第五話 夜中の助け舟
外から見て、マクスヴェルの屋敷は平常運転といえた。
掃除や洗濯に動き回るメイド、厨房で飯の用意をするシェフ、庭の景観を守る庭師。中央都市から大きく離れた森の深くに佇む屋敷の中で、みんな日常に追われて生きている。
ただそこから俺は爪弾きにされていた。今はマクスヴェルの家中が俺に牙を向けている。
朝、メイドはしわのない服を用意しなくなった。広間に俺の食事が用意されることはなくなったし、そもそも家中の人間が俺を避けるように動いていた。偶然にも顔を合わせれば、彼らは俺の嫌いな哀れんだ目を向けてくる。
ことさら上の兄、ワイズには蛇蝎の如く嫌われた。帰ってきた日の会話で見せた優しい兄の姿が嘘のように、行く先々でビーンズがばらまいては気付かず通行する俺を、まるでお手玉のように空に打ち上げる。直接姿を表さず、床でもんどりうつ弟の姿に冷酷な笑い声だけ寄越してくるのが憎たらしい。
俺は日の出ている時間に、屋敷の中を歩くことができなくなった。
そして問題が起こる。
食べものがないのだ。最後の食事からは二日が経とうとしている。空腹は限界に近い。
俺は今夜、厨房で何かしら食べものをつまむつもりだった。そのため夜の廊下を歩いていたのだが、途中急激な体調の悪化があり引き返してしまった。
「まいった……夜は守護霊が屋敷を警備してるんだった。あぁ、近づかれたせいでまだ寒気が収まらない……」
屋敷にいるのは人間だけじゃない。夜の闇の中、この屋敷を守っているのは守護霊たちだ。
守護霊は人が死んで魂だけになった状態の、思考もできない彷徨うだけのゴーストから作られる。
魔法使いがゴーストへ存在を安定させる器を与えると、彼らは生きていた時のように思考したり、会話することができるようになる。しかしゴーストは器を壊されると元に戻ってしまうので、近くに侵入者や怪しい者がいると攻撃して自分の器を守るように動く。そうして結果的に家を守るため守護霊と呼ばれているのだ。
ちなみに生きている者が触ると生命力を吸われているような寒気を覚える。
「けどまだ夜の方が安全だ。この時間はどこも戸締りされてるけど、俺の魔法は鍵開けくらいならこなせるみたいだしな……何より昼に歩けばワイズのオモチャだ」
俺は自分の魔法を理解し始めていた。
凸凹変形。
たいして珍しくもない、物の形を変える魔法だ。
触れた物を盛り上げたり、へこませたりすることができる。
弱点は三点。
変形するものに直接触れる必要があること。変形した箇所はかなり脆いこと。そして変形はさほど早くできないことだ。
「凸凹変形」
ポケットから取り出した土を変形させ鍵口に押し込む。引き抜くと穴の形にあった即席の鍵が出来上がっていた。
通常、魔法使いが魔法を使う時には、杖を持つことが前提とされる。それは魔法を使うことが高い集中力、繊細なコントロールを求められることであり、杖の補助がなくては難しいためだ。
だが初めて使った時から杖を持っていなかったせいか、俺は少し練習すれば杖なしで魔法を使うことができていた。
「……ん、ラルクか?」
自分の部屋に帰ると、誰かに名前を呼ばれた。
まったくの不意打ちだったせいで、声から誰のものだったかは推し量れない。
俺は暗闇に目をこらす。ちょうど月明かりが差し込み、くたびれたローブの裾を映し出す。何もかもが手入れされた屋敷の中で、異物のように汚いその格好を見て、俺は思い当たった。
「メイジス兄さま?」
部屋に中にいたのはメイジス・マクスヴェル。
俺の兄であり、そして俺とは違って魔法の才能を持つ純血の魔法使いだった。
月明かりがかすかに差し込む俺の部屋で、メイジスは木造りの椅子にもたれかかっていた。
部屋には鍵をかけていたはずだったが、魔法使いなら解錠くらいするだろう。だから侵入されたことには驚かないが、メイジスが訪ねてくることはかなり珍しいことに違いなかったのでとても驚いた。
メイジスは生活すべてを部屋の中ですませてしまう人だ。
フラフラと気分転換に森を歩く時しか姿を見ることがないので、こうして部屋まで訪ねてくることに俺は警戒や疑いより、何かとんでもないことがあったのではという心配をしていた。
