3.穀雨
各務の自宅前に着いた。向かいに小さな神社があり、生い繁る木々が日陰をつくっている。住所から都心の高層マンションと見当をつけていたが、人通りの少ない静かな通りに面しており、喧騒とは無縁だ。
新しく担当する作家と初めて会う日は、いつも緊張する。値踏みされているような気がしてならない。私の、編集者としての力量。私という人間の価値。今更だ。いつでも人はそうやって、人を選び、人を捨てる。
今日に限っていえば、緊張の理由はもう一つある。各務だ。違う、彼は全く悪くない。先週、直接挨拶に行く日を決めるために電話した時も、彼はとても丁寧に応対してくれた。
正確に言えば、各務の声が私に緊張と恐怖をもたらした。少し甘さのある低い声が、私に思い出させたもの。どうして今なのだろう。数年間忘れていた男、それも友人だった男。
エントランスの文字盤に、各務の部屋番号を打ち込む。
「はい」
「翠雲社の江島想子です」
「お待ちしていました。そのまま上がって来てください」
エレベーターを降り、各務の部屋へ向かう。ちょうど部屋の前に着いた時、玄関から顔を出したのは、思いがけない男だった。
どうしてあなたがいるの。
「各務です。翠雲社の江島さんですよね。」
この男が各務?本当に?顔まで似ているなんて。
「藤尾に代わって担当させていただく、江島想子と申します」
なんとか挨拶を返す。もうこれ以上、各務の顔を、あなたの顔を見るのは辛い。くるしい。かなしい。それなのに、目を反らせないのはどうしてだろう。
「中にどうぞ」
「失礼いたします」
靴箱の上には黄色い花瓶。溢れんばかりの白い薔薇に魅入られる。嵯峨と同棲してからは、部屋に花を飾らなくなった。
「お気に召したようで何よりです」
「お花を見ていると、気分が華やぎます」
「私もですよ。ご存知でしょうが、親臣は花が嫌いでね」
「聞いたことはあります。どうしてなんでしょうね。こんなに綺麗なのに」
「過去を引きずっているんでしょう」
「過去」
考えてもみなかった。嵯峨がかつて愛した女性。寡黙で淡々と仕事をこなす男だと思っていた。私は彼の何を見ていたのだろう。
「そうです。あなたみたいに」
各務は蔑むような笑みを浮かべていた。その表情すら、そそっかしい私を嘲るあの男そっくりで、苛立ってしまう。
「私の過去なんてご存知ないでしょう?それに私は過去に縋ったりなんかしません」
過去は無かったことにする。そう決めた。泣いてもわめいても、あの男と過ごした日々は帰って来ない。
「まあまあ、落ち着いて。綺麗なお顔が台無しですよ。その様子だと、私の見立ては当たったみたいですね」
「見立て、ですって?」
「気になりますか」
「なりますよ。各務先生がどんなご想像を膨らませたのか」
苦笑しながら彼は言う。
「先生、と呼んでいただけたのに、心底喜べないのはなぜでしょうね。まあ、良いでしょう。お望み通り、想像、とやらをお聞かせしますよ」
リビングに通された。部屋の中央には白いテーブル。そこにも花が飾られている。ピンクと真紅の薔薇。細身の黒い花瓶。
「コーヒーでも淹れますから、こちらに掛けて待っていてください」
「気になさらないでください。先程のことを教えていただければそれでいいんです」
「そう言わずに。私が淹れたコーヒーはおいしいと評判ですよ」
一人掛けのソファに座り慣れないせいか落ち着かない。その狭さ。見えない何かに縛られているような気がする。
ダイニングに目をやると、各務のすらりとした後ろ姿が見えた。あんなに失礼なことばかり言う男なのに、その背中は品良く礼儀正しい。
彼がシンクにポットを置いた時、ことん、と妙に大きな音がした。なぜか鳥肌が立ち腕をさする。
「お待たせしました」
顔を上げると、両手にカップを持った各務と目が合う。無表情だ。そんな目で見ないで。葉山と同じ目で。
突如、各務は目元を和ませる。やさしい笑顔。
別人なのだと、必死に言い聞かせる。私にコーヒーを淹れるような男は葉山ではない。私に笑いかけるような男は葉山ではない。
「ありがとうございます」
「江島さん」
耳元で名を呼ばれ、堪えきれなくなる。立ち上がり、各務から離れようとする。
「どうかされましたか」
尚も近づいてくる各務。
「少し距離が近かったので」
我ながら言い訳になっていない。
「そうですか?」
各務はじりじりと近づいて来る。後頭部にひんやりとした感触のものが触れる。窓ガラスだ。もう逃げられない。
俯く私の顔に各務が触れる。顎を持ち上げ、無理にでも視線を合わせようとする。
「やめてください」
顎から各務の手が離れる。その隙に逃げようとした。
「逃しませんよ」
両腕をひとまとめに掴まれ、窓ガラスに縫い止められる。
「どうして、こんなこと」
「どうしてって、そうしろと仰ったのはあなたでしょう」
「言ってません」
「教えろと仰ったでしょう。私の想像を」
掴まれた腕が痛い。
「それと今の状況は関係ないわ」
「残念ながら関係あるんですよ」