第1話
王都ヴェルデの喧騒は、私の耳には届かない。
まるで、遠い幻聴のように、ただただ虚しく響くばかりだ。
かつて、ロゼリア王国の第一王女ロゼッタとして生きていた頃の私は、この都市の光景を見て、どんな感想を抱いただろうか。
きっと、その美しさや活気に目を奪われたことだろう。
だが、今の私は、ただのしがないメイド、「ロゼ」として、この巨大な宮殿の一角に息を潜めている。
(私は、一体、何者なのだろうか?)
自問自答は、日々の労働の中で、深く、そして重く心に沈んでいく。
隣国ソルベールの侵攻により、私の故郷ロゼリア王国は、文字通り地図から消え去った。
燃え盛る王城、民の悲鳴、そして、私を逃がすために命を散らしていった護衛たちの姿。
その全てが、悪夢のように脳裏に焼き付いている。
身一つで、このアストライアへと逃れてきた私には、もはや「王女」という過去の栄光は、ただの重荷でしかなかった。
アストライアの王宮は、その壮麗さで知られている。
けれど、私が働くのは、その華やかな表舞台から最も遠い、王宮の一番端にある、薄暗いメイド詰所だった。
ここで与えられた私の名は、過去を完全に断ち切るように「ロゼ」。
新米メイドとして、私の日々は、慣れない肉体労働の連続だった。
朝早くから夜遅くまで、ひたすら床を磨き、洗濯物をたたみ、貴族の部屋を掃除し、そして給仕に追われる。
(この手は、かつては書物しか持たなかったというのに……)
擦り切れた手のひらを見るたび、胸の奥が締め付けられる。
王女としての教育は、私に芸術や歴史、語学、そして外交術まで、あらゆる知識を授けてくれた。
けれど、労働のなんたるかは教えてくれなかった。
指の皮がむけ、足は棒のようになり、体中に軋みが走る。
それでも、私は立ち止まるわけにはいかなかった。
生きるため、ただそれだけのために、私は歯を食いしばった。
驚くべきことに、王女としての教育が、こんな場所で役立つとは思いもしなかった。
幼い頃から、私は物事を深く考察し、論理的に考えることを徹底的に叩き込まれた。
それは、メイドの仕事にも応用できた。
例えば、床を磨くとき、どうすれば最も効率的に汚れを落とせるか。
ただ力任せにゴシゴシと擦るのではなく、汚れの種類を見極め、適切な洗剤を、適量使う。
乾いた布で拭き上げるタイミングや、拭き筋を残さないための動かし方。
一つ一つの作業に、私なりの「最適解」を見出そうとした。
洗濯物をたたむとき、どうすればシワにならず、時間も短縮できるか。
ただ畳むのではなく、次に使用する際のことを考え、取り出しやすく、形が崩れないように工夫する。
給仕の際、貴族の好みに合わせて、どの食器を、どのタイミングで出すべきか。
彼らの会話に耳を傾け、些細な仕草から好みや気分を察する。
無意識のうちに、私の体は、合理的な動きを覚え、無駄をなくしていく。
(これは、生き残るための本能なのだろうか……それとも、ただの癖?)
私の働きぶりは、すぐに他のメイドたちの間で評判になった。
最初は、私を訝しげに見ていた先輩メイドたちも、私の仕事の効率性や、細やかな気配りに気づき始めた。
「ロゼ、あなた、本当に新米なの?仕事が早くて丁寧で、まるで長年勤めているベテランみたいじゃない」
そんな言葉をかけられるたび、私はぎこちなく笑うしかなかった。
まさか、私が「王女教育」を受けていたなど、言えるはずもない。
ある日、私は給仕中に、信じられない光景を目にした。
王宮でも有数の家柄であるルミエール公爵家の令嬢、アメリア様が、その日のために仕立てたであろう、豪華なシルクのドレスに、真っ赤なワインを派手にこぼしてしまったのだ。
彼女は、今にも泣き出しそうな顔で、その場にうずくまってしまう。
周囲のメイドたちは、誰もが顔面蒼白になり、ただオロオロと立ち尽くしていた。
高価なドレスが台無しになったと、パニックに陥っていた。
(このままでは、ドレスが完全に染みになってしまう……)
私は、咄嗟に状況を判断した。
ワインの染みは、時間が経つほど落ちにくくなる。
一刻も早く処置しなければならない。
「あ、あの……アメリア様」
気づけば、私の口から言葉が漏れていた。
私の声に、アメリア様は顔を上げた。
その瞳は、絶望に濡れていた。
「お酢を少量、水で薄めて、清潔な布で軽く叩けば、染みになりにくいかと存じます。早急な処置が必要です」
それは、かつて私の乳母が、幼い私に教えてくれた、古い染み抜きの知恵だった。
当時、お転婆だった私は、よくドレスを汚し、そのたびに乳母に叱られながらも、この方法で助けられていたのだ。
王女教育の中には、貴族として恥をかかないための生活の知恵も含まれていた。
アメリア様は、半信半疑といった表情で私を見た。
他のメイドたちも、呆れたような、あるいは戸惑ったような顔で私を見つめている。
だが、私は確信していた。
王女教育で得た、膨大な知識の片隅に、確かにその情報があったのだ。
「どうか、お試しください。すぐに処置すれば、きっと大丈夫です」
私の言葉に、アメリア様はわずかに躊躇った後、私の指示通りに酢水を準備させ、布で軽くドレスを叩き始めた。
するとどうだろう。
見る見るうちに、ワインの染みが薄くなっていくではないか。
周囲から、驚きの声が上がる。
「まあ!本当に!?」
