噛み合わない
「……全然、眠れなかった」
イアンに会った翌朝、色々と思い悩んでしまいさっぱり寝付けなかった私は、ふらふらとベッドを出た。鏡を覗き込んでみれば、酷い顔色をした自分と目が合う。
こんな顔で、いつも私を可愛いと言ってくださるスレン様に会う訳にはいかない。慌てて自分で軽く化粧をして誤魔化した後、彼が待っているであろう食堂へと向かった。
「おはよう、エルナちゃん」
「おはようございます」
いつもと変わらない様子のスレン様にほっとしつつ、一緒に朝食をとり仕事へ向かう彼を見送ると、自室へ戻った。
ぼふりとベッドに倒れ込み、天井を見上げる。気が付けば口からは、深い溜め息が漏れていた。
「悩んでいても、仕方ないよね」
どちらにせよ、私にイアンと結婚するという選択肢はないのだ。彼の気持ちを思うと胸は痛むし、大切な幼馴染だけれど、次に会った時にきちんと話をして断ろうと決める。
そして、スレン様のために出来ることをしていきたい、少しでも彼に釣り合うような人になりたいと、思った。
その後、眠気が来た私は少しだけ眠り、起きたあとはその第一歩として予定通りベティや料理長と共に、スレン様への差し入れのクッキーを作ることにした。
「エルナ様、手際がいいですね」
「ありがとう。元々料理はしていたから」
あの家で使用人扱いを受けていたせいで、スムーズに作業を進めることができ、あっという間に生地は完成した。
「……スレン様、喜んでくれるかしら」
「絶対に絶対に喜んでくださいますよ!」
「ありがとう。そうだといいんだけど」
ベティとお茶をしながら、焼けるのを待つ。良い香りがしてくる中、渡す時のことを考えると何故か緊張してしまう。
「エルナ様、可愛いです。恋する乙女って感じで」
「そ、そう?」
どうやら周りからも、そう見えるらしい。私は熱くなっていく頬を両手で押さえながら、渡した時のスレン様の反応を想像しては、落ち着かない気持ちになったのだった。
「あの、これ良かったら」
そして夕方、クッキーの入った包みを渡したところ、スレン様はきょとんとした表情を浮かべ、私と包みを見比べた。
妙に緊張してしまい、我ながら可愛くない渡し方になってしまったと内心頭を抱える。
「これは?」
「今日、クッキーを焼いたんです」
「……エルナちゃんが?」
「はい。スレン様に食べていただきたくて」
そう告げれば、彼の空色の瞳が揺れた。けれどすぐに抱き寄せられ、視界が彼でいっぱいになる。
「本当に嬉しい。ありがとう」
「はい」
「勿体なくて、食べられないかもしれない」
「ふふ、またいつでも作りますから大丈夫ですよ」
思わず笑ってしまえば、よりきつく抱きしめられた。
とても喜んでくれているのが伝わってきて、口元が緩む。今、彼に顔を見られていなくて良かったと思ってしまう。
「エルナちゃんが好きすぎて、死ぬかもしれない。幸せだ」
「私も、スレン様のことが好きです」
今日はそっと、彼の背中に腕を回してみる。どんどん「好き」という言葉が、意味のあるものになっていく気がした。
◇◇◇
「お、スレンじゃん。久しぶりだな」
「……カミルか」
仕事を終えて帰ろうとしたところ、廊下で友人であるカミルに声を掛けられた。喋り好きのカミルは笑みを浮かべたまま、こちらへとやって来る。
さっさと彼女の待つ屋敷へと帰りたいのだ、いつもの長話に付き合わず、適当に遇おうと決める。
「婚約したんだってな、おめでとさん。しかも相手があのエルナだとは驚いたよ」
「ああ」
「結局、惚れさせたんだな。さすがスレンだよ」
彼女が俺を好きなわけではないと教えてくれたのも、カミルだった。けれどどうやら婚約したことで、俺が彼女を落としたと思っているらしい。
それならどんなに良かったか、と思いつつ「またな」と背を向けた時だった。
「ていうかお前、浮気には気をつけろよ」
「……は?」
そんな言葉に、思わず足を止める。すぐに振り返り、どういうことだと詰め寄れば、カミルは立ち話も何だし、と言って窓越しに見える併設しているカフェを指差した。
閉店まではまだ、一時間ほどある。仕方なく一番端の席に向かい合って座ると、お互いに飲み物を注文した。
「で? 浮気ってどういうことかな」
「神殿に行った時にさ、エルナが男と抱き合って密会してたのを見ちゃったんだよ」
「は」
信じられない言葉に、心臓が嫌な音を立てていく。
「いつ」
「三日前だったかな」
そして、気付いてしまう。ちょうど彼女の様子がおかしくなった時期と重なるのだ。まさかそんなはずは、と思いながらも、嫌な予感が止まらなくなる。
「相手の男は?」
「キレーな顔をした騎士だったな。まあ、お前には負けるけど。しかもエルナに、一緒になって欲しいとか言ってたぞ」
大方、先日聞いた幼馴染とやらだろう。カミルは馬鹿でお喋りだが、嘘はつかない。だからこそ、目眩がした。
彼女にとってその男が特別な存在であることは、なんとなく見て取れた。だからこそ、彼女とその幼馴染を会わせたくなくて、なるべく屋敷にいるよう仕向けていたというのに。
まさか神殿で会うとは、予想外だった。
「おい、スレン?」
「教えてくれて助かったよ、またね」
「お、おう」
それだけ言うと金を置いて立ち上がり、カフェを出た。
──おかしいと思ったのだ。彼女が思い詰めた様子だったのも、突然自分から好きだと言ってくれたのも。突然差し入れをくれたのだって、俺への罪悪感からかもしれない。
何もかもおかしいことばかりだったというのに、浮かれてしまっていた自分に吐き気がした。
会話はほとんど聞こえなかったものの、断った様子はなかったという言葉が頭から離れない。彼女もその幼馴染の男と一緒になりたいと思っている可能性だってあるのだ。優しい彼女のことだ、俺に恩義を感じて裏切れずにいるのだろう。
彼女に触れ、抱きしめていたというその男に対しては、殺してしまいたいくらいに腹が立つ。婚約者がいる相手に手を出したのだ、このまま放っておく訳にはいかない。
「……本当、どうかしてるな」
馬鹿な俺は最近の彼女の様子を見て、淡い期待を抱いてしまっていたのだ。全て俺の独りよがりだと、彼女の「好き」に意味はないと分かっていたはずなのに。
傷付いてしまっている自分が愚かで、笑えてくる。
「スレン、帰るのか」
そうして外へ出たところ、ハンネスに出会した。このまま帰っても、どんな顔をして彼女に会えばいいか分からない。俺はそのままハンネスを無理やり馬車に押し込んだ。
「飲みに行くよ」
「は、おい」
「飲み屋街に向かってくれ」
「かしこまりました」
「おい」
そうして俺は彼女と一緒に暮らすようになって初めて、まっすぐ家に帰らず、飲みに出掛けたのだった。





