第8話 過去への後悔と新たな決意
朝露に濡れた庭園の土を踏みしめながら、俺はゆっくりと歩いていた。
「桂さん、おはようございます!」
元気な声とともに咲耶が駆け寄ってくる。彼女の手にはいつも使っているジョウロが握られており、今日も変わらず作業を始める意気込みが感じられた。
「おはよう、咲耶。これまでの成果を見て、ちょっとだけやれる気がしてきたよ」
俺が微笑むと、咲耶も嬉しそうに頷いた。彼女の笑顔は、庭園に差し込む朝陽のように温かく、少しだけ心の中の不安を和らげてくれる。
だがその瞬間、ふとした拍子に過去の記憶がよみがえる。俺が幼い頃、庭園に咲き誇っていた花々の姿。それらを世話する母の背中。その光景は美しく、愛おしかった。それなのに、俺はいつしかそのすべてを失ってしまった。
庭園を放置し、枯れ果てるまで気にも留めなかったあの日々――。
俺は知らず知らずのうちに拳を握り締めていた。その手の感触は、まるでかつて失った何かを取り戻そうとするかのように震えている。
「桂さん、どうかしましたか?」
咲耶の声にハッとして振り返ると、彼女の瞳には心配そうな色が浮かんでいた。
「いや、なんでもない。ただ、少し思い出していただけだ」
そう答えながら、俺は視線を逸らした。だが、その態度は明らかに咲耶に見透かされているようだった。
「何かあったら、無理に一人で抱え込まないでくださいね。私は、桂さんの力になりたいんです」
咲耶はそう言いながら、一歩近づいてきた。その指がそっと俺の胸に触れる。
彼女の優しさに触れた瞬間、俺の中で堰き止められていた感情が、少しだけ溢れ出した。
「……庭園を放置していたんだ」
「放置……ですか?」
「そうなんだ。かつて、俺の家にもここの様な庭園があった。母さんが愛情を込めて育てた花々が、毎日鮮やかに咲き誇っていた。でも、母さんがいなくなってからは、俺は何もできなかったんだ」
俺の声は徐々に震え、言葉を詰まらせる。咲耶は何も言わず、ただそっと俺の言葉を受け止めていた。
「俺は……逃げてばかりだった。自分の無力さを思い知らされるのが怖くて、何も手をつけられなかったんだ。そして、庭園は荒れ果てて、全部失った」
視界がぼやける。感情を抑えきれず、胸の奥から湧き出る後悔が俺を飲み込んでいくようだった。
だが、次の瞬間、咲耶が俺の手をそっと握った。その手の温かさは、自分を現実へと引き戻す力を持っていた。
「桂さん、それはもう過去のことです。大切なのは、これからどうするかじゃないですか?」
咲耶の言葉は穏やかで、しかし力強かった。その瞳には迷いのない光が宿っている。
「私は知っています。桂さんがどれだけ真剣にこの庭園を再生しようとしているか。昨日だって、土を整える桂さんの姿を見て、私、とても感動したんです」
彼女の言葉に、俺は一瞬戸惑いを覚えた。だがその言葉が嘘ではないことは、咲耶の表情を見ればわかった。
「……俺は、また同じ過ちを繰り返すんじゃないかと怖いんだ」
「繰り返しませんよ」
「どうしてそう言い切れる?」
そのとき、不意に柔らかな声が割り込んだ。
「それは、あなたがここまで来れたからです」
振り向くと、守護者たるアネモネの少女が微笑んで立っていた。花びらを纏ったようなドレスを身につけ、その瞳には深い慈愛が宿っている。彼女は咲耶の隣に歩み寄り、庭の片隅に咲く自分自身の花を指差した。
「あの花が咲いたのは、あなたの努力の結果です。荒れ果てた庭園に希望を灯したのは、あなたの心の強さなのです」
俺はアネモネの言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。咲耶も頷きながら言葉を続けた。
「桂さんが希望を失わずに努力したからこそ、ここに生まれたんです。これからだって、きっとたくさんの花が咲きますよ」
その言葉に、俺は心の中の氷が少しずつ溶けていくような感覚を覚えた。アネモネの優しい視線と咲耶の力強い笑顔に支えられ、俺は恐れよりも前に進む決意を抱いた。
「……ありがとう。咲耶、アネモネ」
その言葉を口にした瞬間、俺は新たな決意を固めた。自分にはまだできることがある。この庭園を再生し、咲耶とアネモネと共に新しい未来を築く。それが今の自分にできる、最善の贖罪だと思えた。
「さあ、作業を始めよう。今日は昨日よりも少しでも多くの花を咲かせるために」
「はい!」
咲耶の元気な返事と、アネモネの穏やかな微笑みに見送られながら、俺はスコップを手に取り、拠点である崩れかけた東屋へと歩みを進めた。俺の中には、わずかながらも希望の光が灯っていた。荒廃した庭園の再生は始まったばかりだが、確かに前に進んでいる。
その夕方、俺は再び庭園を見渡しながら、自分自身に誓った。もう二度と、逃げないと――。
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