第三話 心境の変化
昨日からずっと、取り除き方の分からない不安を感じている。
「ラルクお坊ちゃま、こちらお召し物でございます」
朝、メイドはいつものように着替えを用意してきた。渡された衣服はピンと伸ばされている。丁寧な仕事だ。
これを着替え終わった後には、きっと彼女は俺を朝食のテーブルに案内しながら、今日入っている予定の確認までしてくれるだろう。
奉仕してくれる。いつものように。
だが、もうそれではダメな気がする。
魔法使いとしての価値を認められない自分は、何か他のことをしなければならない。魔法の才能がないことを、行動で埋め合わせなければならないのだ。
才能がなかろうと、俺がここにいていい存在だと認めてもらわなければと思ったのだ。
「なあ、なんでもいいんだけど俺にやれる仕事とかないか?」
それは、何かをしなければという焦りから生まれる短慮な発言だった。
「ラルクお坊ちゃまが手を煩わせることはございません。いつものように優雅にお過ごしくださいませ」
「そ、そうか……」
にべもなくはね返されたというのに、その通りだと納得するしかなかった。
マクスヴェルの子供がメイドのマネごとを覚えたからなんだというのだ? 息子にまで家事をさせなければ家が回らないほど落ちぶれたと、父を笑われ者にするつもりか。
違う。この不安を取り除くのに必要な行動とは、そういうことじゃないはずだ。
新品のようにほつれのない上着に袖を通したところで、タイミングよくドアがノックされた。
「おはようございます。執事のエバートンです」
「ああ、おはよう。どうかしたか?」
「ラルクお坊ちゃまへ、朝食をすませた後に部屋まで来るようにと旦那様から仰せつかっております」
「お父さまが……分かった」
昨日のことを思い出す。
息子の魔法使いの才能をお披露目しようと、父はたくさんの知人を招待した。しかし肝心の俺に才能はなく、そのせいで赤っ恥をかいた。ひどい笑われ者だ。
俺には合わせる顔がない。とても行きたくない。
視線を落としかけたが、ドアの向かいから続いた声で引き戻された。
「それからワイズ様が、ラルクお坊ちゃまのことをお呼びになっております」
「なに、ワイズ兄さま? 家に戻っているのか?」
「少し前にご帰宅なされました。今はご自分の部屋で休んでおられます」
「分かった、すぐ向かう」
ワイズ・マクスヴェル。一番上の兄。
優秀な魔法使いだけが受験できる魔法管理局の試験を余裕で突破した優秀な兄。最近は家にいることが少なく、久しぶりに会えるのはとても嬉しい。
ワイズは俺の自慢の兄だった。
「ワイズ兄さま、おはようございます。ラルクです」
扉をノックする手は軽やかに、背筋を伸ばす。
返答は短く「入れ」とだけ返ってくる。俺は扉を開けた。
箒や絨毯、謎の薬品がある一角以外は片付けられた部屋の中では、寛容そうな印象を受ける丸顔の男——ワイズ・マクスヴェルがくつろいでいた。
着ている黒コートは魔法管理局の制服のようなものでカッコいいデザインだが、兄の性格を知る自分からすれば吹き出しかけるほど似合っていない。
「久しぶりだな、ラルク。変わりはなかったか?」
自分の記憶にあるより丸くなった体型から出る声は、聞き慣れた声より少し低い。
「はい、俺は元気ですよ。ワイズ兄さまは魔法管理局でどうですか? またよそさまのご令嬢に手を出して、吊し上げにあったりしていませんか?」
「ぐふふ。エリートぞろいの魔法管理局といっても、俺を吊し上げられる魔法使いはそういないさ」
昔、とある箱入り娘の魔女の自室に侵入したワイズは、半日もお父さまの手で庭に吊るされたことがあった。
その時のことをからかったのだが、あまり反省していない様子で悪い笑みを浮かべる。
俺はワイズの気さくなところが話しやすく、大好きだった。
「あまり虐めると同僚から嫌われますよ。ところで、今朝いきなり戻ったと聞きましたが、どうかしたんですか?」
「ん……ああ。少し局内で人事異動があってな。最近はその対応に追われていたんだが、ようやく落ち着いてな。暇をもらって一週間は家で休むつもりさ」
一週間。
あまり長くはないが、この頼りになる兄がいることで肩の荷が下りた気分になれた。
「嬉しいです。家にワイズ兄さまがいると。メイジス兄さまのことは少し、得意ではないので……」
「なんだ、確かに書庫に閉じこもって暗い奴だが、悪い兄じゃないのは知ってるだろう?」
メイジス・マクスヴェル。二番目の兄。
魔法使いとしての才能は一流。しかし魔法を使うことは滅多になく、日がな書庫に閉じこもって読書に没頭している。
