一章2 二度目の異界
佳姫の嫁救出作戦は毎夜続けられた。椿とヘイスター教授は異界探索をし、エレンもジーンの屋敷から観測や探索の補佐をしていた。アルヴィは皆を見守ることしかできないが、大丈夫だと信じて手伝いを続けた。
五日経った頃、居間の気脈が揺らいで紫の妖精が現れた。アルヴィは嬉しく思いながら妖精に手を伸ばした。
「朱玲、久しぶりですね。元気でしたか」
朱玲は穏やかに微笑んで頷く。紡ぐ者の星辰の気配が強まり、ランカも話しかけてきた。
「最近、愛する者の知り合いが異界に何度も来ている。どうしたの?」
ランカは強大な力を持つ星辰だ。アルヴィたちのことを感じ取っていたらしい。
「実は佳姫の嫁が大変なことになっていて……」
状況を丁寧に説明し、居間で横になるヘイスター教授と椿を見た。連日の異界行きに、ヘイスター教授はともかく椿はふらふらになっていた。元々精霊や異界の知識が乏しく、不慣れなことばかりで参っている。それでも愚痴をこぼさず頑張っているあたり、実は佳姫と仲が良いのだと感じる。本人は絶対に否定するだろうが。
「俺も何か手伝いたいのですが、魔力がないので異界へ行くことはできません」
「愛する者は異界へ行きたいの?」
「それはもう。夕食を作って待つだけの日々はもどかしいです」
異界へ行くには魔導を発動させなければならない。第三の言語を作ることを考えたが、霊基の状態というのがよく分からないし、殻の仕組みも漠然としている。
第三の言語は、アルヴィのイメージを越えるものは作れない。それが今回の件ではっきりした。
「自分がやれる範囲で頑張るしかないんです」
苦笑しながら言うと、ランカが不思議そうにした。
「それは諦めているの?」
「違いますよ。受け入れて、別のやり方を探しているんです」
「でも、本当は異界へ行きたいんでしょう? 行かないの?」
「俺にその力はありませんから」
ランカはしげしげとアルヴィを見つめ、ふと呟いた。
「そうだ、愛する者に言ってなかった」
「……? 何をですか」
「愛する者の身体は特別製。地上のものでありながら異界のものでもある」
「えっと……?」
「マヤは異界で身体の構築について試行錯誤していた。私の中に試験体だったものがたくさんある。それらは愛する者の身体になる予定だったもの。異界でもちゃんと動くことを確認している」
「あの、話がよく分からないのですが」
ランカはたまに妙なことを言うが、今回は不穏なものを感じた。人間ではない、紡ぐ者の価値観――人外ならではの思考をしている気がしている。これまでの経験で、この思考がまずいことは分かっている。
「ランカ、この話はやめませんか」
アルヴィは強制的に話を終わらせようとしたが、ランカは止まらなかった。気脈が不自然に蠢き、アルヴィを囲むように渦を巻いていく。青白い光が居間に満ち、異様な気配にぞっとした。
「ランカ! 待ってください!」
慌てて制止しようとするが、遅かった。
「愛する者は異界へ行くことができる。私が案内する」
次の瞬間、気脈が閃光のように光って身体が浮いた。突然床が消えてしまったように落下し、悲鳴を上げたところでふっと止まった。着地できたようだが、そこは居間ではなかった。無数の光の玉が満ちた白い空間だった。
アルヴィは呆然としながら周囲を見渡した。光の玉はふわふわと漂い、彩りどりに変化しながらどこかへ消えていく。この光景と空気感は覚えがある。過去に一度だけ連れてきてもらった異界だ。唯一違うのは、身体に違和感がないところだ。
「どういうことなんだ」
あの時は全身が空気にでもなったようで落ち着かなかった。今は地上にいた頃と大差ない。もしや夢を見ているのかと思ったが、傍らに朱玲が現れた。
「愛する者、不具合はない?」
「ランカ……一体俺に何をしたんですか」
「異界へ連れてきた」
「じゃあ俺は霊基の状態なんですか?」
「違う。愛する者の身体は特別製。地上からそのまま異界へ移動できる」
アルヴィは唖然とし、おそるおそる自分の身体に触れた。地上からそのままということは、生身で異界にいるということだ。信じられない。人間は霊基の状態でしか異界へ行けないはずなのに。
例外はヘイスター教授――星辰に愛された者だ。アルヴィが学院の三年生だった時、ヘイスター教授は軍から逃げる為に生身のまま異界へ行った。その後大変なことになったが、生きて地上に戻っている。
