一生、忘れない
突然のことに、頭の中が真っ白になる。スレン様にキスをされているのだと理解するまでに、かなりの時間を要した。
優しく触れるだけだったそれは、何度も角度を変え、深くなっていく。もちろん初めてだった私は呼吸の仕方すら分からず、息苦しさを覚えてしまう。
唇を舌でなぞられた後、後頭部を押さえられていた手が緩んだ。熱を帯びたアイスブルーの瞳と、視線が絡む。
呆然とする私の頬をするりと撫でると、スレン様はひどく幸せそうな顔で微笑んだ。
「だいすき」
こんなの、反則だと思う。
肩で息をしながらずるずるとその場に座り込んだ私は、もはや言葉ひとつ出てこない。いつものように「私もです」だなんて、言えるはずがなかった。
「……スレン、さま?」
荒くなった呼吸を整え、小さく深呼吸をする。そうして顔を上げると、いつの間にか彼の瞳は閉じられており、規則正しい寝息が聞こえてくる。
どうやら酔い潰れた彼は、眠ってしまったらしい。
安堵に似た感情を覚えつつ、私は何とか立ち上がると、自室へと戻りベッドに倒れ込んだのだった。
◇◇◇
「……全然、眠れなかった」
昨晩、スレン様を待っている間はあんなにも眠たかったというのに、部屋へ戻った私はさっぱり眠ることができなかった。スレン様の唇や舌の感触、表情が頭から離れないのだ。
いつまでも頬の熱は冷めることはなく、いつの間にか朝食の時間になっていて。部屋へとやって来たベティは死にかけている私を見て、驚いた声を上げた。
「エルナ様、どうされたんですか!?」
「そんなに酷い顔、してる?」
「はい、とても体調が悪そうです。今すぐ医者を……!」
「よ、呼ばなくて大丈夫だから!」
慌てて出ていこうとする彼女を、少し眠れば治るからと言って必死に引き留める。
結局、スレン様と顔を合わせる心の準備も出来ておらず、食欲もないため朝食は後で食べることにして、私はベティの言う通りまだ寝かせてもらうことにした。
「おはよう、エルナちゃん。具合は大丈夫?」
やがて、心配して来てくれたらしいスレン様の声がドア越しに聞こえてきて、心臓が大きく跳ねた。
彼の声のトーンは驚く程にいつも通りで、こんなにも意識し、落ち着かない気持ちでいるのは私だけらしい。
彼のような大人の男性は、キスひとつくらいでは何も思わないのかもしれない。何も返事をしないわけにはいかず、私は布団にくるまりながらも何とか口を開いた。
「わ、私は大丈夫です。スレン様も大丈夫ですか?」
「うん。実はいつ帰ってきたのかもよく覚えていないくらいなんだけど、二日酔いもなくて安心したよ」
「……え」
記憶が、ない。そんな言葉に、私は頭を思い切り殴られたような衝撃を受けていた。けれど彼は、あれほどに酔っていたのだ。記憶がなくなっていてもおかしくはない。
「ごめんね、もう時間がないから今は仕事に行くけど、早めに帰ってくるから。何かあったらすぐ連絡してね」
はい、と消え入りそうな声で返事をすれば、スレン様の足音が遠ざかっていく。何とも言えない気持ちになった私は枕に顔を埋めると、一人声にならない声を漏らしたのだった。
いつの間にか寝落ちしていたらしい私は、昼食をとった後に、ベティと共にブレットのお見舞いへとやって来ていた。
お世話になっている身なのだ、これ以上不規則な生活は避けなければとは思うけれど、今回ばかりは許してほしい。
「今日は、この本を読んだんだ。スレン様の論文も載っていたんだよ! やっぱりスレン様はすごいね」
「ふふ、そうね」
スレン様に頂いたファーストリングを指に嵌め、嬉しそうに話をするブレットを見ていると、幸せな気持ちになった。心身共に元気になっていく姿に、ひどく安堵する。
改めてスレン様に感謝し、屋敷に戻った後は、私も頑張らなければと勉強をして過ごしていた。
そうしているうちにスレン様の帰宅を知らされ、時計を見れば、いつもよりもかなり早い時間だった。私の体調が悪いという話を気にして、急いで帰ってきてくれたようだ。
申し訳ない気持ちになりつつも、両頬を思い切り叩いた私は「いつも通り、いつも通り」と自分に言い聞かせ、彼がいるであろう広間へと向かう。
「ただいま、エルナちゃん。体調はどう?」
「おかえりなさい。ええと、もう大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」
「良かった。夕食は食べやすいものにしてもらったから、絶対に無理しないでね」
相変わらず優しい彼に胸を打たれつつも、やはり恥ずかしくなってしまい、視線を合わせることができない。
「……エルナちゃん?」
そんな私を見て心配したらしいスレン様は、顔を覗き込んできて。顔が一気に近づいたことで、色々と思い出してしまった私は思わず、後退ってしまう。
「や、やっぱり夕食はいらないです」
「えっ?」
「ごめんなさい……!」
やっぱり今日はまだ、彼と顔を合わせるのは無理だ。
キスひとつでこんな態度になってしまうお子様でごめんなさい、と心の中で謝罪を繰り返しながら彼に背を向け、逃げるようにして自室へと向かったのだけれど。
その途中の廊下で、追いかけて来たらしいスレン様によって腕を掴まれてしまった。
「エルナちゃん、お願いだから待って。何かあった?」
「……っ」
「何か嫌なことがあった? 俺、何かした?」
不安げな表情を浮かべる彼を見ているうちに、恥ずかしさと申し訳なさ、やるせなさで気持ちがぐちゃぐちゃになる。
気が付けば瞳からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていった。
「う、……っ、く」
こんなことで泣くなんて、迷惑に決まっている。本当にバカみたいだ。今まで辛いことがあっても、私は泣くことなんて滅多になかったというのに、自分でも訳がわからない。
それでも、もう我慢できなかった。
かなり戸惑った様子のスレン様は、私の腕を掴んでいた手をそっと離すと、私の名前を呼んだ。
「ひ、ひどい、です……」
「酷い……? やっぱり俺、何かした?」
──突然だった上に、想像していたファーストキスとは大分違ったけれど、好意を抱いている相手とのキスはやっぱり嬉しかった。きっと私は、一生忘れないだろう。
それなのにスレン様は覚えていないなんて、まるで無かったことになってしまったようで、ひどく悲しかったのだ。私にとっては、初めてのキスだったというのに。
「っキス……した、のに……」
そう言うと、スレン様は「え」という声を漏らした。それからは、私のすすり泣く声だけが廊下に響いていたけれど。
「俺と、エルナちゃんが……?」
小さく頷けば、彼は驚いたように切れ長の瞳を見開いて。
「…………夢じゃ、なかった?」
スレン様は口元を手で覆うと、真っ赤な顔でそう呟いた。
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