盲目の恋
とりあえず、今日はもう、それほど危険な事は無いだろうと少しだけ緊張を解いた。
それでも汚れた雑巾を洗いながら物音や気配に注意した。
そして平和と安全な時は、そう長く続かないのだと痛感した。
・・・・実は、このアパートに来る前、消し去りたい黒歴史を作っていた。
後輩の顔を立て、人数合わせのため、仕方なく参加した合コンがキッカケだった。
それまで仕事一筋で、長く、女性としての幸せよりキャリアウーマンとしての自分を大切にしていた。
自分はきっと一生、恋愛なんてしないだろうと思いながら仕事に没頭する日々を送っていた。
けれど、ある日、恋愛体質の後輩から、飲み会のメンバーがどうしても揃わないからと執拗に参加を求められ最終的に根負けして、所謂合コンに参加した。
そこで出会った、偶然、向かいの席に座った同じ年の男性と良い雰囲気になった。
軽く自己紹介し合って食べて飲んで自由に過ごし、同じタイミングでトイレから出てきた高倉守と鉢合わせた。
「あ、どうも、あの、改めまして高倉守です」
「どうも、犬飼時子です」
「犬飼さん、ご結婚は?」
「してないですよ!直球すぎてビックリしたわ!」
言いながら左手を見せた。
「ですよね、既婚者や付き合ってる人が、ちゃんと居る人が来たら良くないですよね、1人で居られる事が信じられないくらいキレイな方だったから!思わず変なこと聞いちゃって申し訳ない」
「あら!お上手、そういう高倉さんは?こんな紳士的な殿方が一人でいるなんて信じられない」
「僕も勿論フリーです」
言いながら守も左手を見せた。
流石に初対面でお互い恋愛感情を抱くまでは至らなかったものの、心地の良い話しやすさを感じ互いに連絡先を交換していた。
暫し、電話やメールで互いの距離を縮め良い関係を構築して、守の提案で初めてのデートを愉しんだ。
初デートで県境までドライブした後、小さな喫茶店でコーヒーを飲みながら、他愛ない趣味の話を聞かされた時子は、どんどん相手に惹かれた。
「守さん、行動力があるのね」
「与えられるのを待っていても、なにも変えられないからね・・・・・」
「何か変えたい事があるの?」
「まあね、くだらない日常とか・・・・・でも時子さんとだったら変えていけそうだよ」
聞いている方が恥ずかしくなりそうな台詞を口にされ赤面した。
「ところで、嫌なら答えなくて良いんだけど時子さんは、何で結婚しないの?」
「結婚願望が無いのが一番の要因かしら、自他共に認めるけど、私、仕事人間なのよね、何より、まず仕事を優先にしちゃうのよね、守さんは?」
一瞬、妙な間を置いた。
思わず訝し気に見ると微かに笑って見せた後、言葉を選びながら答えた。
「・・・・・・・本当に好きな人と出会って、大恋愛を謳歌する為、かな、僕の人生は足りないものが多すぎるからね、可能な限り埋めていきたい、そうしてからじゃないと、きっと僕は誰の事も幸せにできない」
愁いを帯びていく横顔と、何とも意味深な言葉に好奇心を刺激された。
少しずつ、お互いを曝け出し、逢瀬を重ね、互いに夢中になる一方で時子は些細な好奇心から守に幾つか疑問を抱くようになった。
最初は特に意識していなかった事だったが、例えば毎回、何故かスーツ姿だったり、時子とデートの時は毎回レンタカーだったり、何故か携帯を2台持っていたり、手間も出費も掛かる事をしていた。
そして守は時子の家に何度も来ていたが時子は一度も守の家に行ったことがなかった。
疑問は、程なく疑念になった。
本人に聞けば解消する疑問のようにも思えたが、勘繰りを入れる事で相手の気分を害するのは避けたかった。
数週間悩んだが、時子は心を決め、行動に移した。
まだ、時子から不信の目を向けられている事に気付いていない守。
時子はデートの後、何食わぬ顔で守と別れて、レンタカー屋に先回りして、問題なく車を返却し、自分の車に乗った守の後をコッソリ付けた。
程なく守は庭付きの戸建て住宅の駐車場に車を停めた。
駐車場には、既に一台停まっていた。
その家の庭に、子供の物と思われる洗濯物も干してあった。
最悪な形で疑念は確信に変ってしまい、気が動転しすぎて、どう帰宅してきたか思い出せない程だった。
暫し、仕事も手が付かなくなって、上書き保存をせずシャットダウンしそうになる等、仕事中、何度もヒヤリとする瞬間があった。
翌週末、時子は何も知らない体で守に誘われるまま出かけた。
