一章1 異界へ
領域と一体化しつつある佳姫の嫁を救助する。それがアルヴィたちの目的だった。
しかし一夜明けて夕方になると、突然エレンとジーンが押しかけてきた。エレンが無事だったのは幸いだが、アルヴィと椿はぽかんとしてしまった。何故いきなり家に来たのだろうか。エレンは何故か気合いが入った様子で、反対にジーンは意気消沈していた。
「アルヴィ様、私の話を聞いてください。お願いします」
エレンは成人して綺麗になっていたが、中身は昔のままだった。精霊と契約したくて家出した、と早口でまくしたて、第二位で犬っぽい精霊がいいのだと熱弁する。契約は素敵なことだと思うが、後ろにいるジーンの顔を見るとさすがに気を遣う。
「ジーン先輩は複雑そうですね」
「それが……」
曰く、貴族女性は精霊と契約してはいけないのだという。残念ながらアルヴィには理解できない話だ。
「女性という理由だけで契約できないのは理不尽です。この国には変な決まりごとが多すぎます」
アルヴィは秋から冬にかけて理不尽を体験したので、どうしてもエレンの味方をしたくなる。エレンの精霊が好きだという思いを尊重したい。それに今はジーンに言いたいことがある。
「ジーン先輩、ヘイスター教授から聞きましたよ。異界へ行くのは本来命懸けの行動らしいですね」
睨みつけたが、ジーンはきょとんとしていた。
「それがどうした」
「気軽に行きすぎなんですよ! 何かあったらどうするんですか!」
「学生時代に散々行ったし、危険な場所は避けている。何も問題ない」
「問題しかないです!」
ヘイスター教授と危険領域をはしごしたせいで感覚が麻痺している。アルヴィがいくら言ってもジーンはよく分からないようだ。
そんなアルヴィたちの隣で椿はエレンとの再会を喜んでいた。
「会うのは何年ぶりだ? 十年くらい? 綺麗になったなあ」
「椿さんもお元気そうで良かったです。今はマリスに住んでいるんですよね? まさかアルヴィ様の家で会えるなんて」
「俺もびっくりだよ。しかしエレンはお転婆のままだな。ジーンが困ってるぞ」
「私は悪いことはしてません」
エレンは堂々と言って笑っている。椿はしげしげとエレンを見つめ、ぐいとアルヴィの肩を引いた。ジーンに説教していたアルヴィは突然のことに驚いてしまった。
「急に何ですか」
「エレンはアルヴィと同じタイプだ。話の通じなさが本当によく似てる」
何を言っているのかと呆れたが、ジーンが何度も頷いていた。
「分かってくれるか。エレンとアルヴィは暴走するとそっくりになる。俺の話なんて聞きやしない」
「精霊が好きすぎるところも同じだ」
「それは俺の影響らしい……子供の頃に絵本の代わりに精霊図鑑を読み聞かせしていたのがまずかった」
「じゃあ自業自得だ。おまえはなんでたまに変なことをするの?」
椿は遠慮なくジーンの傷を抉っている。しかし絵本代わりに精霊図鑑はやりすぎだろう。エレンは精霊の英才教育を受けたも同然だ。
アルヴィは咳払いし、改めてジーンに言った。
「俺はエレンさんが精霊と契約するのは止めません。ヘイスター教授にも協力するようお願いします。家出するくらい本気なんです」
ジーンは頭痛がしたように額を押さえ、ちらと椿を見た。
「おまえはどう思う」
「エレンに余計なことを教えたのはジーンだ。受け入れろ」
「しかしエレンが契約したら俺が大佐や母上に殺される」
すると椿はジーンの顔を覗き込み、首を傾げた。
「エレンが契約に失敗する心配はしてないの?」
「それはない。エレンの実力なら第二位の精霊とも契約できる」
即答だった。それだけエレンの実力を認めているらしい。
「じゃあいいじゃん」
「良くないから悩んでるんだ。くそ、やはり椿もエレンの味方をするか」
味方というか、エレンを止める理由がアルヴィと椿にはない。貴族の価値観が理解できない以上、ジーンが何を悩んでいるかすら分からない。
「貴族の体裁の問題ですか?」
「体裁ではなく、どちらかというと慣習を破ることの重みだ」
「ジーン先輩は慣習を破りまくってるじゃないですか。政治面でも私生活でも型破りなことばかりだと評判ですよ」
「それはそうなんだが……駄目だ、俺がずっと墓穴を掘っている」
ジーンに慣習を守れと言われても説得力がない。当人もそれに気付いたのか絶望的な顔になっていた。
エレンは二人も味方ができて嬉しそうだ。
「王都まで来た甲斐がありました。アルヴィ様、椿さん、ありがとうございます」
