第1話 記憶を宿す花々
夕暮れ時、俺は庭園の中央に立ち、手にしたスコップをゆっくりと地面に突き立てた。作業の手を止めて見上げると、空には淡いオレンジ色が広がり、柔らかな光が荒れ果てた庭園に降り注いでいる。その景色は、まるで何かを語りかけるように静謐で、美しかった。
「桂さん、そろそろ休憩しませんか?」
咲耶が、カゴに詰めた簡素な食事を持って歩み寄ってきた。その笑顔はどこか穏やかで、まるで俺の心に風を通すような感覚を与えてくれる。
「そうだな、少し休もうか」
俺はスコップを山なりになっている土に立てかけると、咲耶が用意した木のベンチに腰を下ろした。
咲耶は微笑みながら、カゴを開けた。
「これ、今朝早くにアイリスさんに教えてもらった村に行って、アネモネと交換してもらったんです」
「村?」
俺はその言葉に驚きを隠せなかった。
咲耶は頷きながら説明を続けた。
「アイリスさんから、庭園から少し歩いた先に小さな村があると聞いたんです。それで行ってみたら、村人たちがこの庭園を昔から知っていて、荒れ果てたことを悲しんでいました。でも、再生が始まったと話したら、とても喜んでくれて……」
彼女が取り出したのは、ほんのり温かい香ばしいパン。そして、澄んだ水を注いだ木製のカップを差し出した。
「彼らは庭園がまた美しい場所になることを心から願っています。だから、このパンも、その応援の気持ちとしてくださったんですよ」
俺はパンを一口かじりながら、胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。咲耶の行動と、村人たちの想いが、自身に希望の灯火をさらに強くしていた。
その後咲耶と俺は無言で食事をとりながら、徐々に染まっていく空を眺めていた。
その時、不意に咲耶が口を開いた。
「桂さん、庭園の花たちって、記憶を宿しているんですよね」
その言葉に、俺はパンを口に入れようとしていた手を一瞬止めた。
「記憶、か……それはどういう意味なんだ?」
咲耶は一度深く息を吸い込むと、優しい声で語り始めた。
「アイリスさんが言っていました。この庭園に咲く花たちは、ここを訪れた人々の想いを映し出しているって。それは悲しい想いだけじゃなくて、嬉しいことや懐かしい記憶もすべて。その花が咲くたびに、誰かの物語が再び紡がれるんです」
「そんなことが……」
俺の胸の中に、微かな震えが走った。庭園に秘められたそんな力が、果たして自分に扱えるものなのか、戸惑いと興味が入り混じる。
「例えば、このアネモネ。桂さんが咲かせたとき、きっと何かの記憶が宿ったはずです」
咲耶は花畑の片隅に咲くアネモネを指差した。薄紫の花びらは、夕陽に照らされて金色の輝きを帯びている。
「記憶が宿る……」
俺は無意識にアネモネの前に膝をつき、そっと指先で触れた。その瞬間、頭の奥で何かが弾けるような感覚に襲われたのだ。
***
目を開けると、そこには見知らぬ光景が広がっていた。草原の中、笑顔で手を取り合う家族の姿。父親と母親、それに幼い少女の三人だった。彼らの顔ははっきりとは見えないが、幸せそうな雰囲気だけははっきりと伝わってくる。
「これは……誰の記憶だ?」
俺が呟くと、光景はふっと霧のように消え去り、再び荒廃した庭園へと意識が戻った。だが、その余韻はまだ消えない。
***
「桂さん、大丈夫ですか?」
咲耶が心配そうに近寄り、その肩を支えてくれる。
「ああ、大丈夫だ。ただ、今、誰かの記憶を見たような気がした」
「きっと、この花が見せてくれたんですね」
咲耶の言葉に、俺は深く頷いた。この庭園には、自分の想像を超えた何かが眠っている。それを知るたびに、自身の胸には新たな責任感が芽生えていく。
***
夜になると、庭園は一転して静寂に包まれた。月明かりがわずかに地面を照らし、花々の輪郭を淡く浮かび上がらせる。その美しさに目を奪われながら、俺は一人あてもなく歩き出していた。
「桂さん、今日はもう休みましょう」
咲耶の声が背後から聞こえる。
「いや、少しだけ考えたいんだ。この庭園が持つ力について」
「……わかりました。無理はしないでくださいね」
咲耶は心配そうにしながらも、俺の言葉を尊重し、離れていった。
俺は月光に照らされる花々を見つめながら、ふと呟いた。
「記憶を宿す花々……俺がこれを再生することで、誰かの想いが救われるなら、やる価値はあるのかもしれない」
だがその言葉の裏には、自分の中で拭いきれない疑問も残っていた。この庭園が荒廃した原因とは何だったのか。そして、アイリスという存在は一体何者なのか。桂がその問いを抱えながら夜空を見上げたとき、不意に淡い光が彼の視界を横切った。
振り返ると、そこにはアイリスの姿があった。彼女は月明かりの中でまるで幻のように立ち、柔らかな微笑を浮かべている。
「桂。今夜のあなたは、少しだけ前に進んだようです」
「アイリス……この庭園の秘密、そしてこの力について、もっと教えてくれないか?」
「ふふ……わかりました。ただし、それを知る覚悟はありますか?」
彼女の言葉には優しさと厳しさが入り混じり、俺の胸を強く打った。
「ある。俺は知りたい。そして、この庭園を守るために、できることをしたいんだ」
その言葉を聞いたアイリスの微笑みは、少しだけ深くなった。
「では、明日を楽しみにしていてください。この庭園が抱える過去と、私の秘密を少しだけ見せましょう」
そう言い残し、アイリスの姿は淡い光とともに消えていった。俺はその場に立ち尽くしながら、再び強く思う。
「俺は逃げない。この庭園を、そして自分自身を再生させるんだ」
その決意とともに、俺は空を見上げた。目に映る星空は、まるで自身の旅路を祝福するかのように、無数の光を放っていた。
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