「どうして俺の部屋に?」
「……そうだな。今日邪魔したのは、ラルクに助け舟が必要だと判断したからだ」
「助け舟……」
口の中で言葉を噛み砕く。
その間メイジスを見て何を考えているのか窺おうとするが、理知的に輝く青の瞳は、逆にのぞき込んだ俺の心を見通しているように感じた。
俺は目を見るのが辛くなった。
メイジスやワイズは、父と同じ青い瞳だ。しかし俺だけは混じり気のない鳶色の目で、昔から三人の目を見ることが、疎外感を感じるトリガーになっていたのだ。
「……それって、つまりメイジス兄さまは知ってるってこと? 俺が今どう扱われているか」
俺がマクスヴェルの爪弾きになってから二日も経っていない。書庫にこもりがちなメイジスはまだ知らないと勝手に思っていた。
「僕はペットのネズミたちに家の中を見張らせている。何かいつもと違うことがあれば報告するように躾けてな」
「え……たまに見かけたネズミのこと? みんな野生だと思ってるよ」
マクスヴェルの屋敷にはネズミが住みついている。
厨房の食材には不思議と被害が出ないので、男家族のマクスヴェルでは害がないネズミを気にする者はいなかった。メイドは目の仇にしているようだが、出たら悲鳴をあげて逃げてしまうので、これまでネズミが駆除される事態には至っていない。
俺はずいぶん昔からいるものだから、きっと誰かがエサを与えているのではと予想していた。まさかメイジスに飼われていたとは。
「お前もネズミの前で隠しごとしないだろう? できるだけ正確に屋敷のことを報告させたかったから、内緒にしていた。まあ始めた頃はすぐ明かすつもりだったんだが、家にネズミがいることをお父様が気にしないから、数も増やして本格的に育ててしまったよ」
「そう……、でも危ないからメイドたちには言った方がいいと思うけどな……」
ずいぶん前だが、ネズミ捕りの作り方をメイドが庭師に聞く姿を見かけた。
捕まえても結局さわる必要があると教えられると諦めていたが、このままだと次の使用人の求人要項に、ネズミ処理可と載せることを要求しかねない。
「そうだな。確かに家の人間は監視して長いし、そろそろ打ち明けても問題ないか」
俺はメイジスの変人っぷりに苦笑した。どう考えても、自分の家でネズミを使った諜報活動をする必要は見当たらない。
ワイズが言っていたが、確かにメイジスと話すと驚かされるというのは正しいことのようだった。
「そのネズミたちのことだ。最近ラルクについておかしなことがあると報告してきてな。御側付きのメイドを問いただした。だからお前が今、どういう目にあっているかも分かっている」
「……それで助け舟?」
「その通り。ここに三通の手紙がある。お前が外の世界で生きるため必要なものだ」
俺は驚いた。
「なんだって? 外の世界?」
「そう、ラルクも外に出ることは考えたはずだ。今この屋敷は、お前が生きるのに最悪の環境。食事の保証さえありはしない」
「まあそうだけど……」
外に出る。
自分も一度は父の部屋を飛び出した時、衝動的に森の外へ向かおうとした。しかし冷静になって思い返すととても恐ろしいことのように思える。
自分が生まれ育った屋敷ではないどこかで暮らす。それはどこか非現実的で遠く、自分の一部を失ってしまうような気さえした。
一方で、メイジスの言うことは正しいと理解できた。
このまま家にいても、この夜のように、空腹に耐え忍ぶ毎日が待っているのは確実だ。最悪死んでしまうかもしれない。
「だから外だ。右からそれぞれ隠居した魔法使い、迷宮都市の理事、魔法学校の校長へ手紙をしたためた。みんな僕の知人の魔法使いたちだ。手紙を見せれば、お前を預かってくれるだろう」
静寂な夜、メイジスの声は森のフクロウの鳴き声と重なって、暗い部屋に染み渡っていく。
助け舟として出されたその手紙は魅力的だ。
特に魔法学校というのは、俺が今まで想像してこなかった新しい未来を描いてくれる響きがあった。
しかし俺の心は、手紙に指をかけることを躊躇っていた。