第10話
激動の朝が過ぎ去り、ベアトリス様の宮殿には、再び静寂が戻った。
しかし、そこに漂う空気は、以前とは全く異なっていた。
私が身を呈して小箱を守り、王子の介入によって事なきを得たあの出来事は、ベアトリス様の心を大きく揺さぶったようだった。
彼女の表情には、これまでの諦めや絶望とは異なる、複雑な感情が渦巻いていた。
それは、まるで長らく閉ざされていた扉の隙間から、初めて光が差し込んだかのような、あるいは凍てついた大地に、ようやく春の息吹が届いたかのような、微かな希望の兆しだった。
私は、散らばった書物を元に戻し、倒れた花瓶の水を拭き取りながら、時折ベアトリス様の方へ視線を向けた。
彼女はソファに座り、あの古びた絵本をしっかりと抱きしめていた。
その瞳は、まだ潤んでいたが、私を見つめるその視線には、以前のような冷たい壁は感じられなかった。
むしろ、そこに宿るのは、かすかな戸惑いと、私への深い信頼、そして言葉にならない感謝の念だった。
「ロゼ…貴女は、本当に、私のために…」
彼女の声はか細かったが、その中には、深い感謝と、そして戸惑いが混じっていた。
私の腕に残る赤くなった跡に、彼女の視線が何度も向けられているのが分かった。
その視線は、まるで私の痛みを自分のことのように感じているかのように、痛ましげだった。
(ベアトリス様が、私のことを心配してくれている。こんな温かい感情を、彼女が私に向けてくれるなんて…)
私は、その言葉に、静かに首を振った。
「当然のことでございます、ベアトリス様。私は、貴女様にお仕えするメイドですから。貴女様が安らかにお過ごしいただけるのであれば、これほどの喜びはございません」
私の言葉に、ベアトリス様は小さく息をのんだ。
彼女は、絵本を抱きしめたまま、私の腕にそっと触れた。
その指先は、ひんやりとしていたが、確かに私の痛みを気遣う温かさが伝わってきた。
彼女の指先が、傷跡を優しく撫でるたびに、まるで心がじんわりと溶けていくかのような感覚があった。
「痛むでしょう…すまないわ。私のせいで、貴女にまで怪我をさせてしまって…」
「いいえ、お気になさらないでください。これくらい、どうということはございません。ベアトリス様がお守りできたのですから、これで十分でございます」
私は、無理に笑顔を作った。
しかし、彼女の瞳からは、また一筋の涙が流れ落ちた。
その涙は、私を心配する純粋な感情からくるものだと感じた。
彼女は、もはや私をただのメイドとしてではなく、心を許せる人間として見てくれているのだと、私は確信した。
その日以来、ベアトリス様は、私に対して、これまでにないほど心を開いてくれた。
以前は、私が話しかけても短く答えるだけだったが、今では、自ら私に話しかけてくれるようになった。
絵本を読む時間が増え、物語の登場人物について、自分の考えや感情を話してくれることもあった。
「ロゼ、このひな鳥は、どうしてあんなに臆病なのかしら?大きな鳥が教えてくれたのに、それでも飛ぶのが怖いなんて…」
「きっと、一度大きな嵐に遭って、心に傷を負ってしまったからでしょう。でも、だからこそ、大きな鳥の温かさが、より心に染みたのだと思います。そして、一度飛べるようになれば、その空の広さに気づき、二度と恐れることはなくなるでしょう」
私の言葉に、彼女はゆっくりと頷いた。
彼女の瞳は、絵本の中のひな鳥と、そして自分自身を重ね合わせているようだった。
私たちが絵本について語り合う時間は、彼女にとって、過去の辛い経験を乗り越えようとする、大切な時間となっていった。
時には、物語の結末を、彼女自身が語り始めることもあった。
その物語は、彼女自身の希望を映し出すかのように、微かな光を帯びていた。
私は、彼女が安心して話せるように、ただ静かに耳を傾けた。
彼女が心の内を明かすたびに、私は自分の過去と重ね合わせ、深く共感した。
彼女の孤独、そして失われた光を取り戻そうとする姿は、かつての私自身の姿そのものだった。
私たち二人は、それぞれ異なる経験をしながらも、深い部分で繋がっているのだと感じた。
宮殿の雰囲気は、日ごとに明るさを増していった。
冷たい石造りの壁も、以前より温かみを帯びたように思えた。
私が手入れを始めた庭には、希望の花が、鮮やかな黄色と桃色の小さな花を咲かせ始めた。
