第13話 カラオケ
困ったことになった。朝起きてスマホの通知を見て頭を抱えた。
画面上部には2件のメッセージが表示されている。一つは玲奈のもの、一つは健のものだった。送られている時刻はほぼ同じ、だけどほんの少しだけ健の方が早かった。
どちらも明日のお誘いだった。しかも同じ時刻でまるっきり被っている。オレはどちらかを断る決断をしなければならないことを重荷に感じていた。
玲奈と健、ふたりともオレにとって重要な人だ。玲奈は信頼できる友達だ。理知的で思いやりのある玲奈との時間は、オレにとって大切だと感じる。一方、健は昔からの友人で、オレが男だった頃からずっと支えてくれている大事な存在だ。
オレはベッドの中で身を起こし、スマホを手に持ったまま、ため息をついた。どちらかを選ばなければならないというプレッシャーが、心に重くのしかかってくる。
しばらく迷ったが、オレは健の誘いを受けることにした。今は自分の過去が知りたいと思ったからだ。それに健といると昔を思い出すので、何もかも変わってしまった今の状況を一時的にも忘れられる。健と遊んでいる時間が心の安らぎになっていることを、改めて再確認したからだ。
決断をしたからには行動を起こさないと二人に悪いだろう。
意を決してオレは玲奈に明日は別の予定があっていけないと返信した。
既読はすぐについた。送ったときにはもうついていた。でも返信はすぐには帰って来なかった。50分後に漸く帰ってきたのは、わかりましたの一言だけだった。
オレにはその時間がかなり長く感じた。とても悪いことをしてしまったような罪悪感があるが、誘いを断るのは悪いわけではないと自分に言い聞かせた。実際、別の予定もあるわけだし。
玲奈のことをこれ以上考えると頭がいっぱいになりそうだったので、オレは健と遊ぶことをイメージした。あいつが誘ってきたのはカラオケだ。昔はお小遣いがなくてカラオケなんて行けなかったから、付き合いの割にいったことがなかった。だから健はどんな歌を歌うのか楽しみだ。
朝が来た。
オレは目覚ましの音で起き、ゆっくりと身支度を整えた。朝食を済ませて、寝間着を着替えようとしたとき、ちょっとはおしゃれをした方がいいかなと一瞬よぎった。以前は考えもしなかった事が頭に浮かんできことに、とても驚いてしまった。自分の内面もどこか変わってしまったかもしれない。その事が怖かったが同時に好奇心も湧いてきた。今日はその心の動きにまかせてみることにした。
とはいえ、オレはメイクなんかをすることはまだできていない。鏡を直視できないからだ。あの日以来、自分の姿を気持ち悪いと思ってしまってからはずっとその調子だった。更に、女性のオレもそんなことに興味はなかったのか、家にはメイク道具なんて一つもなかった。
だからオレにできたのは服にこだわることだ。クローゼットを見るとこの前玲奈に選んでもらった服があった。水色のワンピースだ。
時間通りに家を出て、待ち合わせ場所に向かった。健はもう到着していた。ただ何か驚いているような様子だった。オレはいつもと変わらずに、健の元へ駆け寄った。
いつも軽口を叩いてくる彼は今日は大人しかった。オレをちらちらと伺う様子を見せるが言葉に詰まる。
「どうしたんだ?」
そんな彼の様子が心配になったオレは、こちらを直視しない健のかをを覗き込んで問いかけた。
「いや、なんでもない。」
彼はそう言ってはぐらかす。オレにはそれが許せなかった。今日一日こんな様子では、オレの昔を思い出して心のHPを回復させることができないではないか。
だから、原因を問い詰めた。
「いつもと様子が違うけど、なんかあったか。」
「だから、何でもないって。」
健は頑なだった。だが、それはオレも同じだ。
「お前体調でも悪いんだろ。ずっとこの調子なんだったら今日は帰ろう。」
少しずるいような気もするがオレがこう切り出すと彼は慌てたように答える。
「わかったわかった。正直に言うよ。」
そうとっさに返してきたがなかなか口を開かない。そうしている間に彼の顔は少し赤みを帯びてきた。
「お前、そんな服着るんだなって思ったから。」
「え、なんて。」
健はぼそっと喋るから、オレには全然聞き取れなかった。
「だから、お前、そんな服着るんだなって思ったんだよ!」
