一章3 不測の事態①
ヘイスター教授はアルヴィが異界へ来ることに難色を示していた。第三の言語というランカの力を使ってほしくないらしい。無事帰宅して夕食をとりながら、死んだ魚のような目でアルヴィを見ている。
「あえて第三の言語を星辰の力と言い換えます。異界において星辰の力は強すぎますし、不確定要素になるんです。そもそもあなたが異界に来られる理由が分かっていません。……真面目に聞いてください」
「聞いてます。なんだかお腹が空いてしまって」
アルヴィは作り置きしていたハンバーガーにかぶりついた。具材はハンバーグとチーズとピクルスだ。肉厚なハンバーグがとても美味しい。椿も気に入ったのかご機嫌で食べている。
「まあまあ、いいじゃねえかヘイスター。こっちは人手不足で大変なんだ。毛玉もそこまで嫌がってない」
「金髪君が探索を覚えたら人手不足の問題は解決します」
「最近のヘイスターはまともなことしか言わないな。昔の狂気はどうしたよ」
「今回は救出が目的なので真面目なんです」
「切り替えができるのかよ。素はどっちだ」
ヘイスター教授は椿の言葉は無視し、サラダを食べた。春キャベツと玉ねぎをスライスしたもので、トマトと卵も添えてある。春キャベツは大量に買い込んでおり、他の料理にも使っている。北部の実家にいた頃は蕗や菜の花を摘んで料理していた。春は野菜が美味しいから好きだ。
キャベツと豚バラの重ね蒸しを食べていると、ヘイスター教授がフォークを置いて言った。
「とにかく黒髪君は地上で待機していてください。紡ぐ者の星辰は異界にとって異物なんです。影響が大きすぎます」
「異物?」
「紡ぐ者は元々地上の生命です。異界には後から現れました。精霊王がランカに手を焼いているのは、別世界の存在だからです」
「なるほど……今回は学ぶことが多いです」
次から次へと知らないことを教えられ、感心すると同時に身構えた。小難しいことを理解できるか不安になる。
「俺のことより佳姫の嫁はどうですか。救出できそうですか」
「先程の探索で領域の進化を止めることができました。ですが二、三日しか保ちません。その間に救出できなければ厳しいですね」
あと三日かと緊張したが、椿は前向きだった。
「俺たちが協力したら大丈夫だろ。毛玉もまだ異界で頑張ってる」
最近佳姫の姿を見ないが、焔の柱を駆け回って嫁との接触を試みているらしい。佳姫は嫁のことを本当に大事に思っている。そんな佳姫のことを椿は認めている。
「常に魔力を喰われるのはきついが、嫁の為に漢を見せる毛玉を応援してやるよ」
「椿さんが良い人になってる……」
「しかし腹が減る。魔力を維持する為にもっと食べないと」
椿から追加の料理が欲しいと頼まれた。魔力は体力と同じで、食べることと眠ることで回復するらしい。
「ヘイスター教授も追加で食べますか」
「甘いものがほしいです」
「分かりました。確かクッキーがあったはず」
台所に立ちながら、ふとこれまでのことを思い出した。ヘイスター教授は紅茶とお菓子をよく食べていたが、体力や魔力の回復を兼ねていたのだろうか。レムス教授が菓子店に詳しいのも単なる趣味ではなさそうだ。
「そうだ、レムス教授は今何を?」
いつもヘイスター教授と一緒だったので、今回姿を現さないのが不思議だった。
「あの人は学院の仕事が忙しいんです。最近は学院長の手伝いもしています」
「学院長の? 教授でありながら?」
「苦労ばかりで放っておけないと言ってました。レムス教授も結構やらかしてるんですけどね」
現在の学院長はまだ二十歳の青年で、王族ではあるが身分が低いらしい。それで要らぬ苦労をして大変なのだとか。レムス教授はそんな学院長を気にかけている。
「レムス教授は相変わらずですね」
ヘイスター教授のことも「放っておけない」という理由で傍にいた。生来世話焼きで優しい人なのだ。
