15 自分を救う贖罪 ー フィナ編
現実の辛さにはもう慣れたはずなのに、今はどこか違う気がした。
一人ですべてを背負う覚悟はできていた。他の誰かを巻き込むつもりなんてなかったのに……
たとえすべてを失っても、それでも……
本当に、全力でぶつかる必要があるのだろうか?
フィナの心は揺れていた。目の前の少年を見つめながら、理解できないはずなのに、不思議と少しだけ、前に進める希望を感じた――
林月はナイフをフィナの首元にぐっと押し当てる。
強引なやり方だと分かっていても、祖父の関係者たちに対して、これくらいしないと通じないと思ったのだ。
成功する保証なんてどこにもない。けれど……もう賭けるしかなかった。そう、林月は自分に言い聞かせた。
「バカ野郎! その子に何するつもりだよ!? 頭おかしいんじゃねえのか、お前! 死ねよ!」
ヴァルが叫びながら林月に詰め寄る。
「バカ……あなたは……」
フィナが何かを言おうとするが、林月のナイフがそれを遮る。
「大丈夫……いや、こんな弱気なこと言ってる場合じゃないな……
信じてくれ、フィナ。君は……この場所で初めて、僕を信じてくれた人なんだ。
だから……僕も、君の力になりたい。ただ、それだけなんだ。」
林月はそう言った。
「クソッ……本当に何がしたいんだ、お前は!? ナイフを下ろせっての!」
ヴァルが怒りを露わにする。
「へえ? 関係ないだろ。もう一歩近づいたら……やるからな……」
林月は少し震える声でヴァルを威嚇した。
ヴァルは迷いなく飛びかかってきて、拳を振り上げ林月に殴りかかる。
その瞬間――
「パシャッ!」
鋭い音と共に、ナイフから鮮血が噴き出した。
血が床に飛び散る。
「フフ……言っただろ。これ以上来たら、手加減しないって……」
林月は苦しげに笑った。
実際、林月が刺したのは自分の左手だった。
その流れる血でヴァルを威嚇し、ナイフに血を塗ってフィナの首に押し当てた。まるで、本当に刺したかのように。
「あなた……一体、何がしたいのよ……」
フィナが動揺しながら言った。
「ごめん……これしか思いつかなかったんだ。ごめん……」
林月はかすかに呟いた。
「もう……何謝ってるのよ? こんなことまでしてくれて……私、怒れるわけないでしょ……」
フィナはくしゃくしゃになった服を握りしめながら、そう答えた。
「このクソ野郎! その女を離せよ!」
ヴァルが怒鳴り、手にした石を投げつけた。
「バシッ!」
石はフィナの額に直撃し、血が流れ出した。
「くっ……ごめん、フィナ……そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、あのクソ親戚を追い払いたかっただけなんだ。全部、君のために……」
ヴァルはフィナを見つめながらそう言った。
フィナの顔に血が流れる中、彼の言葉が彼女の中に嫌悪感として響く。
思い出すのは、かつて彼女に勝手な期待を押し付けてきた人々の姿――
「もう……やめて……」
フィナは小さく呟いた。
「大丈夫! 僕が君を救い出すよ! こんなクズ、すぐにぶっ飛ばしてやる! 君を連れて帰ったら……」
ヴァルは熱っぽく語り続ける。
「ハハ……そういうことか。つまり、お前はフィナと一緒にいたいから頑張ったってわけだ。
でもその結果が、石投げて怪我させるって? なんて見え見えな口説き方だよ……
それに、自分で言ってたよな? フィナはじいさんに嫁ぐって。」
林月は淡々と呟いた。
「てめえ……ふざけんな!!」
ヴァルは激怒し、また拳を振り上げた。
その拳は、明らかにフィナの顔を狙っていた。
もう一発、今度もフィナに向けられた拳。
林月はナイフを引き抜き、素早くヴァルの顔の前に突き出す――
「てめぇ、何しようってんだ!? この発情した気持ち悪い野郎、近づくなよ! そんな手で彼女を解放させようなんて、無駄なんだよ!」
林月はそう言い放ち、再びナイフをフィナの首元に押し当てた。
「女なんて所詮その程度のもんだろ? 本気で向き合う価値なんてねぇよ。ただ、たまたま俺が気に入っただけさ。」
ヴァルは冷笑しながら言った。
そう言うと、彼は手元から小型の注射銃を取り出し、林月とフィナに向けて発射してきた。
林月はすぐさまフィナを抱き寄せて、その針弾を避けた。
ヴァルはもう完全に見境を失っており、フィナの安全などお構いなしに乱射を続ける。
林月は彼女を庇うため、ナイフで針を弾こうとしたが、横から撃たれた針が林月の体に刺さってしまい、そこから鮮血が噴き出した。
両腕を押さえ、全身に広がる激痛に耐えながら、林月は歯を食いしばって言った。
「クソ野郎……あんた、あの子のことが好きなんじゃなかったのかよ……? だったら、どうして攻撃するんだよ……!」
「だって、アイツ俺に靡かねぇじゃん? 俺の言うこと聞かねぇ女なんて、ぶん殴って黙らせればいいんだよ!
