2.清明
想子はほうれん草のお浸しを切り、食器棚から迷いなく器を取り出す。彼女がこの家に住んで半年になる。白と緑の千鳥格子柄のエプロンは、やや派手なきらいはあるが、彼女によく似合っている。
同棲する前から、どちらかの家で過ごす時はいつも、こうして料理を振る舞ってくれた。案外家庭的な女だな、と思ったのを覚えている。本人が聞いたら、気を悪くするだろうが。
部下としての彼女は、申し分ないほど仕事ができる。彼女に担当してもらいたがる作家も多い。その人気には、彼女の容姿も関係しているのだが、本人はまるで気づいていない。
その上、校了明けすら、靴の先まで隙なく身なりを整え、品の良い笑みを絶やさない。硬質な美貌も相まって、家にいる時の彼女を全く想像できなかった。
優秀な人間は何でもできる、という訳だ。
土鍋の載ったお盆を運びながら、想子が首をかしげた。口に出していたらしい。聞かれても困りはしないが。
「君は何をやらせても優秀だ、と思ってね」
土鍋の湯気の奥で、彼女が困ったように微笑む。ぴかぴかに光る米粒。
「褒められている気がしないわ」
「悪かった。ただ、不思議でね。君みたいに綺麗な女なら、周りの人間が何でもしてくれるだろう?」
箸置きを選びながら、想子の顔を盗み見る。一瞬冷めた目をした後で、彼女は満月の箸置きに口元をほころばせた。今日の月は歪にまるい。あと二、三日で満月を迎えるだろう。
「好きね、その話。嵯峨さんは褒めてくれるけど、自分のことを綺麗だなんて思ったことないもの。それに、好きな相手に好かれなければ意味がないでしょう?」
「君を振る男を見てみたいな」
「お見せできないけど、いくらでもいるわ」
おどけてみせる彼女の目は、どこか遠くを見ている。俺の一度目の告白をかわした時と同じ目。
「良いですよ」
食事の誘いに、まだ終わってないので、少しお待たせしても良ければ、と微笑む彼女。断られると思っていたので、拍子抜けした。
フロアには、俺と彼女の二人だけ。数週間待ち望んだ、このタイミング。
仕事をする彼女の目は、人を射抜くように鋭く、美しいがゆえに怖さが際立つ。あの女が花と向き合う時の目を思わせる。ぞくぞくと甘く背筋が震える目。
「お待たせしました」
「行くか。何か食べたいものは」
「魚料理が食べたいです」
何でもいい、と言わないところが彼女らしい。
「いいね。俺も魚好きなんだよ」
「それなら、嵯峨さんのおすすめのお店に連れて行ってください」
「わかった」
「二見」に行くことにした。社から電車で二駅。カウンター席のみの割烹料理屋だ。仕入れでメニューが変わるので、毎回何が出て来るかは行ってのお楽しみ。穴場で混んでいないところも気に入っている。
「どうして誘ってくださったんですか」
電車に乗り込んですぐ、彼女が切り出してきた。
「すまない。嫌だったか」
「いえ、そうではなくて。むしろ嬉しかったです」
俯きながら照れた笑みを浮かべる彼女は初々しく、彼女に好意を寄せた作家を容赦無く振り捨てる、という噂とどうしても結びつかない。
「こちらこそ光栄だね。素敵な美人に喜んでもらえて」
歯の浮くようなセリフを言ってみせても、おっとりと微笑むだけ。
「そのままお返しします。嵯峨さん、女性にもてるでしょう?」
「そんなことないよ。さっき君を誘った時も、相当緊張した」
「またまた」
「本当だよ。俺は君が好きだし」
口を滑らせたが、どうにでもなれと思う。事実に変わりはない。
「同期に聞かれたら怒られちゃいそう。皆、嵯峨先輩のこと大好きだもの」
男のあしらい方をわかっている。笑みを絶やさず、傷つけるようなことは言わない。
「そういう意味じゃなくて」
「先輩、煙草吸われるんですね」
彼女は胸ポケットから覗く箱を見やる。
「ああ」
箱を取り出して見せると、彼女は目を見開いた。
「同じだわ」
「君も吸うの?」
声に落胆を滲ませてしまう。自分も吸うので、勝手に思われるだろうが、女性には吸ってほしくなかった。
「いえ」
「なら誰と同じなんだ?」
「大学の同期です。その人、ヘビースモーカーで。印象に残ってるんです」
「新しく担当してもらう作家のことだが」
「各務先生よね」
各務白陵。「恋愛小説の貴公子」として売り出された。
「会ったことは」
「無いと思うわ」
「彼について聞いたことは」
「とてもハンサムな方なんでしょう?担当していた子が言ってたわ」
デビューから数年、薫は覆面作家を貫いている。業界でも、顔を知る者は少ない。
「まあ、顔だけはね」
「会ったこと、あるの?」
「言ってなかったか?会ったことも何も、幼稚園からの付き合いだ」
未だに気を抜くと、打ち合わせ中でさえ、薫、と本名で呼んでしまう。
「今日はじめて聞いたわ」
「そうだったか」
「多分。ねえ、あの噂って本当なの?」
「どの噂だ」
大概見当はつく。
「担当が女性だと、自分を好きにさせて捨てちゃうんでしょ」
「質が悪いことに無自覚なんだよ」
「やっぱり綺麗な顔をされてるからかしら。あれだけ素敵な小説も書かれるし」
会ったことも無い男を、それも自身の親友を褒める彼女を面白くなく思ったのは事実だ。だがそれほど気にならない。
薫は必ず、この女の正体に気付く。そして気付いたら最後、この女を殺すことも厭わない。
「君はまず、自分の心配をしなさい」
「私は大丈夫よ」
想子は、悠然とした笑みを浮かべる。やはり、彼女は何も知らない。俺がどうして彼女に近づいたか。どうして薫と会わせたいのか。