第13話
午餐会での一件以来、ベアトリス様の宮殿には
以前よりも公的な招待状が届くようになった。
それは、リオネル王子が積極的に彼女の復帰を促している証拠だった。
ベアトリス様は、最初こそ戸惑っていたが、
私の励ましと、そしてあの午餐会での成功体験が、
彼女の背中を押したようだった。
彼女は、少しずつだが、公の場へ姿を現すことに抵抗がなくなっていた。
その瞳には、以前のような怯えではなく、
かすかな期待と、自身への信頼が宿り始めていた。
「 ベアトリス様が、こんなにも強くなれるなんて。
本当にすごいわ。
私まで勇気をもらえるわ 」
私は、彼女が安心して公務に臨めるよう、あらゆる準備に奔走した。
最新の王宮の流行や、各貴族家の家系図、
そして過去の政治的な動きまで、手に入る限りの情報を集め、
ベアトリス様に伝えた。
夜遅くまで書物を読み込み、重要と思われる点を簡潔にまとめ、
彼女が理解しやすいように説明した。
彼女は、私の助言を真剣に聞き入れ、日に日に知識を吸収していった。
その姿は、まるで冬を越え、春の光を浴びて目覚めていく植物のようだった。
宮殿の書斎の明かりは、以前よりも長く灯るようになり、
その光は、この冷遇された宮殿に、新たな息吹をもたらしているようだった。
ある日の午後、ベアトリス様は王宮の茶会に招かれた。
それは、セシリア皇妃が主催する、王宮の女性貴族たちが集う重要な社交の場だった。
王宮の社交界において、セシリア皇妃の茶会は、
その時々の権力構造を反映し、
無言の圧力と駆け引きが繰り広げられる、一種の戦場のような場所だった。
ベアトリス様は、緊張の面持ちで私を見た。
その顔は、ほんのわずかに青ざめていた。
「 ロゼ…やはり、不安だわ。
セシリア皇妃の顔を見るだけでも、胸が締め付けられるのに、
あの場所で一人でいるのは… 」
彼女の不安は、当然のことだった。
セシリア皇妃の冷遇は、ベアトリス様の心を深く傷つけてきたのだから。
「 ベアトリス様、ご安心ください。
貴女様は、もうお一人ではございません。
わたくしが、いつでも傍におります。
そして、貴女様には、誰もが羨む気品と知性がございます。
どうか、ご自身の力を信じてくださいませ。
貴女様の隣には、貴女様を支える者が必ずおります 」
私の言葉に、ベアトリス様は静かに頷いた。
彼女は、私の手をぎゅっと握りしめた。
その手には、以前のような冷たさはなく、確かな温もりが宿っていた。
その温かさが、私自身の不安をも和らげてくれるようだった。
私たちは、共に深い息を吐き、馬車に乗り込んだ。
茶会の会場は、午餐会以上に華やかで、
しかし同時に、女性特有の鋭い視線が飛び交う場所だった。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちが、優雅な仕草で談笑しているが、
その笑顔の裏には、それぞれ異なる思惑と計算が隠されているのが見て取れた。
煌びやかな装飾品が、彼女たちの無言の戦いを際立たせているかのようだった。
セシリア皇妃は、会場の中央、一段高い位置に座り、
まるで氷の女王のように冷たい眼差しで、会場全体を見下ろしていた。
その目は、ベアトリス様を迎え入れた瞬間、明らかに敵意を帯びて細められた。
ベアトリス様は、私とリオネル王子の護衛兵に守られるようにして、
会場の隅に設けられた席へと向かった。
彼女は、緊張しながらも、午餐会で身につけた自信を胸に、
堂々とした足取りで歩いた。
会場のざわめきが、一瞬にして止まり、
全ての視線がベアトリス様に集中した。
その多くは、好奇と、そして軽蔑の入り混じったものだったが、
中には、彼女の久しぶりの登場に、期待の目を向ける者もいるようだった。
リオネル王子は、すでに会場の奥、目立たない位置に立っていた。
彼は、一見するとただ静かに茶会を眺めているように見えるが、
その視線は、常にベアトリス様と私を追っていた。
彼が、ベアトリス様の一歩後ろに立つ私に、
一瞬だが、探るような視線を向けたのが分かった。
その瞳は、まるで私たちの関係性を、あるいは私の役割を、
そして私の真の力量を測ろうとしているかのように、深く静かだった。
しかし、私はそれを、彼がベアトリス様の付き添いである私の仕事ぶりを
観察しているのだと解釈した。
彼の厳格な性格からすれば、当然のことだと思ったのだ。
茶会が始まると、セシリア皇妃の側近たちが、
まるで示し合わせたかのように、
次々とベアトリス様に意地の悪い質問や嫌味な言葉を浴びせてきた。
それは、まるで彼女の知識や品格を試すかのようだった。
「 第二皇妃殿下は、最近の貴族院での議論について、
どのようなご見解をお持ちでいらっしゃいますか?