この世の中、金でどうにかならないもんなんてねぇんだからさ!」
ヴァルは嗤いながら答えた。
林月は横で怯えるフィナの歪んだ表情を見て、握ったナイフに力を込め、叫ぶ。
「何を言ってやがる!! そんなもん、金で解決できるわけねぇだろ!!
それに――お前は女の子を何だと思ってるんだ!?
違う! お前は……“人間”を何だと思ってるんだよ!!」
「貧乏で、下等で、底辺のクズの生まれだろ? お前らが何思おうが、知ったこっちゃねぇわ。
自分の親や家族、友達でも見てみろよ。どんだけ惨めな人生送ってんだっての!」
ヴァルは吐き捨てるように言った。
そう言うと、彼は銃を構え、容赦なく引き金を引いた。
針弾が林月の頬を貫き、瞬時に血が噴き出す。
林月は再びナイフをフィナの前に構え、庇うように立ちはだかる。
……あの時の出来事はもう分かっている。けど、俺は、過去の影に囚われ続けたくない。
越えられなかった“物語の序章”を、今こそ打ち破らなければ!
林月はナイフを持ちながら、目の前の少年を警戒する。
直感が告げていた。こいつらは、俺が思っていた以上にヤバい。
煽ったり、強気に出たぐらいじゃ引かない。――本当に、人を殺すような連中なんだ。
ヴァルが銃を構え、林月の目を狙う。
その指が引き金にかかろうとした、その瞬間――
林月はナイフを思いきり投げつけた!
「バシィッ!!」
ナイフはヴァルの手を切り裂き、銃はその勢いで地面に落ちた。
林月はナイフを拾おうと動いたが、ヴァルが素早く林月の髪を掴んできた。
「どうでもいい! 旦那様だろうが誰だろうが関係ねぇ! あの女、俺が連れて行くんだよ!
なんか分かんねぇけどさ、ちょっと気になってきたんだよ……」
ヴァルは髪を引っ張りながら唸るように言った。
そして彼が林月を無理矢理立たせようとしたその時――
ヴァルの背後に、誰かが立っていた。
その人物は銃を構え、ヴァルに向けて狙いを定めていた。
「ドンッ!!!」
凄まじい銃声。
ヴァルの右頬と歯が吹き飛び、顔の半分が血と肉片に覆われた。
彼は地面に崩れ落ち、砕けた歯が散らばる。
その男は硝煙を上げる銃を握りしめながら、無言で林月を見つめていた。
林月は地面に倒れたヴァルに唖然とし、まだ気づいていなかった。
その銃口が、今まさに自分の頭へと向けられていることに――
「バカ……前見ろってば!!」
フィナが叫んだ。
林月は顔を上げて前方を見た——
そこに立っていたのは、全身汗だくの老人だった。伸びきった髭、点滴を吊るしたまま、手には拳銃を握りしめ、冷ややかな目で林月を睨んでいた。
林月はよろめきながらも、その老人の放った一発をかろうじて回避する。
「林月! 前に立ってるその人、よく見て!!
そいつが……“旦那様”(おじいちゃん)よ!!」
フィナが叫んだ。
林月はナイフを手に取り、後ろに飛び退いた。
「バン!!」
老爺は容赦なく林月の太ももに向けて引き金を引いた!
