前篇
2016年ぐらいに書いたんで、コロナとかそんなものはない世界線でのお話ですね。
初めて飲んだビールは、おれの初恋の味だった。期待と好奇心にあふれているのに、なぜか舌に合わず、ほろ苦い。
そしてもう二度と飲むものか、と思うのに、いつしか付き合わずにはいられなくなる。なぜかこの苦味がクセになっていて、疲れたときほどよく身体に沁みるのだった。
もし、この味を知ることが大人になるということなら、きっと大人というのは苦り切った日々を過ごすのだろう。
それとも、苦味に慣れてしまうということが、大人になるということなのだろうか。
そうぼんやりと考えながら、おれたち三人はファミレスで飲んでいた。
ときはすでに二十三時に迫っている。
入ったのがたしか十九時ごろだったはずなので、もう四時間も談笑していることになる。店からすればいい迷惑だろう。その間延々と酒やら、つまみになりそうな惣菜やらをちまちまと注文し、ときに大声で笑う。そんな客が夜中に喜ばれるはずがない。
しかしおれたちはフロアの奥まったところ、隔離された喫煙席のあたりにいたため、誰の冷たい目にも遭わずに済んでいた。さながら秘密基地のように、おれたちだけの空間が出来上がっていたのである。
「それで、どうしたらいいかまったくわからないんだよね。カノジョできたのなんて初めてだし……」
「勝ち組は黙りましょう? つか、できるだけまだマシだっての。俺はそもそも身の回りに女の子がいないんだから」
んで、そこでどんなことが話されているかというと、恋バナなのである。
いったい何が楽しくて、クリスマスの夜中に野郎三人で恋バナなんてしているのだろう。しかも話す内容の大半は敗戦記録だし、うちひとりはすでにリア充だ。なんというかバカバカしいこと、この上ない。
「いや、だって、告白されて一ヶ月ぐらいしか経ってないんだよ。それまでずっと失恋引きずってたし、なんというか、フクザツ」
そういう異端分子、鷲田ユースケは、国立理系の大学生。いわく、半年まえに片想いの相手からフラれ、このあいだサークルの後輩に告白されたらしい。忙しいヤツだ。
「つか、なんでここにいるのよ。カノジョと出掛けりゃ良かったのに」
ツッコミを入れているのは、佐竹リョウだ。
彼は私立文系の大学生。こいつはいわゆるバンドマンなのだが、見た目のイケイケ度とは対照的に、奥手でコミュ障だった。長い付き合いのあるおれたちだからよく話すものの、初対面相手だと会話のやり方をド忘れしてしまう致命的な欠陥を持っている。
そいつの至極まっとうなツッコミに対して、ユースケは真顔で答える。
「クリスマスって、混むじゃん」
「うわあ、情けない……」
「同意のうえでだから。年明けにクリスマスすることにしてます」
「よくわかんねえよ。おい櫻田、このわかってないヤツになんか言ってやれよ」
んなこと言われてもなあ。
「いいんじゃないの。ひとそれぞれだし」
「カーッ! どいつもこいつも!」
リョウは後頭部のあたりを掻き毟ると、おもむろに立ち上がる。そして、ちょっちお手洗い、と言い残すと、のそのそと喫煙席の区画から離れていった。
ふと訪れる沈黙。だが、すぐにおれは笑いがこみ上げてしまった。不思議そうに見つめてくるユースケに対して、おれは言う。
「なんつうか、おれたちが恋バナなんかする歳になったんだと思うと、それだけでちゃんちゃら可笑しいんだわ」
「あーそうだね。もう二十一歳だもんねえ」
おれたち三人は、同じ高校だった。男子校で、進学校。外部の予備校でカノジョ作ったみたいな話をする同学年を尻目に、おれたちはアニメや小説やゲームの話ばかりする仲だった。
べつに飛び抜けてオタク趣味があったわけではない。けれども、あのころ現実の女の子というのは、テレビ画面の向こう側みたいに異世界の住人だった。そのため色恋沙汰にはてんで無縁で、恋バナと下ネタはまったくしない、生真面目な部類であったと思う。
それが、卒業してからわずか三年でこれだ。惚れた、腫れた、で笑いあい、酒を飲んでいる。月日が経つのが早いと感じるわけだった。
「シンヤくんとこは、どうなのさ。こないだ会ったときにいっしょだったコ、あれカノジョとかでは?」
「いやいや。あれはダチだよ。あいつにはカレシちゃんといるから」
