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四季  作者: 藤壺
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7.正満(2)

 あの日。俺が彼女に告白しようとした日。

 授業や大学の帰り道で偶然を装って彼女と二人きりになることはよくあったが、食事や遊びに行く時はいつも多賀も含めた三人だった。

 ある日の帰り道、たまには二人で会いたい、と誘った。思いの外彼女は嫌がる素振りも見せず、そうね、とだけ答えた。穏やかな微笑みが崩れることはなく、俺は何か不穏なものを感じた。

 嫌な予感は的中した。

 当日彼女は現れなかった。待ち合わせた大学近くの噴水の前で、雨の中待ち続けた。

 携帯も繋がらなかった。充電切れを信じる自分がいた。

 待ち始めてどれくらい経ったのかもわからなくなった頃、夜の闇の中、傘を放り出した。         

 彼女と二人で帰るときはいつも雨だった。雨に打たれたのは、彼女がよく言っていたことを思い出していたからかもしれない。

 「雨から濡れないようにするくらいなら、いっそのこと、傘もささないでずぶ濡れになってみたいの」

 その割に彼女は身体が弱かった。少しでも無理をすれば熱を出してしまう。そのせいか、夏でも透けるように白い肌をしており、「深窓の令嬢」そのものだった。

 ひ弱な肉体に抗うようにその精神は強く、身体が弱いことを言い訳にされることを酷く嫌っていた。雨の日の願望もその裏返しだったのかもしれない。雨となれば実践しようとする彼女を止めねばならず、骨が折れた。

 身体を雨に晒した後先を一番知っているはずなのに、彼女はいつも猛然と言い返してきた。

 そうした時の彼女の顔は、ますますうつくしかった。不謹慎にも俺は、その強い顔にも惚れたのだと思う。

 雨脚は強く、瞬く間に全身ずぶ濡れになった。なぜか寒さを感じなかった。

 心のどこかでは、魂胆を見抜かれていると悟っていた。彼女が来ないことこそが答えなのだとも。認めてしまえれば楽だった。けれどできなかった。

 日付が変わっても忠犬のようにその場を離れなかった。諦めがついたのは明け方で、その頃には雨も止んでいた。

 始発に初めて乗った。意外と混んでいた。

 傘を持ちながらずぶ濡れの俺を、他の乗客たちが怪訝そうな目で見ていた。


 「おまえ、なんで酒なんか飲みに来たんだよ」

 「どうしてだと思う?」

 顔を引き攣らせながらも、彼女は気丈に振る舞ってみせた。

 「お前を忘れたかったからだろう」

 パスタを運んできた汐見さんがそう答えた。

 「汐見さん」

 「事実なんだから仕方ないだろ」

 「嘘つかないでください」

 彼女の声は震えていた。

 「おまえは酔って忘れたのかもしれねえけどな、鉄の女みたいなおまえが、あんなに感情剥き出しにしてたの忘れられねえんだよ」

 汐見こそ珍しく感情的だった。紅潮した彼の頬から色が失われたのは間もなくのことだった。

 俯いた彼女の目が潤みだしていた。露のような涙が、ぽたぽたと落ちていく。

花びらのようなくちびるを、血でも滲みそうなほどに噛んでいる。

 初めて見た、涙を流す彼女の姿。眉根を寄せ懺悔するような表情。耐えきれず漏れ出した嗚咽。

 変わらず白い肌。

 それでも彼女はうつくしかった。

 ごゆっくりどうぞ、と汐見は何事もなかったように再び厨房に戻っていった。

 正直混乱している。彼女の動揺から、かつてこの店で酔い潰れ、俺のせいで泣いたことは事実なのだと分かる。だからこそ、だ。なぜ泣いたりする。泣いている姿を見せたがらない女だというのに。