銃弾が突き刺さり、血が勢いよく噴き出す!
林月は傷口を押さえながらも、ナイフを握りしめたまま、フィナの前に立ちはだかった。
老爺は地面に倒れたヴァルを一瞥し、暗い顔で言った。
「クソガキが……てめぇは所詮、下っ端の執事に過ぎねぇってのに、誰の許しを得て俺に逆らってんだ?」
老爺は冷笑しながら林月に目を向けた。
「お前、誰だよ? ゴミみてぇな人生送ってる哀れなクズが、俺と女を取り合うつもりか?」
その声には冷たい嘲りが滲んでいた。
その時、老爺の背後から舌を出した異様な男が歩み出てきた。
手には手術刀を持ち、その表情はあまりに病的で、舌を長く伸ばしたまま、まっすぐ前を見つめていた。
「坊や、俺たちが大切に育ててきた女を連れ去るなよぉ!
金しか見えてないお前みたいな奴は、マジでゴミなんだよ!
お前の家族もな、お母さんも、妹も、全部が救いようのないクズさ!!」
男は叫んだ。
フィナは林月を見つめる。彼の手にあるナイフが、目の前で揺れていた。
「大切にしてる……? 笑わせんなよ!!」
林月は歯を食いしばって怒鳴った。
「俺がこの子にこんなことしてるのは、確かに……金のせいだよ……!
だけどな、俺は……お前らみたいに“高尚”ぶるつもりはねぇ!」
「何だと? 言いたいことはそれだけか? 当たり前だろうが!
俺たちはこの子に“家族”のぬくもりを与えてやったんだぞ!?
お前の惨めな人生とは違うんだよ!!」
老爺は大声で笑った。
フィナの目に映るその二人は、まるで歪んで変形した化け物のようで、彼女は目を逸らすことすらできなかった。
その時、林月は老爺を見つめ、何かを悟ったかのように、ふっと笑った。
ちょうどその瞬間、手術刀を持った男が突然それを林月に向けて投げつけた!
林月はギリギリで回避したが——
その手術刀は、後ろにいたフィナの腕に深く突き刺さった!
フィナは苦痛に顔を歪めながら、手術刀を引き抜き、血が止まらない腕を必死に押さえた。
「フィナ……すまない……大丈夫か……?」
林月が振り返ってフィナを見た、ちょうどその瞬間——
手術刀の男が再び刀を振りかざし、林月の右首に切りつけてきた!
林月は血を吐きながら口元を押さえ、手にしたナイフで反撃しようとするが……
その男の圧倒的な力の前では全く歯が立たない。呼吸すらままならない。
ナイフで必死に防御するも、反撃の余裕はない。
男は異常な笑みを浮かべながら、舌で林月の顔を舐める。
林月は何とかナイフで攻撃を阻止しようとするが、男の手を振りほどくことができない。
その隙をつき、男はもう片方の手で林月のナイフを持つ手をつかみ——
「ガンッ!!……ズブッ……」
力任せに林月の手からナイフを叩き飛ばし、それがそのままフィナの頭に直撃した。
フィナの頭からゆっくりと血が流れ出し、左頬を真っ赤に染めていく。
彼女は両手で左目を覆った。
林月がフィナの方を振り返ろうとしたその瞬間、
再びその男に地面へと押し倒される。
林月は血を吐きながら、地面からフィナを見つめていた。
「お前……無事……か……フィナ……」
地に押さえつけられながら、林月は苦しそうに言った。
フィナは林月を見つめ、言葉にできない想いを胸に握り拳をつくる——
その時、フィナは老爺の横に目を向けた。
老爺は銃を持ち、舌を出した男に銃口を向けていた。
「ドオォォォォォン!!!!!!」
舌を出したその男の右手が、林月の目の前で吹き飛んだ。
血と肉片が激しく飛び散る!