「なんだ、つまんないの。シンヤくんけっこう女友達多いって聞くから何かあるかと思ってたんだけど……」
「買いかぶりすぎだよ。友達にはなれても恋人にはなれないもんだって」
「ああ、まあそういうもんだよね」
彼自身、思いあたることがあるのか、それ以上は言わなかった。
おれもあえて何も言わなかった。自分から古傷をさらけ出すのもなんだか情けない話だ。クリスマスの夜に、野郎の集まりに参加している。この事実だけで現状はお察しだと言っていい。
ちょうど、何かしらのピリオドが打たれたかのように静寂がやってくる。
もう笑いは戻ってこなかった。
それは、すくった手のひらのすきまから、水が滑り落ちてゆくかのようにすうっと引いていったのだ。
空白を埋めるように、空になったジョッキを傾ける。合法的に酒が飲めるようになってから一年、もう苦味には慣れてしまい、むしろ楽しく味わうようになっていた。
それは決して悪いことではないものの、おれにはどことなく淋しく感じられた。もう、過ぎた日の思い出に帰れない気がしたからだった。
「そろそろお開きにするか」
言ったのはユースケだった。
その視線の先には、戻ってきたリョウがいる。彼はユースケの言葉をきちんと聞いていたのだろう、しかと肯いて、尻ポケットから革の長財布を取り出していた。
おれも財布を出し、割り勘で支払って店を出た。時計は二十三時を十分過ぎたところだった。
ぬくぬくとした秘密基地を抜け出すと、冷えきった現実の夜が待ち構えていた。
うわぁ、寒い! とおのおの悲鳴のように声を上げると、二重三重に着た上着のうえから二の腕をさする。けれども寒さはちっとも和らぎはしなかった。情けない野郎どもでは、上着が何枚あったところで聖夜の冷気に敵わないというのだろうか。
「これからおれたちどうなるのかなあ」
突然、歩きながらリョウが言った。
まるでこれを逃したらもう二度とないから、とでも付け足しそうな具合だった。
「んー、ぼくは院に行くけど、きみらこれから就活じゃない?」とユースケ。
「そうなんだけどな。なんかあと一年で大学生活も終わりで、社会人ってのは実感湧かないんだよな。何かめちゃくちゃしたいことがあるわけでもないし」
あ、でもシンヤはどうよ。おまえ教職コース取ってるんだろ? とリョウは突然話題を振ってくる。
「えぇ……べつにおれも教師を目指してるわけじゃないぞ。成り行きでここまでやったから、免許は取っておこう、てそんだけだ」
「ならないの? なんかできそうには見えるのに」
「ユースケ、それはちがう。こないだボランティアでやってみてわかったけど、おれは教師になったら潰れるタイプだぞ」
「じゃあ、就職か」とリョウ。
「そう、だなあ」
しょせん大学生、しょせんモラトリアム人間。いつか大学の先輩に母校のことを「お坊っちゃん学校」とからかわれたことを思い出す。明日のことすら、まだ結末を知らない物語の一ページのように読み飛ばしてしまうおれたちは、いまここにあることの意味を何も理解しないし、する気もない。
刻一刻と、時間が過ぎてゆく。けれどもおれたちはその砂のようにこぼれ落ちてゆくものの価値を、まだわかっていなかった。だから将来なんてこれっぽっちも真剣に捉えてなくて、真剣に考えなきゃな、て思うぐらいだった。その傍らで、このくだらない瞬間がずっと続けばいいと思うくせに、だ。
だからなのだろう。明日の宿題なんだっけ、て言いあう小学生の会話のように、イマイチ実感のわかないままインターンだの就活だのの話をして、おれたちは駅に流れ着いてしまった。
そこで会話は終わった。しょせん、それすら退屈を埋め合わせる時事ネタのひとつに過ぎなかったのである。
「じゃあ、今日はこれで!」
「年明けにでも」
「おう、またな」
みな好き勝手に別れの言葉を述べて、べつべつの改札に向かって行った。
高校は同じだったが、すでに大学も、住むところもべつべつであり、おそらくこれから向かう先もべつべつなのだろう。それがたまたま都内のファミレスですれちがっただけに過ぎない。あとはひとり、孤独の時間が待っている。
……と、思っていた。
「あれ、櫻田じゃん」
一秒先のことはわからない。
まだ聖夜は終わる気がないようだった。