特に、地方貴族の税制改革案につきましては、
ご意見をお持ちでいらっしゃいますでしょうか 」
一人の老婦人が、まるで罠を仕掛けるかのように尋ねた。
その口元には、不敵な笑みが浮かんでいた。
それは、ベアトリス様が長らく公務から離れていたことを踏まえ、
彼女が無知であることを晒し出そうとする意図が透けて見えた。
しかし、ベアトリス様は、私が事前に伝えた情報を基に、冷静に答えた。
彼女の声は、まだわずかに震えていたが、その言葉には確かな知性が宿っていた。
「 その件については、私も関心を寄せております。
特に、地方貴族の税制に関する議論は、
この国の基盤を揺るがしかねない重要な問題だと認識しております。
安易な改革は、かえって地方の経済を疲弊させる恐れがございますので、
慎重な検討が必要かと存じます。
私は、現状の税制を維持しつつ、より効率的な徴税方法や、
地方産業への投資を促す政策を優先すべきだと考えております 」
ベアトリス様の的確な返答に、老婦人は一瞬言葉を失った。
彼女は、ベアトリス様がこれほどまでに時事問題に精通しているとは
思っていなかったのだろう。
会場のざわめきが、わずかに大きくなった。
いくつかの貴婦人たちは、感心したように頷いているのが見えた。
セシリア皇妃の表情が、わずかに曇った。
しかし、彼女はすぐに別の貴族に目配せし、
さらに厳しい質問をベアトリス様に浴びせさせた。
「 では、第二皇妃殿下は、王都の治安維持策について、
どのようなご意見をお持ちでいらっしゃいますか?
最近、王都では不審な事件が相次いでいると聞きますが 」
別の貴族婦人が、ベアトリス様を困らせようと、より具体的な問題を持ち出した。
彼女は、ベアトリス様が宮殿に閉じこもっている間に、
世間の情報に疎くなっていることを示そうとしたのだろう。
ベアトリス様は、一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「 王都の治安は、この国の安定にとって最も重要な課題の一つと認識しております。
不審な事件については、私も心を痛めております。
しかし、治安維持は、単に兵力を増強するだけでなく、
市民の生活状況の改善や、教育の普及、
そして何よりも、情報共有の徹底が不可欠だと存じます。
先日、王都で発生した貴族の子息を狙った誘拐事件についても、
王宮の警備体制の見直しと、情報部隊の連携強化が急務かと存じます 」
ベアトリス様の言葉は、私が提供した情報以上の深さを持っていた。
彼女は、単に知識を披露するだけでなく、自分自身の考えを明確に述べていた。
その姿は、以前の怯えた皇妃とは別人のようだった。
会場の貴族たちは、ベアトリス様の堂々とした態度と、その知性に、
次第に感銘を受けているようだった。
その間、リオネル王子は、会場の片隅で静かに私たちの様子を観察していた。
彼の表情は相変わらず読み取れないが、
時折、私の動きや言葉遣い、そしてベアトリス様の変化に、
微かな視線が留まるのを感じた。
それは、私が皇妃を相手にしているかのように、
厳格で正確な対応をしていることを評価している視線だと、私は受け止めていた。
彼の視線は、まるで私が完璧なメイドであるかを品定めしているかのようだった。
「 …最後に、第二皇妃殿下。
この国の紅茶の歴史について、どれほどの知識をお持ちでしょうか?