その隙に、林月は地面から立ち上がり、フィナの頭にぶつかったナイフを手に取る。
その刃にはまだ、フィナの血がべっとりと付いていた。
林月は顔の傷と血を拭いながら、老爺の方を睨みつけ、こう言った——
「お前……いったい何がしたいんだ? どうして目の前の人たちを殺した? 一体何のために…… 金でも権力でもない、じゃあ女の子のためだけかよ?」
「フィナは俺のものだ。他の誰にも触れさせない。 他の奴と関わることも許さない。ただ俺の傍にいてほしい、それだけなんだ!」
爺爺はそう叫びながら、手に持った拳銃を構えた——
その瞬間、リンゲツが突然飛び出し、爺爺の拳銃を叩き落とした。
「まったく、ずっとそんなもん持ってたら話もできないだろ、バカが!」
リンゲツはそう言った。
しかし銃を落とされた直後、爺爺はもう一丁の拳銃を取り出し、リンゲツの腹めがけて撃った。
「パッ……」
弾丸はかすかに逸れてはいたが、リンゲツの脇腹を撃ち抜いた。 リンゲツは口から大量の血を吐き出す。
そして爺爺は、もう一方の手にきらびやかなメリケンサックをはめ、 その拳でリンゲツの顔面に殴りかかってきた——
「やめて……お願い、もうやめてよ、もう十分よ、お願いだからやめて、爺爺!」
フィナは傷口を押さえながら、爺爺に向かって叫んだ。
「あなたは一体何をしているの? これが本当に私のためなの? 爺爺も、ヴァルも、リンゲツも…… みんな自分の都合や欲望を私に押し付けてるだけ。もう、たくさんなの……」
そう言って、フィナはゆっくりと爺爺のもとへ歩み寄っていった。
彼のそばまで行った後、フィナはリンゲツのほうを振り返る——
「ごめんね……リンゲツ……あなたにこんなこと巻き込みたくなかった……これしかないの……」
「これで十分……リンゲツ、言ったでしょ……手紙にも書いたでしょ? 来ないでって…… もう帰って。私はもうあなたを必要としていない。私のお金に目が眩んだりしないで。お願い、どいて……」
フィナはリンゲツを遠ざけようとしていた。それが今、彼女にできる唯一の選択だった——
リンゲツは右手で口元の血を拭い、フィナのほうを見つめた。 そしてその言葉の意味を、彼は悟ったようだった。
「でも……それがどうした。 僕たちはいつもそうだ、自分を抑えて、本当に望んでる人生があるのに、妥協して終わる…… それじゃ何も変わらないんだよ。 ……本当の自由っていうのは、喧騒の中でも澄んだ心を保ち、否定の中でも信念を貫き、 暗闇の中でも自分が信じる光になることだって……」
「これは……僕が皆から見下されていた時、妹が言ってくれた言葉なんだ……」
リンゲツは再びフィナを見つめる。 フィナは、悲しみと怒りが混じった眼差しでリンゲツを見返した——
二人の間には、まるで見えない壁が立ちはだかっているようだった。 互いの姿が見えず、声も届かず、言葉も返せない——
「ガキが……もういい加減にしろ……」
そう呟いた爺爺は、リンゲツに向かって強烈な一撃を叩き込んだ。
その拳はリンゲツを吹き飛ばし、 金属ナックルの威力が加わり、彼の腹部をまともに貫いた。
リンゲツは地面に崩れ落ち、苦しそうにのたうち回る。
フィナは倒れているリンゲツを見つめ、その光景に心が大きく揺れ動いた。 彼女はリンゲツに背を向け、再び爺爺を見た——
「これでいい……ごめんなさい……」
そう言って立ち去ろうとした時——
リンゲツが再び、必死に立ち上がり、叫んだ。
「ふざけるなよ、俺はこんなところで倒れるわけにはいかない! もう……あまりにも多くを失いすぎたんだ、もうこれ以上は許せない! “さよなら”って言ったきり、二度と会えなかった人たち…… もうあんな終わり方はしたくないんだ……!