相変わらずスーツをしっかり着こなして、レンタカーで迎えに登場し、事前にサーチした小さな喫茶店に時子と立ち寄った。
「よく毎回見つけてくるわね、今度は私がサーチしてくるわね、こういう感じの穴場の店、そして次回は車も私が出すわよ、迎えに行くわ、家まで、毎回甘えているのは申し訳ないから」
時子の発言に守は、カップに伸ばしかけた手を止めた。
「・・・・・そうしてもらうと嬉しいけど、うちのアパートの前、狭いから近くの駐車場が広いスーパーまで来てもらえば助かるかな、今日帰る時に場所教えるから」
「守さんのアパートって、この近くなの?」
「まあね」
突き止めた家から、全然近くない駐車場の広いスーパーを教えられ、しかもアパート住まいだと平然と嘘を聞かせる守に時子の胸の中に怒りが渦巻いた。
「・・・・・あ、ちょっと、ごめんなさい、此処で買い物してきて良いかしら、しょう油、切らせていたのを思い出して、すぐ戻ってくるから」
言いながらシートベルトを外した。
「じゃあ、一緒に行こう」
守もベルトを外し2人で店内に入った。
しょう油を買うと言うのは実は口実で少しでも守と離れたい思惑があったのだが、失敗に終わった。
諦めて、しょう油を手にレジに並び、支払いの為、財布を開けると、守が紙幣を差し出した。
「ここは僕が払うよ」
「・・・・・・ありがとう」
紳士的な笑みを浮かべ、お釣りの硬貨を財布に押し込み、レシートをズボンのポケットに押し込んだ。
「・・・・・じゃあ、良い店、サーチしておくわ」
渦巻く思いを悟られないように振る舞いアパートまで送ってもらって平和に別れて見せた。
車を降り軽く手を振って家に入った。
ドアを閉め、鍵を掛けた刹那、改めて怒りがこみ上げた。
そして幾分、気持ちが落ち着いたところで、関係を断ち切るための「プラン」を慎重に練った。
「今日も仕事?」
「ああ」
守は靴を履きながら、娘の美音子を振り向かないまま、素っ気なく答えて鞄と車のカギを手に玄関を出た。
美音子は外に出て守の車が見えなくなるまで見送った。
「・・・・・行ったよ、パパ」
「じゃあ、美音子も車に乗って」
「うん」
美音子の報告を受け母親の恵がエプロンを外し、娘を車に促した。
車に乗ってエンジンを掛け、美音子に確認した。
「どっちに行った?」
「あっち」
美音子が指さした方向を睨んだ後、アクセルを踏み込んだ。
妻と娘が動いている事に全く気づいていない守は時子との待ち合わせ場所に順調に到着した。
車を停め、降りて時子の車を探した。
「こっち」
時子に呼ばれて守は振り返った。
守は時子に駆け寄った。
「さ、どうぞ、誰かに見られたら厄介だから、早く移動しましょう、念のため、その帽子被って」
「え?」
訝し気な顔を見せながらも、とりあえず時子の車に乗った。
時子は無言を守ってハンドルを握った。
スーパーの駐車場から出て、「プラン」を消化する為、車を走らせた。
「・・・・・何か、怒ってない?」
用意されていた帽子を警戒しながら更に目深に被って時子の様子を窺った。
「そんな事ないわ、警戒しているだけ」
「何に?」
「・・・・・不倫下衆女って悪意あるメモ書きが職場の私のロッカーに入れられていたの」
サッと守の顔色が変わった。
「誰かが私たちがデートしている所を目撃したみたいなのよね、そこに付け込んで私を蹴落とそうとしているみたいなのよね、私、恥ずかしい事だから話さなかったけど、職場でライバルが多くて、まあ、独身同志が付き合ってるんだから不倫にならないし、そこは事実無根だから気にしない事にしたんだけど、嫌がらせが悪化しない保証も無いし、だから勝手だと重々承知してるんだけど今後、しばらく、事態が収束するまで会うの、やめたいと思うの、敵の出方も見極めたいし」
嘘をついている心苦しさは有ったが、今後、会いたくない事をハッキリ伝えた。
重い空気が車内に流れた。
「・・・・・・・そんな事があったのか、だから先週も急に会えなくなったんだね」
「そうなのよ、色々と芽を摘んでおく必要があったから・・・・・・でも、先週の穴埋めもしたくて凄く良い店を見つけたの!期待してて、お会計も今回ばかりは私に任せて!」
「・・・・・じゃあ、今回はお言葉に甘えて」
時子は信号で停車したタイミングで財布から一万円札を出して守に差し出した。
「先に渡しておくわ、会計は、これで」
「申し訳ない・・・・・」