我々貴族にとって、紅茶は生活の一部でございますが、
その深い歴史までをご存知の方は少ないかと存じます 」
セシリア皇妃が、最後に冷たい声で尋ねた。
彼女の口元には、再び嘲笑が浮かんでいた。
これは、ベアトリス様が長らく宮殿に引きこもっていたことを揶揄し、
世間知らずであることを示すための、決定打となる質問だった。
紅茶の歴史は、貴族の嗜みとして広く知られているが、
学術的な知識を問われることは稀で、
よほどの茶道愛好家でなければ深くは知らないはずだった。
ベアトリス様は、一瞬言葉を詰まらせた。
彼女の顔色が、わずかに青ざめた。
私は、彼女がこの質問の意図を理解し、窮地に立たされていることに気づいた。
その時、私は、以前リオネル王子が私の淹れた紅茶の香りを指摘した時のことを思い出した。
あの時、私は彼の鋭い感覚に驚いたが、
同時に、彼が紅茶に対して特別な関心を持っていることを感じていた。
私は、リオネル王子の方へ、さりげなく視線を向けた。
彼は、その視線に気づいたかのように、私に一瞬だけ、かすかな頷きを返した。
その頷きは、まるで
「 お前ならできる 」
と促しているかのようだった。
「 王子様は、私が紅茶の知識を持っていることを知っているのね。
これは、私に解決を促している…? 」
私は、リオネル王子が、私に助け舟を出す機会を与えてくれているのだと解釈した。
私は、一歩前に進み出た。
私の心臓は、激しく脈打っていたが、
ベアトリス様を守るという強い使命感が、私を突き動かした。
「 セシリア皇妃殿下。
恐縮ではございますが、この質問は、第二皇妃殿下よりも、
わたくしのようなメイドの方が、より深くお答えできるかと存じます。
日頃より殿下のために紅茶を淹れさせていただいておりますので、
僭越ながら、わたくしからお答えさせていただいてもよろしいでしょうか? 」
私の申し出に、会場の貴族たちがざわめいた。
メイドが、皇妃の代わりに答えるなど、前代未聞の事態だった。
セシリア皇妃の表情が、驚きと、そして侮蔑に変わった。
彼女の目には、明らかに
「 身の程知らず 」
という感情が読み取れた。
「 メイド風情が、何を生意気なことを!
身の程を知りなさい!
無礼千万な! 」
セシリア皇妃は、怒りを露わにした。
しかし、リオネル王子が、静かに口を開いた。
彼の声は、会場のざわめきを一瞬にして鎮めた。
「 母上。
このメイドは、先日、ベアトリスに関する騒動の際も、思わぬ機転を利かせた。
今回は、紅茶に関する専門的な知識を問うているのだ。
メイドの方が詳しいこともあるだろう。
聞かせてみるのも一興かと存じます 」
リオネル王子が、私を擁護する言葉を口にしたことに、
会場の誰もが驚きを隠せないようだった。
セシリア皇妃は、顔色を青ざめさせ、悔しそうに唇を噛み締めた。
息子の言葉に逆らえない彼女は、不本意ながらも私に視線を向けた。
その視線は、私を睨みつけるものだった。
「 …よろしい。
ならば、メイド。
お前が答えてみせなさい。
ただし、もし的を射た答えでなければ、相応の罰を与える 」
私は、頭を下げ、故郷で学んだ紅茶の知識を滔々と語り始めた。
東洋の香辛料としての歴史から、王室で嗜まれるようになった経緯、
さらには茶葉の種類や、淹れ方による味と効能の違い、
そして貴族が嗜む上で欠かせない作法とマナーまで。
私の言葉は、貴族院での演説のように淀みなく、
その知識は、専門家顔負けのものだった。
私の話は、まるで一つの物語を聞かせているかのように、貴族たちを惹きつけた。
彼らは、私の言葉に耳を傾け、その表情は、驚きと感嘆に変わっていった。