昔の俺なら……きっとここで諦めてた、だから妹も弟も守れなかった…… でも今の俺は違う! 過去を繰り返したりはしない!!」
リンゲツは何度も何度も、そう叫び続けた。
爺爺はそんな彼の必死な姿を見て、声を上げて笑った——
そしてその時、フィナの目に映るリンゲツの姿が、 まるで別の人間のように重なって見えた。
それは、彼女の記憶の深淵に封じ込めていた、もう一つの影だった……
それは、フィナが五年前に体験した出来事だった。
あの日は、うだるような夏の昼下がり。
近所に住む一人の少年が、家庭の事情で日々暴力を受けていた。
その日、公園を通りかかったフィナは、
全身傷だらけのその少年がブランコに座り、無表情で前を見つめているのを見つけた。
「ん?君、近くに住んでる子だよね? どうしたの、そんな傷だらけで……大丈夫?」
フィナはそっと彼に近づき、優しく声をかけた。
少年は彼女を一瞥し、自分の傷に目を落としながら、無言でうなずいた。
「そっか……話せないんだね。まったく……」
フィナはため息をついて、彼の隣のブランコに腰を下ろした。
少年は喉元を指差し、それからフィナをじっと見つめた。
どうやら、何らかの病気で声を出すことができないようだった。
「そうか……じゃあ、ジェスチャーで伝えてみて? あ……でも、ごめん、私手話全然わかんないや」
フィナは苦笑しながら肩をすくめた。
少年は仕方なさそうに鞄からノートとペンを取り出し、すばやく言葉を綴る。
(大丈夫です、お姉さん。ちょっとした事情があるだけで、あなたには関係ありません……)
その紙を読んだフィナはしばらく黙り込み、少年の目をじっと見つめた。
少年もまた、真剣な表情で彼女を見返していた。
そして、フィナはふっと笑った。
「何よ、その真剣な顔。中二病? 困った時はお姉さんに頼っていいのよ。さあ、言ってごらん!」
彼女が肩をポンと叩くと、少年は小さく震えた。
肩には無数の血の跡……それは転んだものではなく、明らかに誰かに殴られた痕だった。
「ねえ……本当のことを話して。何があったの?」
少年は震える手で、また文字を書き出した。
(家族が壊れたんだ。母は酒に溺れて、毎日僕と姉を殴るようになった。
姉は僕を守るため、すべてを一人で背負って……僕を家から追い出した。
でも、僕は姉を助けたい。助けなきゃ……)
そこまで書いて、少年の手が止まる。紙がわずかに震えていた。
すべてを理解したフィナは、どうすればよいのか分からないまま、
せめてこの子を家に連れて帰ろうと決めた。
だが──
帰る途中、家の前でフィナの母が隣人と立ち話をしていた。
そして、その隣人こそが少年の母親だったのだ。
少年は恐怖に怯えた目でフィナの手を握る。
フィナもそれに気づき、慌てて言った。
「逃げて! できるだけ遠くへ!」
「フィナ、あんた何してるの? その子、隣の家の子じゃないの。お母さん、ずっと探してたのよ」
フィナの母の声が背後から聞こえた。
少年はすぐに捕まり、声も出せず、ただ無力に引きずられていった。
フィナは怒りを抑えきれず、母を問い詰めた。
「どういうこと!? あの子に何が起こってるか、知ってたの?」
「知ってたわよ。あの女が子どもの喉を刺したときからね。でも、それがどうしたの? 私たちには関係ないでしょう」
母のその冷淡な一言が、フィナの心に重くのしかかった。
それから数日後の曇り空、少女が一人、傷だらけの体で街を歩いていた。
右目には眼帯、手にはコンビニの袋。
「君……弟の姉さんでしょ? ここで何してるの? ……大丈夫なの?」
フィナが声をかけようとしたその時、少女は怯えたように身を縮めた。
フィナが手を差し出すと、反射的にそれをはたき落とす。
「……弟……無事?」
少女はか細い声で尋ねた。
「ごめん、私が……あの時、彼を家に戻してしまったから……」
「やっぱり……あなたが弟を帰らせたのね……」
少女の言葉に、フィナは拳を握りしめ、だが何も言えなかった。
「もう来ないで。これ以上、巻き込まれたくないの……お願いだから、忘れて」
そう言い残し、少女はフィナの前から立ち去った。
やがて空から、激しい雨が降り始めた。
そして──
フィナは血痕を見つけ、川のほとりに倒れている少女の姿を見た。
彼女は仰向けに倒れ、顔は血と泥にまみれていた。
「お願い……弟を助けて……私みたいには、なってほしくない……」
