6.小満(1)
梅雨の晴れ間に目を細める。
都心のオフィス街の一角で、表情に自信を滲ませた会社員が颯爽と行き交っている。彼らからすれば、訳もなく突っ立っている人間など邪魔でしかない。苦笑しつつ歩き出すと、先程の自分のように空を見上げるひとりの女がいた。
風に煽られた長い髪が、彼女の顔を隠している。ほっそりした体型で、膝が隠れるくらいのふんわりしたスカートがよく似合っている。
白い手で髪をかきあげ、どこかさびしそうに笑いながら、まだ空を見ている。石膏のように白い肌と、射抜くような瞳。
畏れを感じながらも、焦れずにはいられなかった大学の同期、江島想子その人だった。
「想子?」
「葉山。この前は取材ありがとう」
編集者になったとは司から聞いていたが、まさかあの男の担当になるとは。従兄弟にすら嫉妬を覚える自分に苦笑する。
「こちらこそ」
大学時代のある時から、会話をしているときでさえ彼女は俺の目を見てくれなくなった。今も、俺の肩越しの街並みに視線を合わせている。長い睫毛に縁取られた瞳も、氷のような冷ややかさを湛える。
相変わらずの、高慢にすら思えるほどの態度と、隙を見せないうつくしさに、再び絡め取られる。自分のものにできない、彼女という底無し沼にずぶずぶと沈んでいく自分を想像すると、不思議と気持ちいい。破滅願望でもあるのだろうか。
「葵とは続いてるの」
ふっくらとしながらも、下品な感じはしないくちびるを微かに動かして、呟くように問うてくる。シニカルな笑みは、うすいピンクの口紅で薄まって見える。澄まして微笑めば、憎らしいほどに楚々として見えるのだろう。
「一応」
「心配して損したわ。この前も葵から相談されたし」
「何を」
「なんだと思う?」
口元に手を当て、本当に楽しそうに笑う。
昔のように聞いていない振りをすると、遠くを見ていた想子の目が俺を捉えた。ひどく暗い目をした彼女にドキリとする。
「愛してもらえない」
「え?」
「あなたの愛をもっと感じたいんだって。相談っていうか、のろけよね」
くすくす笑う想子の目は、いつもの色に戻っていた。
「あなたの誕生日プレゼント選びに付き合った時にね、そんな話になったんだけれど」
「善処します」
茶化すつもりが滑った気がする。想子相手に、気付いていない振りをしているとはとても言えなかった。
「仕事の処理みたいな言い方しないでくれる?そういうところ、ほんとに変わってないわね」
「いや、お前も中々だよ。この前も思ったけど、相変わらず口が悪いっていうか、酷くなってないか」
想子が文字通りふふ、とわらう。それもまた、昔と変わらず、いや昔以上に妙になまめかしい。
「思ったんだけど、葵に付き合ったくせになんでプレゼントくれなかったわけ。葵に預けるとかあったじゃん」
無理やり話題を戻す。
「え?」
予想外の反応だった。不機嫌になるのは目に見えていた。
「ああ、なるほど」
「何が」
「いや、それはこちらの話なんだけれど。そんなに言うなら買うわよ」
「おお、それはうれしいね。で、何くれるの」
「そうね、シャツとか」
「へえ、なんで」
「あなたはシャツにパンツみたいなシンプルな格好が似合うから」
恥じらうどころか、彼女はなんでもないことのように言った。
「まあね」
「何自画自賛してるの。気持ち悪いじゃない」
いつものように毒を吐かれても、褒められた言葉だけが、砂に染み込む水のようにじわじわと心を満たす。
俺に興味のないように見える彼女が、時折こんなことを言うから、面白いくらいに揺さぶられてしまう。
「ねえ、黙ってるけどどうかしたの」
彼女の細く高い声が聞こえて、自分が黙り込んでいることにやっと気づいた。
「何でもない」
「そう」
何気なく見た時計は二時を指していて、昼食の時間には遅い。食べ損ねていた俺は、駄目元で彼女に聞いてみる。
「昼食べたの」
「まだ」
「今から行かない」
「行くわ。どこにする」
彼女はあっさりと頷いた。
「ここから近いし、大学の頃よく行ってた『erica』とか」
「良いわね。卒業してから行けてないのよ」
「erica」は、大学の隣駅にあったこじんまりとしたイタリアンの店だ。きれいな顔の、だが口の悪い、汐見という若い男がひとりで営んでいた。俺と想子、それと司の三人でよく食事に行っていた頃、ほぼ毎日のように通っていた。
昔の記憶を辿って細い路地をぬけると、変わらずそこに「erica」はあった。
アンティークという、程よく手に馴染むノブを回し店内に入ると、例の店主の男が「おや?」というように首を傾げた。覚えていてくれたのかもしれない。
空いている席に勝手に座るというこの店らしい「規則」に則り、大きな出窓の脇のテーブル席に腰を下ろす。
大学時代と代わり映えのしないメニューを捲っていると、汐見がやってきた。
「注文は」
「アラビアータ」
アラビアータは、彼女が飽きもせずほぼ毎回のように頼んでいたメニューだ。ただでさえ辛い というのに、おぞましいほどにタバスコをかけたものを彼女は好んでいた。
「カルボナーラで」
結局俺も当時と代わり映えのない注文だ。
「了解。何年か前、よく見かけた気がする」
「ここの雰囲気も味も好きで毎日のようにお邪魔していました」
外向きの邪気のない笑みを浮かべた彼女が言う。
「そりゃどうも。今日は酒飲まなくていい?」
「俺はこの後仕事に戻りますし、想子もそうだよな」
「残念ですけどそうなんです。今度来るときは飲みたいな」
店主は気のない顔をして頷くと、想子に目をやりながら予期せぬことを言った。
「うちにひとりで来て酔っ払ったことあったろ。それで懲りたのかと思った」
想子は酒が強く、酔ったところを俺は見たことがない。
「あの時はすみません」
俺の視線を避け、彼女は気まずそうにしていた。
「おまえらと一緒に来てた男を迎えに呼べって言ってたよな。俺はおまえらがそうなのかと思ってたけど」
そう言い残して彼は厨房に戻って行った。
彼女は青い顔をして、テーブルの木目を見つめていた。
「想子」
彼女は顔を上げなかった。構わず俺は続けた。
「酔っ払ったの、あの日だろ」
彼女の絶望の色が深くなったのを、俺は肯定と受け取った。