アルヴィも紡ぐ者の星辰に愛された者だ。けれど紡ぐ者の星辰は他の星辰と成り立ちが違う。アルヴィはヘイスター教授とは根本的に違う存在のはずだ。身体が特別製とはいえ、異界へ来れるなんておかしすぎる。
「これ本当に大丈夫なんですか」
「大丈夫。愛する者は特別」
ランカの「大丈夫」はあまり信用できない。アルヴィの身体を改造して女性にした時も平然としていた。今回も人間の感性が分からないのか、怪訝そうにしている。
「異界に来たのに嬉しくないの?」
「嬉しい嬉しくないの話じゃありません。常識外の出来事に混乱しているんです」
「愛する者は特別」
「それは説明になってません」
アルヴィはランカとの対話を一旦諦め、中継役の朱玲に尋ねた。
「俺の身体はどうなっていますか。本当に生身なんですか」
朱玲は困りながら頷いた。指先に紫の光を灯し、文字を綴る。
――本当に生身の状態。普通ならありえないこと。私にもどうなっているのか分からない。
「朱玲が分からないなら俺も絶対分からない……どうすればいいんだ」
呆然と立ち尽くしていると、白い空間に揺らぎが生じた。波紋のように青白い光が広がり、無数の光の玉が逃げていく。何か来るようだ。アルヴィは身構えたが、朱玲とランカは落ち着いていた。波紋の中から現れたのは三人の人影だった。
全員が青白い光の輪郭だが、ヘイスター教授と椿、そしてエレンのようだ。アルヴィは三人の近くに移動していたらしい。椿とエレンが慌てて駆け寄ってきた。
「おまえ、本当にアルヴィか? なんで異界に?」
「しかもこの身体は霊基じゃない。どうなってるんですか」
二人ともひどく混乱している。唯一冷静だったのはヘイスター教授だ。
「ランカが何かしましたね。今度は何ですか」
ランカは淡々と答えた。
「愛する者が異界へ行きたいと言ったから連れてきた。私が守っているから何の問題もない」
「途方もない非常識です。私も生身で異界へ来たことがありますが、危険すぎます」
「あなたと愛する者は違う」
どう違うのか知りたいが、その前にアルヴィは地上へ帰った方がいいだろう。ここにいても皆の邪魔をするだけだ。アルヴィはランカに訴えた。
「俺を地上へ返してください」
「せっかく来たのに? もう少しここにいてほしい」
「皆さんが困っているじゃないですか」
「ここは私の本体がある世界。もう少し近くで愛する者を感じたい」
そう言われて少し悩んでしまった。ランカの本体は異界のどこかにある。これまでずっと、異界から朱玲の五感を通してアルヴィを見ていた。
「……俺が異界にいると、何か違うんですか」
「全然違う。頑張れば私の目で見て、耳で聞くことができる。すごく嬉しい」
ランカの口調は子供のようにはしゃいでいた。こういう反応をされるとアルヴィは弱い。地上へ帰る気だったのに、もう少し異界にいたい気がしてくる。
無邪気に喜ぶランカに躊躇していると、ヘイスター教授が踵を返した。
「ひとまず黒髪君のことは置いておきましょう。焔の柱の観測を続けますよ。金髪君は佳姫を探してください」
三人は救出作戦の真っ最中だ。アルヴィに構っている余裕はないらしい。アルヴィとしても、自分より佳姫の嫁を優先してほしい。
「邪魔にならないところで三人の様子を見ますか」
アルヴィの状態は謎だらけだが、おそらく危険性は低い。少なくとも死ぬことはない。なにせランカという強大な星辰が付いている。そのランカに引き留められてしまうと地上に戻りづらい。
移動する三人の後ろを慎重に追った。波紋の近くまで来ると、唐突に白い空間が遠ざかり、今度は辺りが真っ暗になった。かすかに赤い光の線が見えるが、光源としては頼りない。
「ここはどこですか」
立ち止まりながら小声でランカに尋ねた。ランカはまた不思議そうにする。
「分からない? 人間の視覚では見えないのかもしれない。少し調整する」
「調整って、俺の身体を改造するんですか」
「一時的な処置。他の三人と同じ視覚にする」
不安でたまらないが、真っ暗だと身動きが取れない。渋々了承して視覚を調整してもらった。暗闇が徐々に明るくなり、周囲の様子が分かってきた。しかし地上とはまったく異なる光景だ。