オレが聞き返したのが良くなかったのか、大きい声で返事が帰ってきた。
その返事を聞いてオレは思わず吹き出してしまう。
「ぷふっ。お前そんなことで話しづらそうだったのかよ。ただ服がいつもと違うだけだろ。いつも通りにしてくれよ。」
「ただって、それが大きな違いなんだろうが。」
健はぼそぼそと何かを呟いているが、はっはっはっと笑い声を上げるオレの耳には届かなかった。
しばらく経って落ち着いたあと、オレと健はカラオケボックスに入った。
個室に入ると、健は少し不機嫌そうな顔でカラオケのリモコンを手に取った。オレはその様子に気づきつつも、特に触れることなく部屋の隅のソファに腰を下ろした。
やがて、健が最初の曲を選び終わった。彼は無言でマイクを手に取り、少し強引に曲を始めた。彼の声が部屋に響き渡る。懐かしい曲だ。オレたちが中学生だった頃、よく一緒に歌ったものだ。
オレは歌詞を口ずさみながら、昔の記憶に浸った。ずっと健と一緒にいて、遊び回った日々。あのときは楽しかったな。大学に入ってからずっとそんな深く付き合う友人がいなかったオレにとって、その思い出はキラキラと輝いて見えた。
健の歌が終わり、部屋に静寂が戻った。彼は何か言いたげにオレを見たが、結局何も言わず、リモコンをオレに差し出した。
「お前の番だぞ。」
健の声には、わずかに緊張が混じっていた。オレは無言でリモコンを受け取り、画面を見つめた。どの曲を選べばいいのか、急にわからなくなった。オレは手が自然に動くまま、適当な曲を選んだ。リモコンのボタンを押すと、イントロが流れ始める。オレはマイクを握りしめ、少し深呼吸をしてから、歌い始めた。
最初のフレーズを口にした瞬間、健の視線が鋭くなったのを感じた。同時に自分の耳でも悪い結果を示すフィードバックを感じる。
あれっ?音程が合わない。
歌のバーをめがけて乱高下する音程バー。どうにか合わせようとするも、喉が言うことを聞いてくれない。
曲が終わると、部屋に静寂が訪れた。健は必死に口を閉じ、腹を抱えてぷるぷると震えている。
曲が終わって音量が小さくなってきたとき、彼の堰は崩壊した。涙が出るほどの笑い声が部屋に響く。
「おま、はっ、お前って、はっはっ、お前ってめっちゃ音痴だったんだな。はっははっ、ふー。」
大笑いする健にオレは何も言い返せなかった。あの日以来オレは歌なんて歌ったことがなかった。音程が違うし感覚も全然違うので、自分でもひどいことがわかり落ち込む。
落ち着いた健がトントンとオレの肩を叩いた。
「まあ落ち込むなって、今日は気分が変わった。お前の歌を練習する日にしよう。とことん付き合ってやるから。」
上から目線の言い方に少しイラッと来るが、歌の実力では完敗していることをわかっているため強く出れない。
それにこういうときは、寄り添ってアドバイスをくれるのが健のいいところでもあった。だから、健を信頼して歌の練習をすることに同意した。
健の励ましに少し心が軽くなったオレは、もう一度マイクを握り、今度は彼のアドバイスに従いながら歌い始めた。最初は声を出すのが怖かったが、健が何度も優しく指導してくれるうちに、少しずつリズムと音程を取り戻していった。
健の歌声が力強く響く中で、自分も同じように声を重ねると、少しずつだが自信が戻ってきた。そして、気づけば二人で笑い合いながら歌い続けていた。昔のように、無邪気に、ただ楽しく歌うことができた。
そのうちにオレは、ただ歌うことが楽しいと思えるようになってきた。健の指導のおかげで、少しずつ歌がまともになっていくのが感じられると、思わず笑みがこぼれた。
「お前、だいぶ良くなってきたじゃん!」
健が笑いながら言い、オレも少し誇らしげに笑った。
「まだまだだけどな。でも、ありがとうな、健。お前がいてくれてよかったよ。」
健は照れくさそうに笑い、「こんなの当たり前のことだよ、いつでも頼ってくれよ。」と言って、軽く肩を叩いてくれた。その瞬間、何かがすっと心の中で解けた気がした。
カラオケボックスを出るとき、健が「また遊ぼうな。」と声をかけてきた。オレは笑顔で頷いた。今日のこの時間が、オレにとって大切な思い出になるだろう。きっと、これからもずっと。




