を広めております。
メイド長として、この国の歴史を深く理解することは、
業務の円滑な遂行に繋がると考えまして 」
私は、とっさにそう答えた。
心臓が、ドクンと音を立てた。
彼が、私がロゼリア王国の歴史を調べていることに気づいているのではないかと、
一瞬、不安がよぎった。
しかし、彼は何も言わず、ただ私の手元をじっと見つめていた。
その視線は、私が読んでいる古文書の年代や、
その記述の細部にまで向けられているようだった。
「 …そうか。
お前は、勤勉なメイド長だな。
しかし、王宮の歴史を学ぶのならば、より詳細な記録がある場所を知っている 」
彼の言葉に、私は顔を上げた。
彼は、私の質問を待つかのように、わずかに口角を上げた。
「 もしよろしければ、お教えいただけますでしょうか、王子殿下 」
私の言葉に、彼は静かに頷いた。
「 ついて来い 」
リオネル王子は、そう言うと、静かに図書館の奥へと歩き出した。
私は、彼の後を追った。
彼が向かった先は、図書館のさらに奥に位置する、
通常は王族と一部の学者しか立ち入ることのできない、
「 秘匿された書庫 」
だった。
その扉は、厳重な鍵がかけられ、重厚な鉄で補強されていた。
書庫の扉が開くと、そこには、
これまで私が見てきたどんな書物よりも古く、貴重な文献がずらりと並んでいた。
埃を被った書棚には、年代物の革表紙の書物がびっしりと詰まっている。
その中には、この国の建国以前の歴史や、滅びた小国の記録、
そして王室の秘密の系譜に関するものまで含まれているようだった。
その膨大な知識の宝庫に、私の心は高鳴った。
「 ここに収められている書物は、王宮でもごく一部の人間しか知らぬものだ。
お前ならば、これらを有効に活用できるだろう 」
リオネル王子は、静かにそう言った。
彼の視線は、私が書棚に並んだ書物を見上げている姿に向けられていた。
その瞳には、私が知識の探求に夢中になっている様子を見守るような、
穏やかな光が宿っているように見えた。
それは、彼が私を
「 優秀な道具 」
としてだけでなく、一人の人間として、その知的好奇心を尊重しているかのような視線だった。
彼が、私という存在を、単なるメイドの枠を超えて、
何か特別なものとして認識し始めていることを、私はまだ明確には理解していなかったが、
彼の言葉と視線には、かすかな温かさが感じられた。
「 …ありがとうございます、王子殿下。
このような貴重な書物を閲覧させていただけるなど、身に余る光栄でございます 」
私は、深く頭を下げた。
彼が私に、これほどの信頼を寄せていることに、私は胸が熱くなった。
「 礼は無用だ。
…お前が、この書庫で何か新たな発見をすれば、それはこの国のためにもなる 」
リオネル王子は、そう言い残すと、書庫の扉を静かに閉めて立ち去った。
私は一人、秘匿された書庫の中で、埃っぽい書物の匂いに包まれながら、
新たな知識の探求に没頭した。
彼の言葉の裏には、私が何か
「 特別な発見 」
をすることを期待しているような響きがあった。
それは、私が知りたいと願うロゼリア王国の歴史に関する手がかりのことだろうか。
その日の夜も、私はメイド長室で、書庫から持ち帰った古文書を読み込んでいた。
その中には、ロゼリア王国に関する記述が、かすかに、しかし確かに存在しているものがあった。
しかし、その記述は断片的で、明確な繋がりを見出すことはできなかった。
私は、さらに深く、ロゼリア王国の歴史を掘り下げていく必要があると確信した。
一方、王宮の自身の執務室に戻ったリオネル王子は、
静かに窓の外の夜空を見上げていた。
彼の脳裏には、秘匿された書庫で、書物に夢中になるロゼの姿が鮮明に焼き付いていた。
彼女が、目を輝かせながら古文書を読み漁る姿は、
まるで知識という名の光を求める、小さな蝶のようだった。
そのひたむきな姿は、彼の心を強く揺さぶった。
「 あの女は…まるで、この書庫に隠された秘密を、最初から知っているかのように、迷いなく古文書を手に取った。
彼女は、本当にただのメイドなのか? 」
彼は、自分の直感を信じていた。
ロゼの言動の端々には、貴族社会の常識をはるかに超える知性、
そして、時に王族にすら通じるような威厳が感じられた。
彼女が、なぜこれほどまでに王宮の歴史や、
そして特にロゼリア王国の歴史に興味を持っているのか。
彼の探求心は、もはや抑えきれないほどに高まっていた。
彼は、自身の執務机の引き出しから、一枚の古い地図を取り出した。
それは、この国の隣国であり、かつてロゼリア王国と呼ばれた地の地図だった。
その地図の端には、かつての王家の紋章が、かすかに描かれていた。
「 ロゼ…お前は、一体何者だ?
そして、私に、何をもたらすつもりなのだ? 」
リオネル王子の心には、ロゼという存在が、
単なるメイドという枠を超え、彼自身の運命、
そしてこの国の未来を大きく左右する存在になるかもしれないという、
漠然とした予感が芽生えていた。
彼の視線は、もはや
「 優秀な道具 」
を見るような冷徹なものではなかった。
それは、かけがえのない宝物を見つめるような、熱く、そして深い感情を帯び始めていた。
彼は、ロゼ自身が自分の正体を抱えていることを確信していたが、
それを暴くことよりも、彼女の持つ未知なる輝きに、抗いがたい魅力を感じ始めていたのだ。
彼は、ロゼ自身が自分の正体を明かすまで、じっと待つことを決めた。
そして、彼女が自ら心を開くような、
“ ある状況 ”
を、密かに作り出そうと企んでいた。
彼の計画は、ゆっくりと、しかし確実に動き始めていた。
ロゼは、王子のそんな思惑に、まだ全く気づかないまま、
秘匿された書庫での新たな任務に没頭していた。
彼女の心には、ベアトリス様の笑顔と、故郷の謎を解き明かすことだけが満ち溢れていた。