「この騒動が終わったらレムス教授に会いたいです。美味しい菓子店を教えてほしい」
お菓子を買ったらエレンにもプレゼントしよう。そうして魔力を回復させたら、次は精霊との契約だ。
食事が終わると椿はうとうとしていた。
「魔力を喰われすぎて眠い……力尽きそう……」
「シャワーを浴びてから力尽きてください。ヘイスター教授は大丈夫ですか?」
「問題ないです。明日の講義の準備があるのでそろそろ帰ります」
言うまでもなく、この中で一番忙しいのはヘイスター教授だ。学院の仕事を抱えながら佳姫の嫁の為に尽力している。アルヴィは玄関までヘイスター教授を見送り、改めて礼を言った。
「いつも俺たちを助けてくれてありがとうございます。ヘイスター教授にもたくさんお菓子をプレゼントしますね」
「それはどうも」
棒読みで何の感情も込められていなかったが、それでいい。ヘイスター教授が優しいことはよく知っている。
居間に戻ると椿がソファでだらけていた。寝落ちしてしまう前に叩き起こし、浴室へ連行した。
「ほら、シャワー浴びてください」
「明日の朝でもいいじゃねえか」
「佳姫の嫁救出は明日から本番です。気合い入れましょう」
椿は渋々服を脱いで「寒い」と震えていた。アルヴィは魔導式の暖房器具を付け、浴室を後にする。ヘイスター教授曰く、佳姫の嫁と領域の進化は現在止まっている。その間に救出しなければ嫁の生存は危うい。明日からが正念場だ。
しかしアルヴィは異界へ行くことはできない。ヘイスター教授の言いつけを守り、この家で待機するのだ。もどかしいが、ランカの力の危うさは身を持って知っている。それに異界探索は別の機会にやればいい。
学生の頃ならば異界探索に浮かれていただろうが、アルヴィはもう大人だ。自制することの大事さは分かっている。
――そう、アルヴィは冷静だった。しかし生まれたばかりのランカは自制など知らないし、別の機会を待つことなどできなかった。
翌日の夜、ヘイスター教授と椿は真剣な表情で救出作戦について話していた。
「まず佳姫の嫁の本体を探します。候補は三点に絞っています。今夜中に接触し、正確な状態を把握します」
「分かった。毛玉はどうする?」
「嫁を見つけたら接触の手伝いをしてもらいます。怖いのは暴走してしまうことです。佳姫の動向には注意してください」
話し合う二人をアルヴィは静かに見守った。今日を含めて三日で佳姫の嫁を救出しなければならない。失敗したら、おそらく最悪の事態になる。ジーンの屋敷にいるエレンも気合いを入れていることだろう。
打ち合わせを終えると二人は魔導を展開し、異界へ行った。アルヴィは緊張しつつも食事の用意をしようとしたが、唐突に異変が起こった。
「なっ……!」
気脈が大きく揺らいだと思ったら、風が吹いて周囲が青白く輝きだした。アルヴィは何もしていないはずなのに、大きな力が働いている。光はどんどん強くなり、昨日感じた浮遊感に襲われた。今度は体勢を崩さず着地したが、そこはもう地上ではなかった。三度目の異界だ。
「ど、どうして異界に?」
白い空間を見渡して狼狽えていると、傍らに紫の妖精が現れた。朱玲は困った様子だが、その向こうにいるランカははしゃいでいた。
「愛する者、待ってた。異界で会えて嬉しい」
「ランカ……」
犯人はランカらしい。アルヴィは無理矢理連れてこられて唖然としているのだが、ランカは歓喜していた。昨日は可愛いと思ったが、今回はいただけない。アルヴィは深々と溜め息を吐き、ランカに説教した。
「突然俺を移動させないでください。何事かと思いましたよ」
「どうしても愛する者を近くで感じたかった」
「これはいけないことなんですよ」
しかしランカは聞いていない。アルヴィが異界にいることを無邪気に喜んでいる。これはしばらく地上へ戻れそうにない。どうしたものかと溜め息を吐いた。