これまでエレンはずっと家族から反対されていたそうだ。詳しく聞くと、この争いはアルヴィが眠った頃から続いているらしい。反抗期の頃は特に酷く、エレンは勝手に精霊と契約しようとして母のエルシリアと喧嘩になった。エルシリアとエレンの親子喧嘩は屋敷がボロボロになるほどで、父と弟は唖然としていた。
「待ってください。ボロボロって、物理的な喧嘩をしたんですか」
ジーンがぼそりと言った。
「我が家は男性陣より女性陣の方が気性が荒い。魔力も上だ。俺たちは母上とエレンに勝てないんだ」
ジーンに哀愁が漂っている。女性陣が強いことは薄々察していたが、家族にしか分からない悩みがあるようだ。
「ですが、それとこれとは話が別です。俺はエレンさんの思いを尊重すべきだと思います。子供の頃から精霊が好きだったのなら尚更です」
「だが……」
「大体、先輩も勝手に月蔭と契約してるじゃないですか。自分は良くてエレンさんは駄目なんですか?」
今度こそジーンが沈黙した。月蔭の存在そのものが慣習を破った証拠である。
ルアルディ家は王国西部を守る為、代々海を司る精霊と契約していた。しかしジーンは後継になることを拒み、山の精霊である月蔭と契約した。ルアルディ卿はこのことに激怒し、王都に来てジーンと殴り合いの喧嘩をした。
「エルシリア様とエレンさんの物理的な喧嘩と同じことですね。家族全員そっくりです」
「アルヴィが辛辣だ……」
「反論したければどうぞ」
ジーンはまた沈黙した。自分が過去にやったことを思えば何も言えないだろう。ジーンとエレンの唯一の違いは性別だが、ジーンが「俺は男だからいいんだ」なんて主張したら喧嘩することも考える。第三の言語を使えば物理的な喧嘩も可能だ。
そんな物騒なことを考えていると、エレンがおろおろしながら言った。
「アルヴィ様、兄様を責めないでください。私は喧嘩をしたくて王都に来たのではありません」
「そ、そうですね。ジーン先輩、すみません」
「いや、アルヴィの言う通りだ。俺は月蔭と契約したのにエレンは駄目だなんて筋が通らない。そもそもすべての原因は英才教育を施した俺にある」
「ではエレンさんが精霊と契約するのを認めるんですか」
「……大佐と母上に殺されないよう頑張るか……」
ジーンは悲愴な顔をしているが、一応丸く収まった。これでエレンの精霊との契約を応援できる――と思ったが、今は優先すべき問題がある。
椿がソファで頬杖をつきながら言った。
「エレンの契約の前に毛玉の嫁だ。ヘイスターもそっちに掛かりきりになるだろう」
椿は佳姫の嫁のことを手短に説明した。エレンは青褪め、ジーンは眉を寄せていた。
「想像以上に複雑なことになっているな。それほど佳姫の嫁は強かったのか」
「嫁の強さが関係あるの?」
椿が不思議がるのも当然だ。佳姫の嫁の状況はあまりに特殊すぎる。ジーンは少し考え、分かりやすくまとめてくれた。
「今回の件を月蔭で例えよう。月蔭は鋼の山という領域の特性を取り込んでいて、鉱物を操ることができる。他にも腐蝕の炎や影の中を移動する力など、様々な能力がある。しかし鋼の山が月蔭の力を取り込むことはない。領域は精霊の影響を受けないはずなんだ。それが異界の摂理だ。佳姫の嫁は摂理に反するほどの力を持っている」
「うわぁ……嫁は化物かよ」
「佳姫という種族が強いと考えるべきだ。おまえの佳姫はあまり本気を出していない」
椿は佳姫の実力について薄々思うところがあるらしい。
「確かに毛玉は何か隠してる気がする。異界に行った時も変なことをしていた」
「何をしたんだ」
「空間移動とかいうやつをやってた。空間から空間へ一瞬で移動するんだよ。追いかけるのが大変だった。それから他の精霊を捻じ曲げて半殺しにしてた」
「……空間ごと曲げたのか。恐ろしい」
「地上では手加減してたんだよ」
佳姫にはまだまだ秘密が多いらしい。その秘密の中に、嫁が領域と共鳴した理由がありそうだ。
話し込んでいるところへ仕事を終えたヘイスター教授がやってきた。エレンは慌てて立ち上がって一礼し、自己紹介した。子供の頃に一度会っているはずだが、気を遣って「はじめまして」と言っている。
「ジーン・ルアルディの妹のエレティアナと申します。エレンとお呼びください。大変なところへお邪魔してしまい、申し訳ありません」
「銀髪君の妹さんですか。はじめまして」
案の定ヘイスター教授は初対面だと思っている。今更つっこんでも仕方ない。エレンも予想していたようだ。
