1.春分
私に、二度と春は訪れない。
やわらかなもの、あたたかなもの、おだやかなもの、こわれやすいもの。あの男との、永遠の別れとともに捨て去った、なつかしい記憶。
「どっちがいいかな」
葵が、色違いの革製の財布を指差した。定番の黒、遊び心のあるキャメル。
今日は、彼女の恋人の誕生日プレゼント選びに付き合っている。
平日の昼下がり。新宿の百貨店。
「キャメルかな」
「じゃあ、これとだったら?」
お抹茶のような、さみどりのキーケース。
小一時間、財布やキーケースの色や大きさを決められずにいた。何をあげるか決めるのも、一苦労だったけれど。
「迷うわね。葵は?」
「いっそ、両方買っちゃうとか?でも」
「でも?」
「令二君、気に入るかなあ」
不安げな葵は、女の私でさえ、守りたくなるほどかわいらしい。
「もちろんよ」
私は、微笑んでみせた。心配はいらない。相手が女なら、何をされてもあの男は受け入れる。
時々彼女は、私を「お姉ちゃん」と呼ぶ。冗談混じりの愛情表現。現実には、彼女とは、血縁関係も無いし、同い年だ。
彼女の幼さ、か弱さが、演じられたものだと、ずっと昔、出会った頃から知っていた。彼女のお遊戯に、進んで付き合って来たのは、惚れた弱み、なのかもしれない。
私は、一人っ子だった。一人っ子として育てられたと言った方が正しい。だから、求められても「姉妹」というものはわからない。わからないからこそ、求めてしまう。ある意味、葵との擬似的な姉妹関係は、私の望みを叶えてくれた。義姉とどう向き合えば良いのか、考える機会。
「ありがとう。ねえ、想子だったら、何を買う?」
「葉山に?」
わざわざ聞き返したことで、動揺を悟られた気がする。
「うん」
「わからないわ。卒業してから会っていないし」
「じゃあ、今年は想子もあげようよ。令二君喜ぶよ」
いつもそうだ。無邪気さを装って、葵は私を試そうとする。
「わかったわ。後で、地下に付き合ってくれる?」
余程のことが無い限り、贈り物はお菓子か花と決めている。
地下は、混んでいた。
「すぐに済むわ」
当たりをつけていた店へ、一直線に向かう。フランスに本店のある、ショコラテリーヌの店。カフェも展開しており、大学時代には、多賀と三人でよく通ったものだった。
「想子」
新作に目を留めたところで、葵が躊躇いがちに声を掛けてきた。ピスタチオをふんだんに使った、ホワイトチョコとマスカルポーネチーズのテリーヌ。
「なあに?」
「令二君、チョコレート、苦手なの」
「そうなの、知らなかったわ。それなら、違うお店にしましょう」
時が経てば、人の好みも変わる。あのカフェを最初に見つけたのは、葉山だった。
斜め向かいの店は、新顔だ。イタリア洋菓子店のようだ。
ホールのティラミス。スプーンですくって、みんなでシェアするような。大学近くの、「erica」名物のティラミスに似ている。あの、無愛想な店主は元気だろうか。
「ティラミスも多分」
私の視線に気づいて、葵が言う。
「困ったわ。何がいいかしら」
「あっちの、バームクーヘン屋さんは?」
葵に腕を引っ張られながら、葉山の渋面を思い出す。「口の中が乾く食べ物は、好きではない」
ガラス板の向こうで、裁断前のバームクーヘンクーヘンが、くるくる回っている。何だか、かなしくなってきた。
葉山と、多賀と、私。あの頃の葉山は、もういなかった。掘り起こした記憶の中では、瑞々しい美しさを保って、よみがえったというのに。
「おいしそうね」
「でしょう?令二君が、よくお土産に買って来てくれるんだ」
「今のは惚気?」
茶々を入れると、葵は陰りの漂う笑みを浮かべた。珍しい表情。
「惚気といえば、惚気なんだけど。喧嘩した後に買って来てくれるんだよね」
「相変わらずやさしいじゃない」
無意識に、棘のある言い方をしてしまった。
「うん。いつまで待っても、ずっとやさしかった」
「いつまで待っても?」
店員から、包みを受け取りながら聞き返す。
「令二君が、私を好きになってくれるのを待ってた」
好きな相手に、やさしくする。何の問題がある。
「何言ってるの。好きじゃない相手と、六年も付き合わないわ」
「想子のためだよ」
「意味がわからない」
地上へのエスカレーターに乗る。先に乗った葵が振り向く。逆光で、彼女の表情は読み取れない。
「本当に?」
「ええ」
あの男が葵と付き合うのは、二人のためであって、私のためではない。強いて言えば、葵を不幸せにしないでくれれば良い。
「また、気づかない振りするんだね」
寂しげに笑う葵は、痛々しいほどだった。
「何を」
「六年前の梅雨の頃、覚えてる?」
忘れかけていた、胸の痛み。冷え切った、葉山の目が鮮明に浮かぶ。
入り口のガラス戸に反射する、やわらかな春の光を直視できなかった。
「覚えているわ」
「令二君に何したの」
「何も」
本当に、何もしていない。私と葉山の間には、何も無い。私は、あの約束から逃げ出した。葉山の、最後通牒から。