00 奄美剣星 著 『シーサイドカフェ・春 』
季節は巡って、春が訪れた。
潤んだ瞳をした流し髪の青年・田村恋太郎と、長い髪を背中まで伸ばし途中で束ねた川上愛矢かわかみ・よしや、二人の高校生は、自転車に乗って、「シーサイドカフェ」を訪れた。
路面電車の停車場から海にむかって数百メートルのところにある、取り壊し寸前みたいなくすんだ二階建てビルで、外付け階段からアールデコのパブに入ってゆく。
若いマダム・夏夜が厨房からでてきた。
「お久しぶりね、恋太郎君、愛矢君。そこの窓枠が見晴しいいわ。はい、これメニュー」
すっかり名前まで憶えられてしまった。
二人は勧められた窓際の席に座った。
大きな窓からは砂浜がみえる。
恋太郎はスケッチブックを開いた。
夏夜が注文をとりにきたとき、愛矢がいった。
「あれ、マスターは?」
「あそこ――」
若いマダムが指さした先に、ウェットスーツ姿をした逆三角形の男が、サーフボードを小脇に抱えて歩いていた。
「今日は波が割れていない。沖から風が吹いている」
「沖から吹くといい波なんですか?」
「そうよ。海岸沿いに吹く波が一番よくないの。やたらに白っぽくて砕けたように泡立った波。あれが駄目。堤防をみて、サーフボードを積んだ車がどんどん、海岸駐車場に集まってきたでしょ」
波は海岸に押し寄せる潮が、浅瀬の凹凸にぶつかって、跳ね上がるものだ。波が立ち上がる地点は波間から数十メートルといったところだろうか。
サーファーたちは群れをなし、人気のない海岸に、いつの間にか五十人くらいが飛び込んでいった。皆、長板に腹ばいとなり、両手で掻いて、沖合に漕ぎだした。
「まさか、サーファーって、いい波を追いかけて、海岸から海岸を車で渡り歩いている?」
愛矢が驚いた顔をした。
すると、若いマダムが、「もちろん」といって笑った。それから彼女は、「ご注文は?」と、愛矢をむいてつけ加えた。
「ミルクティーを――」
「恋太郎君は?」
恋太郎は、スケッチブックに思いつくままに絵を描き、至福の世界に浸っている。
愛矢は苦笑した。
「面倒だから、一緒でいいです」
伝票にボールペンで書きこむ若いマダムの指先は長く優雅にみえた。
ジーンズにエプロン姿、それにソバージュの髪だったのだが、恋太郎には、だんだんと、金髪碧眼の若い貴婦人にみえてきた。その人が笑みを浮かべて語りかけてきた。
*
なだらかな丘陵に、大きな牧場があって、牛や羊が往来している。
オークの森があり、そこに、ぽつりと、荘園屋敷・マナーハウスがたたずんでいる。
部屋はヴィクトリア様式だ。赤じゅたんに暖炉、テーブルの上には、銀ポットとティーカップ二つが置かれている。
マダムが、銀ポットから紅茶を注いだ。
“One, for you.”
“One, for me.”
“And one, for the pot.”
一杯はあなたのために。
一杯は私のために。
そしてもう一杯はポットのために。
なつかし特集・紅茶メーカーのキャッチコピーみたいだ。
するとだ。
恋太郎は横から頭を何度も叩かれているのに気づく。
「恋太郎、おい、恋太郎、戻ってこーい!」
恋太郎が正気に戻ると、いつも店内に流れているロックではなくて、フォークギターが演奏されていた。
楽器を抱えていたのは、灰色のジャケットにシャツ姿の痩せた老紳士だった。どこかでみたことがある。
恋太郎と愛矢が不思議そうにみていると、マダムが微笑んだ。
「紹介するわ、常連さんの教授よ。近くで遺跡調査をなさっているんだて。ポモリ教授ってみんなが呼んでいるわ」
「ああ、やっぱり――」
愛矢が両手を打った。
教授は系列大学で教鞭をとっている人で、恋太郎たちは高等部の生徒だった。直接講義を受けるということはないのだが、校内で何度かすれ違うことがあったのだ。
ポモリ教授と呼ばれた考古学者の紳士は微笑んで、
「どうだい、うたってみないかい?」
と恋太郎たちに提案した。
教授はくわえ煙草をしていた。霜を混じえた頭はナチュラルヘア。細面、口髭。いつもスーツを着こなして、蓋のない懐中時計をズボンのポケットにしのばせていた。そしていつも煙草をくわえている。
ポモリ教授はむかしの音楽家、ポール・モーリアそっくりだ。恐らくは、その名を縮めて教授の仇名にしたのだろう。
レコードのアルバムが終わったので、マダムが針をはずした。教授が奏でだす。
「『ドナドナ』はね、楽しげに唱ってバランスをとるんだ。音楽というのはそういうふうにやるんだよ」
──なるほど。
ドナドナドナ
仔牛を載せて、
ドナドナドナ
荷馬車が揺れる
ポモリ教授と過ごす時間はとても愉快だった。教授は恋太郎たちにいったものだった。「恋太郎君はもう大人になる。もう少ししたら愛する人とアパートの軒先に洗濯物を並べてもいいんだよ」
「困りました。相手がいません」
「残念だねえ」
「はい、残念です」
「恋人ができるといいねえ」
「はい、できたら嬉しいです」
二人のやりとりをきいていた、カウンターのむこうの若いマダムと、一緒にいる愛矢が、目を合わせると一緒に噴きだした。
教授はマンドリンをケースにしまいながら、珈琲とナポリタンを三人分注文し、恋太郎と愛矢にご馳走してくれた。
――春は獅子のように現れて、羊のように去ってゆく――
花を満開にした桜木の枝が揺れていた。
羊のように去りゆく、ゆるい季節の夕暮れ。
やがて恩師となる教授との出会いが、そんな風景のなかであったのを、恋太郎と愛矢は記憶している。
ノート20140214