少女の最期の願いを聞いたその時、遠くから救急車のサイレンが鳴り響く。
だが、その時フィナは──少女の目が抉り取られていることに気づいた。
魂が抜けるような衝撃。雨の音が、すべてをかき消していく。
――
やがて、また血の跡。
フィナがそれを辿ると、橋の下で男と少年が睨み合っていた。
「このクソ哑巴ッ! 姉貴を殺したのはお前じゃないのか!? 今度は誰を殺す気だ!」
少年は、血まみれのナイフを握りしめ、毅然と立っていた。
喉からは声が出ないが、彼ははっきりと口を動かした。
(……僕は、もう逃げない……ごめんね、姉さん……)
その時の少年の表情が、今の林月に重なる。
過去、誰も救えなかった。
守りたいと思った人すら、手から零れ落ちていった。
だが──今回は、もう同じ過ちは繰り返さない。
林月が地面から手を伸ばし、先ほど落とした銃を拾い上げ、口にくわえる。
「やめてっ! 何してるのよ、それは冗談でも笑えないってば……!」
フィナは叫ぶ。爺爺は狂ったように笑っている。
林月は静かに銃を口から抜いた。
「……そうだな。俺もそう思うよ。悪い冗談だよな……」
彼は銃口を天に向け、引き金を引いた。
「パン! パンパンパン!」
空に響く銃声。
銃口から煙が上がるが、弾はすでに残っていなかった。
「……最初から空だったんだよ。さっきで撃ち尽くしてたからな」
林月はそう言って微笑む。
驚きで立ち尽くす爺爺とフィナ。
林月はその隙を逃さず、フィナの手を取り──彼女を爺爺の元から引き離した。
「な、なにしてるの……リンゲツ……ん……」
フィナは驚いたように彼を見つめた。
「ごめん、フィナ。これが今、俺にできる唯一のことなんだ。君を救いたい……もう二度と、目の前のすべてを失いたくない……
言っただろ? 神様がもう一度チャンスをくれたなら、俺は……自分のために、そして彼らのための世界を変えるって。」
リンゲツは声を張り上げた。その声は無理に強がっていたが、確かな決意に満ちていた。
「うん……本当のヒーローって、無理してるときにこそ、いつの間にかみんなのヒーローになってるんだよね……
じゃあ、運命はあなたに託すよ——おバカなヒーローさん。」
フィナは微笑んで、リンゲツの手をぎゅっと握りしめた。
リンゲツは一回転して跳び上がり、地面を力強く踏みつけた。
爺爺は杖を抜き取り、その中から鋭い刃を引き出した。
「お前みたいな大〇そっくりのクソ野郎が、何を——」
怒鳴る爺爺に、リンゲツは叫び返した。
「バカ! フィナを手に入れるのがそんなに難しいと思ってたのかよ!? ただ寂しかっただけだろ!?
あんたに近づいてくる家族って、結局金目当てじゃないのか? 心からあんたを想ってたのは、フィナだけなんだよ!
彼女は金のためじゃなく、心から家族だと思ってあんたに接してたんだ!
でもあんたは自己中だよ…… 失うのが怖いからって、彼女のすべてを奪おうとするなんて……本当に彼女だけがあんたに優しくした人だと思ってるのか?
俺の妹も、最初はあんたを尊敬してたんだよ。……俺だって、昔はそうだった。」
爺爺の手が空中で止まり、フィナとリンゲツを見つめながら冷や汗を流し、言葉を失った。
「寂しかっただけなんだよ、爺爺……」
リンゲツは続けた。「爺爺だけじゃない、ヴァルも同じだよ。フィナは彼に何をされても責めなかったし、
金や地位なんかじゃ態度を変えなかった……そうだよな、ヴァル?」
爺爺の背後に、血まみれのヴァルが立っていた。
彼の右顔面はほぼ崩壊していたが、まだ死んでいない。手には小さなナイフを持ち、爺爺の首に当てていた。
「だれも……誰もあの女を連れて行かせやしない……ぶはっ……」
ヴァルはそう言うと、再び大量の血を吐き出した。
フィナはその光景に吐き気を催し、目をそらした。リンゲツもまた、前を見据えたまま、思わず吐いてしまった。
フィナは困惑した表情で彼を見つめた。
「このガキがァ——」爺爺が口を開いた瞬間、ヴァルがナイフを彼の首に突き立て、鮮血が噴き出した。
その時、舌を出していた変態男が立ち上がった。
「ガキ! あいつを殺せばお前は許してやるぞーー!」と爺爺が怒鳴った。
男は手術刀を手にし、ヴァルの目に突き刺してグリグリと掻き回した。
ヴァルもナイフでその変態の舌を刺し、三人は狂ったように殴り合った。
パッ……パッパッ……パパパパッ!