 まさか本当に俺を愛していたというのか。一瞬でも信じたくなってしまった。それだけは、それだけは、あり得ない。

 カルボナーラを無理に飲み込む。

 彼女もタバスコを手に取り、これでもかとアラビアータに振りかける。涙もそのままに、時折むせながら、水で流し込むように食べていた。

 「葉山」

 食べ終えると、彼女は掠れ声で俺の名前を呼んだ。

 皿から顔を上げると、赤い目をした彼女が俺をじっと見ていた。俺が視線を合わせても、その瞳は揺らがなかった。

 「ごめんなさい」

 それだけ言うと、彼女は目を伏せた。

 「おまえが謝るようなことあったか」

 折れそうにほそく、白い首が小さく縦に動いた。

 「今泣いたことか」

 「違う」

 「あの日、来なかったことか」

 「それも謝ることだけど、それじゃない」

 「どうして来てくれなかった」

 思わず、責めるような口調になってしまう。

 彼女の顔が再び苦しげに歪む。流れそうになる涙をこらえていた。

 「行きたかったわ、とても。でも行けなかった」

 「どうしてなんだ」

 「それ以上は言えないわ」

 彼女は律儀にお金を置くと、俺と汐見に会釈した。

 せわしげなヒールの音だけが店内に響いた。

 ドアが閉められた途端、汐見が溜息を吐いた。

 「すみません、俺も帰ります」

 勘定する汐見の顔は無表情だったが、独り言のように言った。

 「あの話の全てを知っているのはもう一人の男だ」

 「erica」の脇で司に電話した。

 「令二?」

 「昼間にごめん」

 「ちょうど空き時間だからいいんだけどさ」

 司は大手商社に勤め、多忙を極めている。

 「ありがとう」

 「でさ、何?」

 「想子のことなんだけど」

 スマホ越しに、司が息を吐き出した。

 「最近会ったとか?」

 「さっき偶然会って、『erica』に行った」

 「ああそう」

 「あの店で想子が酔っぱらったときに迎えに行ったのお前なんだろ」

 「その話、想ちゃんがしたの」

 乾いた声だった。

 普段のへらへらした姿が浮かび、余計に怖くなった。

 「いや、汐見さんが」

 「だよね。想ちゃんがするはずない」

 彼女を知り尽くしたかのような言葉に苛立ちが募る。

 「あの日何があったんだ」

 「考えればわかるよ」

 多賀は吐き捨てた。

 急に冷えた風が吹いた。先ほどまでの青空は、低く垂れこめた雲に飲まれかけていた。      

 わかっていたなら、この5年間悩み続けることもなかった。

 「本当にわからない?」

 黙り込んだ俺を司は嗤う。

 「わからない」

 「お前の彼女、想ちゃんの親友だろ」

 「それで今でも付き合ってる」

 多賀の方から何かを蹴り上げるような音がした。

 「想ちゃんを忘れないようにって?」

 「想子に好かれてないことなんか昔からわかってたよ」 

 「想ちゃん、お前に最初からあんな態度とってないだろ」

 確かに出会って間もない頃の彼女は、いつも花のように微笑んでくれた。うつくしい顔に何の感情も浮かばなくなってから、何度も思い返した。

 「俺があいつのことを好きだと自覚したころには、もう冷たかった」

 「そこまでわかるなら、なんで冷たくなったのか、わかるだろ」

 「俺が告白しようとしたからか」

 「那智が想ちゃんにお前のことが好きだとかなんとか言ったんだろ」

 そのうつくしさから同性に嫌われ、高校時代も女友達の少なかった想子。大学でようやく親友と呼べる葵と出会ってから、彼女は本当に生き生きとしていた。

 「想子が身を引いたってことか」

 「なんで気づかないんだよ。想ちゃんがどれだけ辛かったのか考えてみろよ」

 「ごめん」

 あの日以来、想子はますます痩せた。窶れたその姿まで人の目を惹きつけて離さず、言い寄る男は後を絶たなかった。

 「お前を諦めてから、想ちゃんはもう恋愛したくないってずっと言ってた。それもやっと去年終わった」

 今の想子には相手がいるということか。自分にも葵がいながらも、どうしようもない嫉妬を覚えてしまう。引きずっているのは俺の方だ。

 「職場の上司と付き合ってるらしい」

 「そうか」

 「最初は断るつもりだったらしいけど。忘れられないひとがいてもいいって言葉に甘えたってさ」

 「想子が幸せならよかった」

 多賀が小さく笑うのが聞こえた。

 「話し終わったなら切るけど」

 「もうひとつだけ」

 「なに?」

 「お前が好きだったのって想子なのか」

 「知りたい?」

 「考えてみたことなかったから」

 「ほんとうに令二は想ちゃんのことしか見えてないんだね」

 笑みを含んだ言葉に打ちのめされる。

 「ごめん」

 「いいよいいよ。でも、たしかに想ちゃんのことは好きだったよ」

 穏やかに明るい調子で、さらりと彼女への愛を認めた。想ちゃんと口にした声の甘さは、今までの付き合いでも聞いたことのないほどのものだった。

 「そうか」

 今更ながら、当然のことだと思う。あれほどに外面だけでなく中身もうつくしい女なのだから。

 静かに振り出した雨の音を心地よく聴きながら、多賀の返事を待たずに通話を終える。

 


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