素直に受け取って財布に入れた。
「有った!パパの車!」
スーパーの駐車場で、美音子が守の車を見つけ出した。
恵は大きな溜息をついて車内を外から確認した後、店内を隈なく探し、店内には居ない事を確認して美音子を伴い向かいのファミレスに入った。
「いらっしゃいませ、空いてる席にどうぞ」
2人、簡単に窓際の席を陣取る事に成功し、早速スーパーの駐車場を監視した。
「好きな物、頼んで良いわよ・・・・・・・」
「うん」
真剣な表情でメニューを捲る美音子の前で恵は監視を続けた。
「決まった、ママは何にするの?」
「あんたと同じので良いわ」
「判った!じゃあ、頼むよ」
「うん」
「お待たせいたしました」
ほぼ貸切のフレンチレストランで2人、運ばれてきた前菜に感動を覚えた。
細部にまで拘った盛り付けに手を付けるのが勿体無いような気分になりながらも前菜を堪能した。
2人がフレンチを堪能している頃、美音子と恵も豪華なランチを堪能していた。
「パパ、どれぐらいで戻ってくるかな・・・・・・」
先に付け合せの野菜を食べてから、フォークとナイフを手にして、しっかり火が通ったステーキを食べやすいサイズにカットしながら向かいのスーパーの駐車場の様子を窺った。
「きっと当分、戻ってこないわよ、パパの事は一旦良いから、覚めないうちに食べちゃいなさい」
「うん」
嬉しそうにステーキを頬張る娘を遠い目で見つめ泣きたい気持になりながら自分も付け合せのブロッコリーを咀嚼した。
「おなか一杯・・・・・・・早く帰ってきてくれないかな、パパ」
ステーキセットを完食した美音子と恵は、ダラダラと、ドリンクバーを利用しながら守の帰りを待った。
喉の渇きなど全く感じてなかったが、美音子はグラスに入ったアップルジュースをストローで吸い上げた。
その時・・・・・・・・。
「戻ってきた!パパだ・・・・・・女の人の車から降りてきた!!」
「美音子!先に行って!ママも会計したら直ぐに行く!2人共引き留めて」
「うん!!」
美音子は急いで外に飛び出し、守を呼び止めた。
「パパ!!」
時子と一緒に居た守がギョッとして美音子を振り返った。
此処で守の妻子に遭遇する事は想定してなかった時子は激しく動揺した。
ギョッとした顔のまま、守は時子と妻子を交互に見た。
「・・・・・・パパって、え?どういう事?!」
「とぼけるんじゃないわよ!」
妻子に鬼の形相で間合いを詰められ助けを求めるように守を見た。
「止めないか!こんな所でみっともない!彼女は、ただの取り引き先の人だ」
「・・・・その取り引き先の人に、この間、しょう油を買ってあげたの?!」
恵が、その時のレシートを守に突き付けた。
守は、うっかりレシートの処分を怠った事を悔いた。
「それは・・・・・」
言い淀んだ後、直ぐに言い逃れを口にした。
「たまたまオフィス内で拾っただけだ、この人は関係ない!!そんな紙屑が何だと言うんだ」
「・・・・・・何の為にオフィス内に落ちていた紙屑を拾ったって言うのよ!」
「メモ用紙に使う予定だったんだ!」
どんどん苦しくなる言逃れを聞かされた3人で冷めた目で守を見た。
時子は気付かれないようにため息をついて、切り出した。
「・・・・あの、そのレシートの事は存じませんが、私と高倉さんは、ただのビジネスパートナーです、今日は仕事の話をしながら一緒に食事させてもらいました、指輪もしていなかったので、まさか妻子持ちとは思いもしなかったのですが」
言われて2人、守の左手薬指に注目した。
確かに時子が言うように指輪が外されていた。
「・・・・いつから」
恵は、時子に別段、悪意が無かった事を悟った。
何だか一気に疲れながらも、これからの事を真剣に考えた。
「もう行ってよろしいでしょうか、高倉さん、先ほど頼まれた例の資料は期日までに必ず添付させていただきますが、妻子持ちでありながら自分は独身!なんて嘘をつく方と一緒に仕事を続けることは出来ません、今後のビジネスにつきましては考えさせていただきます」
修羅場の只中に居る3人を残し、時子は立ち去った。
駐車場を出ていく、その車を美音子は睨んだ。
その後は、引っ越しもして携帯の番号も変えた。
もう守と会っていないし連絡も取り合ってないのに、何故また美音子が自分を探し回っているのか・・・・・。
ため息をつきながら、やはり、ちゃんと決着をつけるべきだと覚悟にも似た思いを抱いていた。