その頃、フィナはリンゲツの手を握り、走っていた。
「やっと撒けたみたいね! ねぇリンゲツ、もっと早く走って!」
リンゲツは息を切らせながら言った。「ムリだよ……さっきの怪我がひどくて、もう体力が……」
二人は裏路地に入り、腰を下ろした。
フィナはリンゲツを見つめ、何か言いたげだった。
リンゲツも彼女を見たが、照れ臭そうに視線を逸らした。
「なに? そんなにひどい顔してる? この傷、すぐ治るってば。もちろん、私が手当てしてあげるからね!」
フィナは笑顔で言った。
リンゲツはポケットから一枚の紙を取り出した。以前、フィナの家で見たあの紙だ。
「ごめん……君の言うこと、聞けなかった。どうしても来たくて……
本当にごめん。でも、もうあんな結末は見たくないんだ。」リンゲツはうつむきながら言った。
フィナはその紙を受け取り、ビリビリに破きながら笑った。
「もう、バカみたい! こんなアニメのステッカーをずっと持ち歩くなんて!
しかも書いてあること、ぜんぶ無視してるじゃん……ははっ……」
リンゲツはフィナを見つめ、この世界に来てからの出来事を思い返していた。
もし異世界に来なければ、他人を助ける勇気もなかったし、抗うこともできなかった——
「もしあの時の俺が……何か変えられていたらな……」
リンゲツは遠くを見ながら呟いた。
その時、フィナがリンゲツの肩に顔を寄せ、そっと頬にキスをした。
リンゲツは驚いて彼女を見つめ、顔を赤くして慌てた様子で言った。
「な、なにしてるんだよ……」
「ふふ……別に、ただ感謝したかっただけ。
今の私、自分の気持ちをどう表せばいいかわからなくて……」
フィナは感謝の気持ちを込めて微笑んだ。
「思い出したんだ、ある物語を。姉を救うためにすべてを捧げた男の子の話。」
「物語? その結末は……どうなったんだ?」
「……後半の話だけど……
その男の子は声が出せなかった。どんな反論も、自分の声で伝えることができなかった。
でも、それでも彼は世界を変えたかった。
敵に向かって飛び込んだその瞬間——右手を一刀で貫かれた。
『お姉ちゃんはもう死んだのよ。くだらない平民のために無駄な努力なんてしないで。
あんたたちなんて、最初から無意味な奴隷だったのよ』と、母は冷たく言った。
『あんたたちが生まれたのは、ただの堕胎失敗だったのよ……』
その言葉の途中で、男の子の心は苦しみでいっぱいになった。彼は叫ぼうとしたが、声は出なかった。
『パァン!』
母の背後から鉄棒が振り下ろされ、血飛沫が舞った。彼女は地面に崩れ落ちた。
男の子はその姿を見ていた。頭から血を流し、苦しげな表情で倒れる母を。
『ごめんね、口出ししちゃって……』
鉄棒を持つフィナが、男の子のそばで小さく呟いた。
その夜、空は曇り、霧雨が降っていた。フィナと男の子は並んで歩いていた。
そのとき、フィナの携帯が鳴った。病院からだった。
あの少女の生命力が回復し、今は安静にしているとの知らせだった。
その晩、男の子は姉の病室のそばで泣き続け、
姉はずっと笑顔で、彼を慰めていた——」
リンゲツはその話を聞いて、そっとため息をついた。
「そっか……それは、よかったな。」
「よかったって……ふふっ。」
フィナは笑った。
フィナは立ち上がり、振り返って林月に尋ねた。
「そうだ、今夜、一緒にご飯でもどう?あの賑やかな通りに行こうよ!」
「えっ……いや、ちょっと待って。あんた、あのジジイのところを出てきたんじゃないの?それじゃ、お金なんてあるはずないじゃん?それに、外食なんて……」林月は緊張した様子で言った。
すると、フィナはポケットからキラキラと光るカードを取り出し、にっこりと笑った。
「大丈夫、このカードにはまだ何十万も残ってるんだから。バカね。」