「私は精霊との契約を考えていて、ヘイスター教授に相談をしたいと思っていました。ですが今はそれどころではないようですね」
「そうですね。佳姫の嫁が完全に領域と同化する前に何とかしなければなりません」
「――私にお手伝いさせてください!」
唐突な申し出にアルヴィたちは驚愕した。特にジーンは焦っている。
「エレン、何を言い出すんだ」
「佳姫のお嫁さんが危険な目に遭っているのなら助けないと」
「異界へ行くのは危険な行為だ。……あっ」
アルヴィが無言でジーンを見つめると気まずそうにしていた。
「と、とにかく危ないことはしないでほしい」
「先輩……」
「墓穴だと分かっている。それでもエレンが心配なんだ」
「ここまで墓穴だらけだとこっちまで何も言えなくなります」
今日のジーンはやることすべてが空回りで少し可哀想だ。ジーンが言うとこは間違っていないのだが、自らそれを否定した過去がある。己の行いを考えればエレンを止めることはできない。
エレンがか弱い女性ならアルヴィも止めていた。だが彼女は何年も努力して実力を身につけている。ここでエレンを否定するのは、努力までも否定してしまうことになる。
「ジーン先輩、もう諦めましょうよ。エレンさんを信じましょう」
「う……でも……」
「エレンさんには俺とランカが付いてますから」
ジーンは明日ネーベルに発ち、エレンと離れ離れになる。だからこそエレンのことが心配なのだろう。ならばジーンの代わりにアルヴィたちがエレンを守ればいい。ジーンの大切な妹を守る為なら何だってする。
ジーンはまだ悩んでいたが、佳姫の嫁の状況は切迫している。ヘイスター教授は魔導の円陣を展開し、エレンに確認するよう言った。
「魔力の質は銀髪君とよく似ていますね。精霊から好かれる良い魔力です。実力的にも問題なさそうです。観測はできますか?」
「得意です。危険領域を探索する際、観測地点を探すことから始めています。領域や精霊を長時間観測することもできます」
「では観測全般をお願いします。それから金髪君に異界探索について色々教えてください。彼はほぼ初心者です」
「分かりました。任せてください。椿さん、よろしくお願いします」
二人はどんどん話を進めていく。エレンはやる気満々だが、椿は困惑していた。
「エレンも一緒に行くのか。ジーンの代わりとして頼っていい?」
「勿論です! 異界探索は毎日のようにやってますから」
よく似た兄妹である。アルヴィがジーンを見ると、落ち込みすぎてまた哀愁が漂っている。
ヘイスター教授は魔導の円陣を展開し、カーペットに横になった。エレンも近くに寝ようとしたが、慌てて椿がソファを譲っていた。
「女の子を床に寝かせるわけにはいかない」
椿は普段はめちゃくちゃだが、たまに常識的になる。これがずっと続けばいいのにと思わないでもない。
全員が準備を終えると、早速魔導を発動して異界へ行った。残されたアルヴィはジーンの肩をぽんと叩き、優しく笑いかけた。
「エレンさんのことはジーン先輩が一番よく知っているはずです。無理だと思いますか?」
「……思わない。エレンは強い。アルヴィたちが傍にいるのなら、トラブルが起きても問題ない」
ジーンは鬱々としているが、納得はできている。ソファに横たわるエレンを見つめ、深々と溜め息を吐いた。
「エレンとアルヴィは似ていると言ったが、本当は俺とよく似ているんだろう。過去の俺を見ているようで複雑だ」
「だから俺はエレンさんが好きなんですよ」
「アルヴィは飴と鞭の使い方が上手い」
「そんなに器用じゃありません」
くすくす笑うと、ようやくジーンの表情が柔らかくなった。エレンのことはまだ気になるようだが、ふっきれてきたらしい。
「では俺はそろそろ屋敷に戻る。明日ネーベルに発つというのに、ろくに準備をしていない」
「ネーベルでは魔石関連の仕事をするんですよね。大役じゃないですか。応援しています」
「ありがとう」
ジーンは名残惜しげにエレンを眺め、改めてアルヴィに言った。
「妹を頼む」
そしてジーンは一人で家を出た。これから屋敷でネーベルへ発つ準備をするのだろう。大変な時期にエレンの家出が重なり、既にだいぶ疲れているようだ。ネーベルに着くまでに回復するのを祈るばかりだ。
「よし、今夜も夕食を作っておこう」
異界から戻った三人に温かい夕食を出すのだ。家庭料理がエレンの口に合うか不安だが、ジーンはいつも美味しいと言ってくれるので多分大丈夫だ。アルヴィは手際よく料理し、皆が戻ってくるのを待った。