00 奄美剣星 著 『ケーブルカー』
キャンパス・ラウンジでの食事は、ヴュッフェ方式で、カウンターにゆき、料理を盛った小皿を取り、レジで精算する。
流し髪の青年・恋太郎が、ウェイターみたいに、トレイを二つ持って、セミロングの女子学生・雫のいる席にやってきた。
ボディーガードだと思っていたけど、今までのお供って実は、デートだったのか?
恋太郎はちょっと聞き返してみたかっただけだが、そこは「深窓の令嬢」だ。
「私、デートのつもりでしたが、なに問題がありましたか……」
痩せっぽっちの青年はかなり慌てた。
「そ、そんな問題なんかあるわけがない。……光栄っていうか、嬉しいっていうか、なんか上手くいえないけど、そういうことは男である僕が先にいうべきことだったかなあって、思ったりもして」
「恋太郎さん、まじめだから、待っていると学校も卒業になっちゃうかと思って……」
いわれてみればその通りだ。
アメリカの有名な青春映画『いちご白書』では、学園闘争のリーダーをやっているヒロインが、運動に参加するよう主人公に呼びかけると、「自分にとってボートはエロチックなんだ」と答えて断ったくだりがある。
カヌーレースをやる恋太郎だ。
ボート・レースがなにゆえ官能的なのか、ホイジンガが著した中世末期のブルゴーニュ宮廷史『中世の秋』に答えがある。……ボート・レースは、騎士たちがおこなった馬上槍試合の延長線上にあり、臨死体験にも似た疲労極限のなかでゴールを越えたときにくる充足感は、男女の共寝以上の陶酔感があるのだという。
過去、インターハイ三位入賞を果たした恋太郎だが、そういうエクスタシーは、画家である祖父とデッサンをしていても襲ってくる。
雫にしてみれば、このまま彼を放置すれば、女性である自分に恋してくる可能性がどんどん低くなる。また、本人はあまり気づかぬようだが、案外と女子学生の目をひいているのであるから、「深窓の令嬢」にとってそっちからの脅威があった。恋太郎から声をかけているよりも、迅速かつ正直に自分の思いを伝えた方が得策だと判断したのだ。
「――デートだとすれば、費用は僕が払わなければならない」
「私がお誘いしたんだから、私がもちます」
「そういうわけにはいかない」
「二人分だすって……もうおつきあいをしないってこと?」
「だから女の子に払わせたりしたら、ヒモみたいで嫌なんだ」そして、流し髪の青年が頭を下げた。「君から切りだしたんじゃなくて、僕からいったことにして欲しい。つきあいたいんだ。いや、つきあってください」
「はい。お受けします。……よかった。嫌われたかと思っちゃった。判ったわ。費用の件、今回は甘えることにする」
雫は涙ぐんだ。……というか、本当にポタポタ膝に涙を落としてさえいる。
恋太郎は、筋金入りのジェントルマンとでもいうべき、お祖父さんの影響を強く受けている。みためはひ弱で繊細だが、案外と封建的な一面をもちあわせていた。それにしても、まるで、傍目には恋太郎が女の子を泣かせているみたいではないか。
参った!
二人が座っている席は、はるか遠くにある、東京八王子にある霊峰・高尾山が、大きな展望用ガラス越しからみえる。軽井沢のピアノ・コンサートにでかけたときは、まだ紅葉になってはいなかったのだけれど、あれから十日だ。高い山々はだいぶ色づいてきた。
げんきんなもので、恋太郎が、「高尾山へ行こう」というと、雫は嬉しそうに微笑んで、「ええ」と答えた。
以降、二人のデートは、そんなノリで決まるようになった。
*
高尾山の標高は六百メートル弱。登山するには京王高尾線高尾山口駅で下車、清滝駅に向かい、ケーブルカーで、山の中腹にある高尾山駅に行き、そこから徒歩で山頂を目指すのだ。
もともと高尾山は信仰の山だから、ケーブルカー駅がある麓は、旅館や土産物屋のある古い門前町をなしていた。小川に沿った散策路から門前町をすり抜ける。すると、水面に、ぽつんとはぐれた子羊のような雲一つが、水面を揺らしながら映っているのがみえた。
お気に入り・青のワンピースにカンカン帽を被った雫が、横にいる恋太郎から、急に前に駆けだして、くるっ、と回転してみせた。やたらにはしゃいで、童女のようにみえた。
「まるでシルフィーみたいだ」
「私がシルフィー? 風の妖精?」
「うん、君が身体を回したとき、ふわりとスカートが風に舞って、そう感じたんだ」
彼女は真っ赤になった。それから嬉しそうに、こっちに駆け寄ってきて、恋太郎の二の腕に自分の腕を滑り込ませてきたかと思うと、肩に頭を寄せてきた。
――正直な子だ。
と恋太郎は思った。
遠距離恋愛をしていた前の恋人に対して、自分は、あまりにも気持ちを伝えるということをしなかった。だいたいキス一つするのに、一年以上かかったなんてバカげている。
清滝駅の改札口を抜けてホームに入った。
「私、ケーブルカーに乗るのは初めて」
「高尾山のケーブルカーは、ワイヤーの両端に、それぞれ車両を繋ぎ、一方を吊り上げると、もう一方が降りてくる方式。井戸の釣瓶のようだから『つるべ式』っていうんだって」
ホームは斜面になっていた。十五分待つと車両が下りてきたので二人は一番前の席に並んで座った。通路側に恋太郎、窓際には雫が座った。ケーブルカーは〝紅葉号〟。車両内部の通路は、線路の勾配にあわせて階段になっていた。
車掌が、「途中急停車することがございますので、手すりによくおつかまりください」とアナウンスした。
出発進行。
駅をでるとすぐにトンネルをくぐることになる。古びた石積みのアーチ・トンネルだ。
高尾山の山麓はまだ緑色をしていた。色づいているのは、けっこう上のほうだ。それでも恋太郎は満足だった。肩と肩が触れ合っている。
窓の外を眺めるカンカン帽を被ったロングヘアの少女は絵になった。
雫ではないが、一緒にいるとだんだん幸福感が溢れてくる。
車両の乗務員室は、ハンドルやら計器だのがあるが、運転手はそこにいない。駅の運転室で操縦しているのだ。
そのことを雫に話すと、「じゃあ、あの人は?」と不思議そうに首をかしげる。前方の乗務員室にいるのは車掌だ。
三十度の急勾配を持った路線の始まりと終わりには二つのトンネルがある。出発してすぐにあるのが洗心堂で、終点近くにあるのが有喜洞だ。恋太郎が、閃いたのは洗心堂で、実行したのが有喜洞だった。
途中、緩やかに下ったところで複線になり、〝青葉号〟とすれ違う。それから鉄橋を渡るとまた昇り坂になった。
終点に近づくと、少し山肌が色づいてきた。二つ目のトンネルで、恋太郎は、雫の名を呼んだ。
窓をむいていたその人がこっちを振り返る。
軽く唇に触れた。
時間が停まったように感じた。
心臓が高鳴って、また時間が動きだす。
雫の双眸が白黒していた。
「もう!」
拳をあげて殴るフリをする彼女。
でも怒ってはいない。
高低差三百メートル弱、総延長一キロ、六分間の鉄道旅行だ。
ノート20150607