林月はそのフィナの姿を見つめながら、微笑んだ。
「まったく……なんで急にそんなに前向きになったのよ?でも、誰かに縛られる人生より、自分の足で自由に生きる方が、やっぱりいいよね。もちろん、私もそうだよ!」
日が少しずつ沈み、街の明かりが灯り始める。通りはにわかに賑やかさを増し、人々が行き交う。 とりわけ、美しい女の子たちが目を引き、ついつい視線を奪われてしまう。 店の中からも賑やかな声が漏れ、まるでこの通りがみんなの集まる場所になっているかのようだ。人々がそれぞれの物語を語っている。 ――だけど、僕だけが、その輪の中に入れていない気がした。
僕は通りでフィナを待っていた。でも、何をすればいいのか分からず、スマホをいじりながら時間を潰していた。 このところ、本当に色んなことがありすぎた。画面をスワイプするたび、他人が夢を叶えていくのを見るたびに、心の中の揺らぎは強くなっていった。 もし、今回のきっかけがなければ――きっと、こんな考えすら浮かばなかったかもしれない。
目の前の輝く街並みを見つめながら、僕の思考は自然と幼い頃へと戻っていった。
あの頃の夢は、漫画家や小説家になることだった。その夢のために、必死で努力したこともあった。 でも、あの頃の僕は、まだ何一つ成し遂げていなかった。妹を殺した犯人すら見つけられていないし、やりたいことは山ほどあるのに、どこから手をつければいいのかも分からなかった。 このまま人生を終えるなんて――それはあまりにも、悔しすぎる。
ふと、シュナのことを思い出す。彼女は今、何をしているんだろう?
僕がそんな思考の渦に沈んでいた時、ひとりの中年の男性が近づいてきて、静寂を破った。
「おい、坊や。ライター、借りていいか?」
彼の目には、少しだけ焦りの色が浮かんでいた。 ポケットを探ると、たまたまライターと、一本吸われたタバコの入った箱があった。
「うん、これ、どうぞ。」僕はそれを差し出した。
男は受け取ると、煙草に火をつけ、そして笑いながら言った。
「一本、君もどう?」
僕は首を振った。
「いいえ、僕は煙草、あんまり得意じゃないんで。」そう言って、ライターはそのままあげることにした。
「そうかい、ありがとうな……」男は少し柔らかい目で僕を見つめた。
「こんなところで一人で、どうしたんだ? 誰か待ってるのか?」
スマホをポケットにしまい、僕は軽く頷いた。
「うん、待ち合わせしてて……一緒にご飯に行く予定なんだけど、あんまりこっちの街には来ないから、どこ行こうか迷ってて。」
男は笑って、前方を指差した。
「だったら、駅前の焼肉屋がオススメだな。あと、あっちの回転寿司も悪くないよ。」
その時だった。遠くからフィナの姿が見えてきた。彼女は走りながら近づいてきて、満面の笑みを浮かべていた。
「ははっ、ごめんごめん、林月! 待たせちゃった? 行こっ!」
僕は男に軽く頭を下げて別れを告げ、フィナと共に、夕食の店へと歩き出した。
ゴミ箱の前で僕は立ち止まり、ポケットからタバコの箱を取り出し、中身をそのまま捨てた。
「――こんなもの、もういいや。」
小さく呟いたその言葉には、ほんの少しの決意が込められていた。
「まだ、やらなきゃいけないことが山ほどある。もっと、ちゃんと人と向き合って、生きていかないと。」
たとえこれからの道が困難であっても、それが僕の人生。 そして、この物語は――まだ、始まったばかりなのだから。
やり直せる人生なら、今度こそ全力で頑張ってみせるよ。
実は元々まだ内容があったんだけど、次回でまとめるね!
第二章はあと一章残ってるから、楽しみにしててね!
次は第三章だよ。
来てくれた人、ぜひコメントと評価をお願いね!作者はすごく喜ぶよ。