中には、熱心にメモを取る者さえいた。
彼らは、目の前のメイドが、これほどの知識と教養を持っているとは、
夢にも思わなかったのだろう。
私の話が終わると、会場はしばらく静まり返った。
やがて、誰からともなく、拍手が起こり始めた。
その拍手は、次第に大きくなり、会場全体に響き渡った。
貴婦人たちの目には、尊敬の念が宿っていた。
セシリア皇妃は、顔を真っ赤にし、怒りに震えていた。
彼女は、これ以上この場にいることはできないと判断したのだろう。
「 …今日は、これまでにしましょう 」
そう言い残すと、彼女は側近を伴い、足早に茶会を後にした。
その背中には、明らかな敗北の色が滲んでいた。
ベアトリス様は、私の手を強く握りしめ、
その瞳は、感動と、そして私への深い信頼に満ちていた。
「 ロゼ…貴女は、本当に、私の恩人だわ。
貴女がいなければ、私は今日、この場所で、再び絶望していたでしょう 」
彼女の声は、これまでのどんな時よりも、温かく、そして力強かった。
その言葉は、私の心を温かく包み込み、
これまでの苦労が報われたと強く感じさせた。
リオネル王子は、私の横を通り過ぎる際、
私にだけ聞こえるような小さな声で、言葉をかけた。
彼の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「 …見事だった。
期待をはるかに上回ったな、メイド。
お前の才覚、存分に見せてもらった 」
彼の言葉は、私への賞賛だった。
彼の視線は、私の顔に一瞬留まり、
その瞳には、明確な興味と、そして深い探求心の光が宿っているように見えた。
しかし、それは、私が彼の期待に応えたことへの評価だと、私は受け止めた。
私の「 メイドとしての才能 」
が、彼に認められたのだと。
彼は、王宮で私のような
「 使える人材 」
がいることを、喜んでいるのだろう。
「 これで、ベアトリス様の地位回復に、また一歩近づけたわ。
王子様も、私の働きを認めてくれている。
この宮殿で、私にしかできないことが、きっとあるはずだわ 」
茶会が終わり、宮殿に戻る馬車の中で、
ベアトリス様は、これまでで一番穏やかな笑顔を私に見せた。
彼女は、王宮の社交という試練を乗り越え、確実に強くなっていた。
その自信に満ちた横顔は、私に新たな希望を与えてくれた。
そして、その日の夜、リオネル王子は、王宮の自室で、
ロゼに関する調査報告書を読んでいた。
報告書には、ロゼの出身やこれまでの経歴が記されていたが、
どれも彼の心を納得させるものではなかった。
「 …孤児院の出で、これほどの才覚を持つとは、にわかには信じがたいな 」
彼は、報告書を閉じた。
彼の脳裏には、茶会でのロゼの鮮やかな立ち振る舞いと、
その深遠な知識が焼き付いていた。
彼女が、単なるメイドであるはずがない。
彼の直感は、そう告げていた。
「 一体、どこで、何を学んだのだ…ロゼ。
お前は、この王宮に、どんな変化をもたらすつもりだ? 」
彼の視線は、夜空の月を見上げていた。
その瞳には、ロゼという存在への抗いがたい好奇心と、
かすかな焦燥が混じっていた。
彼は、ロゼという謎を、自分の手で解き明かしたいと強く願っていた。
そして、彼女が持つその並外れた才能が、この国の未来にとって、
不可欠なものになるかもしれないという、漠然とした予感を抱いていた。
リオネル王子は、自身の執務机の引き出しから、一枚の古い地図を取り出した。
それは、ロゼリア王国の古い地図だった。
彼の心には、ロゼという女性への関心が、
単なるメイドへの評価を超え、個人的な探求へと変わり始めていた。