その花々は、この寂しかった宮殿に、かすかな彩りと生命の息吹を与えてくれた。
花の香りが風に乗って宮殿の中にまで届き、閉鎖的だった空間に心地よい開放感をもたらした。
年老いた使用人たちも、ベアトリス様のわずかな変化を感じ取り、以前より活気を取り戻していた。
彼らは、私に温かい笑顔を向け、時には、ベアトリス様が幼い頃の宮殿の様子を懐かしそうに語ってくれた。
彼らの話を聞くたびに、この宮殿が、かつては温かい愛情に満ちた場所であったことを知り、私は一層、この場所を明るくしたいと願うようになった。
リオネル王子も、以前にも増してこの宮殿を訪れるようになった。
彼の来訪は、相変わらず唐突で、その真意は測りかねるものだった。
彼はベアトリス様と短い言葉を交わすだけで、私とはほとんど話すことはなかった。
しかし、彼が宮殿に滞在する時間が増えるにつれて、彼の視線が、私に向けられているのを感じることがあった。
それは、私が掃除をしている時、庭の手入れをしている時、あるいはベアトリス様と静かに話している時など、様々だった。
その視線は、決して長くはないが、確実に私を捉えていた。
(王子様は、私がこの宮殿で何をしているのか、気になっているのかもしれないわ。私がベアトリス様にもたらした変化を、彼はどう評価しているのかしら。あるいは、この宮殿全体の変化に、何か意味を見出そうとしているのかしら)
私がベアトリス様のために新しい種類のハーブティーを淹れていると、リオネル王子が、いつの間にか給仕室の入り口に立っていた。
彼の足音は、本当に静かで、気づくとそこにいる、ということが多かった。
私は、彼がそこにいることに気づくと、一瞬、心臓が跳ね上がった。
「…この香りは、以前とは違うな」
彼の声は、静かだが、その中には微かな興味が感じられた。
私は、彼の言葉に驚き、少し戸惑った。
彼は、私が淹れる紅茶の細かな変化まで気づいているのか。
彼の感覚は、驚くほど鋭いようだった。
「はい、ベアトリス様の体調を鑑みて、鎮静効果のあるハーブを配合しております。お好みで、蜂蜜を少量加えることもございます」
私がそう答えると、彼は何も言わず、ただ私の手元をじっと見つめていた。
彼の瑠璃色の瞳が、私がハーブを混ぜる指先に、まるで何かを解析するかのように集中しているのが分かった。
それは、単なる興味ではなく、どこか探るような、あるいは評価するような視線だった。
彼の視線に、私はわずかな緊張を覚えた。
まるで、私がどれほどの技術を持っているのかを、彼が品定めしているかのようだった。
「…そうか。ベアトリスが、以前より穏やかになったと聞く。お前の務めが、その一助となっているのなら、良いことだ。引き続き、励むことだ」
彼の言葉は、私への直接的な褒め言葉というよりは、ベアトリス様の変化を冷静に分析した結果のように聞こえた。
しかし、彼が私の働きを認識し、それを評価していることは確かだった。
彼の言葉には、以前のような冷徹さだけでなく、かすかな期待のようなものが含まれているように感じられた。
それは、まるで、彼が私に、この宮殿でさらなる役割を求めているかのような響きだった。
(王子様は、ベアトリス様が元気になったことを、喜んでいるのね。私の努力が、少しでも彼の目にも留まったのなら、嬉しいわ。これで、ベアトリス様が王宮内で少しでも認められるようになるかもしれない)
私は、リオネル王子が、ベアトリス様の変化を何よりも重視しているのだと解釈した。
私の働きが、彼の目的の一助となっていることを、彼は認めているのだ。
それは、私にとって、この宮殿で務めを続ける上で、大きな励みとなった。
彼の視線は、あくまでベアトリス様の変化と、その変化をもたらした「メイドの能力」に向けられているのだと、私は理解していた。
彼の評価は、私がメイドとして正しく任務を遂行していることへの、客観的なものだと信じて疑わなかった。
この宮殿で、私の新たな使命が明確になった。
それは、ベアトリス様の心を完全に癒し、彼女がこの王宮で、再び自信を持って生きられるようにすること。
そして、その過程で、この宮殿に失われた光を、もう一度灯すことだった。
私自身の過去の悲しみは、この使命を果たすための、強い原動力となっていった。
私は、この場所で、ベアトリス様と共に、新たな日々を築いていくことを心に誓ったのだった。