大きなガラスの破片のようなものがいくつも宙空を漂っている。時折破片の間で赤い光が閃き、破片にぶつかると跳弾し、その度に鈴のような綺麗な音が響いた。鈴の音はあちこちから聞こえてくる。幻想的な世界だが、おそらくこれが焔の柱という領域だろう。この中に佳姫の嫁が取り込まれている。
「ランカ、ここに佳姫の嫁の気配はありますか」
「私はその個体に会ったことがない。だから正確なことは分からない」
「個体によって気配が変わるのなら、見つけ出すのは難しいですね」
呟きながら歩き出そうとすると、鈴の音と共に赤い光が迫ってきた。最初はただの光かと思ったが、本能的に危険を感じた。慌てて横に飛び退くと、赤い光が凄まじい速さで通り過ぎていった。その際、ひりつくような熱を感じて背筋が冷えた。
「この赤い光、かなり熱い。火傷しそうだ」
警戒を強めるアルヴィにランカは淡々と言う。
「普通の人間なら火傷では済まない。霊基が焼け焦げて死ぬ」
「死ぬって……焔の柱はそんな危険領域ではなかったはずです」
「佳姫の嫁と共鳴して進化している。これからもっと危険になる」
焔の柱はもう危険領域と言っていいだろう。しかし共鳴がこれほど変化をもたらすとは思っていなかった。アルヴィは光を警戒しつつ、朱玲に聞いた。
「精霊と領域の共鳴は珍しいことなんですよね。何故こんなことになったんでしょう」
すると朱玲が意外なことを書き綴った。
――私からするとそこまで珍しくない。私たち妖精は、領域の一部と共鳴することで数を増やしている。
そういえば妖精の生態は特殊だった。妖精は死亡すると領域内の物質に溶けて分裂する、という生態だったはずだ。
「では妖精が棲息する領域は、焔の柱のように進化するんですか」
朱玲は首を振り、詳しく説明してくれた。
妖精がいる領域は不安定な場所が多く、常に進化と退化を繰り返している。妖精が幻質種に近い性質をしているのは、棲息地が揺らいでいるからだ。だが進化と退化の「幅」と「種類」は大体決まっている。
領域は劇的に変化することはない。似たような進化と退化を繰り返し、最早季節の変化と変わらない。
「劇的に変わることがないのは何故でしょう」
その疑問にはランカが答えた。
「同じ領域で同じ精霊が共鳴しても変化は少ない。地上の生命に例えるなら、近親交配を繰り返しているような感じ」
「ランカはその知識をどこで学んだんですか」
「異界で生きていれば何となく分かる。それに私は紡ぐ者。生命の理はある程度知っている」
紡ぐ者は地上で何千年も命を紡いできた。地上と異界という違いはあれど、根本的なところは似ているようだ。
「生物学をもっと勉強しておけばよかった。地上も異界も興味深い」
知らない話の連続で、戸惑いより好奇心が疼いてきた。朱玲やランカと話したおかげで、いつもの調子が戻ったようだ。こうなるとアルヴィは止まらない。
せっかく異界に来たのだから、もっと周囲のことを観察したい。ヘイスター教授たちの邪魔をしない程度に異界探索をしたい。
異界に来たのはこれで二度目だ。一度目は大変な目に遭ったが、今回は朱玲とランカが付いている。生身の身体ならば第三の言語も使えるだろう。探知の言語ならば佳姫の嫁を見つけられるかもしれない。考えるとわくわくが止まらなくなった。
「探索もできるし、佳姫の嫁救出の手伝いができる。なんだか楽しくなってきたぞ」
夕食の準備以外にもできることが増えた。それがたまらなく嬉しい。
アルヴィは赤い光に注意しながら進み、まずは椿と合流した。エレンは魔導を展開しており、観測というものをやっている。
「俺も第三の言語で手伝います」
しかし意外なことに椿に止められた。
「まずはヘイスターと相談しろ。第三の言語は星辰の力なんだろ」
「そうでした。慎重にやります。頑張ります」
エレン以上にやる気満々だ。ヘイスター教授は焔の柱の最奥にいるそうだ。そこで難しい魔導を展開しているらしい。
早く手伝いたい。
そわそわしていると、ふと視線のようなものを感じた。椿やエレンではない、別の何かだ。周囲を見渡すが、焔の柱の幻想的な景色だけが広がっている。
「ランカ、俺のことを見てますか?」
「見てる。私のことが分かる?」
「多分……でも何か妙な感じが……」
視線は一つだけではない気がするが、精霊でもいるのだろうか。アルヴィは怪訝に思ったが、些細なことだと判断して椿と現状について話をした。
この時、視線のことをもっと考えていたら大変な事態にはならなかったのかもしれない。