アメリア様の顔が、みるみるうちに輝いていく。
彼女は目を丸くして私を見つめ、感謝の言葉を何度も繰り返した。
「ありがとう、ありがとう、ロゼ!あなたのおかげで、このドレスが助かったわ!まさか、メイドさんがこんな知識を持っているなんて……本当に驚いたわ!」
その日からだった。
困ったことがあると、貴族の皆様が私を頼るようになったのは。
「ロゼ、この書類、どうまとめたらいいかしら?急ぎで閣下にお見せしなくてはならないのだけど、あまりにも散らばりすぎてて、頭が混乱するの」
そう言って、山積みの書類を前に頭を抱える伯爵夫人。
私は、書類の山を前にしても動じなかった。
王女教育の一環で、公文書の整理や、報告書の作成も学んでいたからだ。
「承知いたしました。拝見させていただけますか?まず、重要度と緊急度で分類し、項目ごとにまとめ、結論から先に書く構成にすれば、閣下も内容を把握しやすくなるかと存じます」
私は、テキパキと書類を仕分け、要点を簡潔にまとめ、論理的な構成を提案した。
伯爵夫人は、私の手際の良さに驚き、やがて目を輝かせた。
「ロゼ、あなたは本当に賢いのね!おかげで、これで夫に叱られずに済むわ!」
別の日には、こんな依頼もあった。
「ロゼ、庭園のこの花、最近元気がなくて……。いくら水をやってもダメなのよ。このままでは、明日の茶会までに枯れてしまうわ」
そう言って、しおれかけた珍しい薔薇の鉢植えを見せる侯爵夫人。
私は、王女時代に学んだ植物学の知識を思い出した。
薔薇の葉の色、土の乾き具合、そして萎れている茎の状態から、私は瞬時に原因を特定した。
「侯爵夫人様、この薔薇は水不足ではなく、土壌がアルカリ性に傾きすぎているようです。これでは根が栄養を吸収できません。少量の酸性肥料を混ぜた水を、少しずつ与えてみてはいかがでしょうか」
半信半疑の侯爵夫人の指示を受け、庭師がその通りにすると、翌日には見違えるように薔薇は元気を取り戻していた。
「ロゼ!本当にありがとう!あなたのおかげで、茶会が台無しにならずに済んだわ!」
さらに、こんな相談まで持ちかけられた。
「ロゼ、我が家の家計がどうにも厳しくて。無駄遣いをしているわけではないのに、なぜか毎月赤字で困っているわ。メイドのあなたに相談するのもどうかと思うのだけど、あなたの洞察力に頼りたいの」
そう言って、家計簿を広げる子爵夫人。
私は、王女時代に学んだ経済学と、ロゼリア王国の財政状況を分析していた経験を思い出した。
私は、支出の内訳を詳しく聞き出し、無駄をなくすための具体的なアドバイスをした。
例えば、使用人の給与体系の見直し、食材の仕入れ先の変更、光熱費の節約術など、細部にわたる改善策を提案した。
「子爵夫人様、失礼ながら、拝見させていただく限り、この項目での支出が平均よりも高くなっています。また、この時期の市場では、あの食材はもう少し安く手に入るはずです。一度、他の業者と比較検討されてはいかがでしょうか」
最初は半信半疑だった子爵夫人は、私の提案通りに改善を試みた結果、驚くべきことに、翌月には家計が黒字に転じたと、目を潤ませて私に報告してくれた。
(え、私、メイドなんですけど……)
最初は戸惑った。
私は、メイドとして雇われた身だ。
貴族の書類をまとめたり、庭園の植物の世話をしたり、ましてや家計のアドバイスをするなど、私の仕事ではなかった。
こんなことをしていて、他のメイドから嫉妬されるのではないか、あるいは、身分をわきまえないと叱責されるのではないかと、何度も不安に駆られた。
けれど、私は彼らの困惑した顔を見るたびに、放っておけなかった。
かつて、ロゼリア王国の民を慈しむよう教えられてきた私の心は、目の前で困っている人々を見捨てることを許さなかった。
感謝の言葉を述べる貴族たちの笑顔を見るたびに、私の心に、わずかながら温かいものが灯るのを感じた。
それは、故郷を失ってからずっと、私の中に澱のように溜まっていた虚しさや無力感を、ほんの少しだけ溶かしてくれるようだった。
誰かの役に立てる喜び。
それは、私が王女だった頃には、当たり前すぎて意識もしなかった感情だった。
(こんな風に、誰かの役に立てるのなら……私の存在は、まだ無駄ではないのだ)
私の働きぶりは、王宮内の隅々にまで広まっていた。
私が王宮内の困り事を次々と解決していく姿は、まるで魔法のようだと囁かれた。
「ロゼに聞けば、どんな問題でも解決してくれるらしいわよ」
「あの子は、ただのメイドではないわ。きっと、どこかの貴族の落とし子か、あるいは隠れた才女に違いないわ」
そんな噂が、私の耳にも届くようになった。
私は、内心ヒヤヒヤしながらも、決して表情に出さなかった。
王女としての過去が露見してしまえば、私の平穏な日々は終わりを告げるだろう。
だからこそ、私は常に冷静を保ち、慎重に行動した。
いつしか私は「気の利くメイドのロゼ」として、王宮内で密かに評判になっていた。
私の噂は、貴族のサロンからサロンへと瞬く間に広がり、その評判は、この大国アストライアの最高権力者の一人、第一王子リオネル様の耳にも届き始めていたらしい。
だが、当時の私には、それが何を意味するのか、知る由もなかった。
ただひたすら、今日を生き、与えられた仕事をこなすことに、私の意識は集中していたのだ。