俺は同じ家に住んでいる兄弟なのに、あまり話をしないメイジスのことを苦手に感じていた。
「そうですけど、いつもあの人はお父さまより年上の大人とばかり話していますし、俺と話しても時間の無駄じゃないかと思って……」
「それはないだろ。メイジスは俺と違って平等主義者だからな。誰と話す時間でも大切にする。よく見る爺さん方なんてのは、ボケて孫かなんかに勘違いされてるから仕方なく付き合ってやってるだけだ」
そうだろうか。
メイジスの部屋に入っていく魔法使いたちの理知的な目を見ると、とてもボケているようには見えないし、俺にはその人たちが兄とする話についていける自信がなかった。
「弟と話すのはあいつの気分転換にもなる。それに、メイジスはかなり物知りで話してると驚かされて、きっと面白いぞ?」
そうはいうが、食事も部屋で食べるような人といつ話すというのだろう。
納得できていないと顔に出ていたのか、ワイズは明るい声で話を切り替える。
「ま、仲良くしろよ。そうだ、忘れてたが今日はラルクにいいものを見せてやる」
「いいもの?」
そう言って手渡されたのは、豆粒大の大きさの動く模型だ。爬虫類らしきデザインで、よく見ると口からは火のようなものを吹いている。
「これは……トカゲ?」
「ドラゴンなんだけどな。まあ見ていろ」
ワイズが腰のホルダーから杖を取り出す。マクスヴェルを象徴するグリフォンが銀に掘り込まれ、根本に嵌まった杖だ。
俺は何が起こるか察して、慌ててドラゴンを床に置いた。直後に杖がひとふりされる。
すると小さなドラゴンの体がブルブルと震えて、全身が溶け出したかと思えば、一瞬で膨れ上がり大人の背丈ほどある大きさになった。
「ギャアグルル‼︎‼︎ グルゥルルル‼︎‼︎」
重厚な存在感があるそれは、まさにドラゴンだ。
牙がよだれでぬらぬらとてかっていて、近づくと生臭い息がかかった。いっしょに火も吹き付けられるが見かけ倒しの炎なので熱くはない。
「危なかった……」
「くく、驚いたか? まあ家にいる間はラルクが嫌になるくらい遊んでやるから、覚悟しておけよ」
ものの大きさを自在に操る魔法。
それが星球儀に最高と認められた才能を持つ、ワイズ・マクスヴェルの魔法だった。
子供の頃から憧れていたその魔法を見て、俺は落胆している自分の存在に気づいた。
いつか俺も、と思っていたその魔法が、俺にはできないものと知ってしまったからだ。
「さて……もっと話を聞きたいのだが、弟の元気な顔を見て安心した。朝食はまだだろう? 呼び出して悪かったな、もう食べに行っていいぞ」
「……はい。あ、ドラゴン早く戻さないと怒られますよ」
また杖をふって、ドラゴンを手のひらに収まるサイズへ戻すワイズを尻目に、俺は苦々しい顔を誰にも見られないようにいそいそと朝食に向かった。
ワイズの時とは違い、ノックのためにあげた腕が重たい。朝食をいつもよりゆっくりと腹に収めた俺は、父の部屋の前で足がすくんでいた。
朝に見たワイズのような魔法が自分に使えないことを、父がどう思っているか知るのが怖い。
だから声を聞きたくない、会いたくない。
しかし知らん振りをするわけにもいかない。俺は観念して、ノックの乾いた音の余韻が消えるまで待ち入室した。
「失礼します——」
足を踏み入れる俺に反応して、父、セージ・マクスヴェルは手元の書類から目を上げた。
「おはようラルク。昨日はよく眠れたかな?」
こちらに向けられた父の顔は、怒られるかもしれないと考えていた俺が拍子抜けするほど優しげに見えた。口角を上げて、白い歯を見せて笑っている。
なんだかその顔をする父を妙に思う気がしたが、何よりその表情に救われた気持ちになった。
「は、はい。おはようございますお父さま。昨日は……よく眠れました」
「それはよかった。私は最近眠りが浅くなってしまってね。歳のせいだろうか? 昔はいつでもぐっすりと眠れたのだけれどね」
「そんな……まだ若いじゃありませんか」
俺は本気でそう思っていた。
父は強力な魔法使いで、優秀な二人の兄の師だ。歳に負けるほど弱い人ではないと信じていた。
「ははっ。ああ、ところでラルク、今日はお前に大事な話をしなければならない」
一転して、父は目を伏せて悲しそうな表情になる。今にも歯軋りの音が聞こえそうなほど、眉間にシワが刻まれた悲しそうな表情。
違和感はさらに強くなった。ただ、それ以上に不吉な予感を父の言葉から感じ取る。
「ラルク、お前は今日からマクスヴェルの子供ではなくなることになったよ。これからは人と会う時、家の名前を言わないようにしなさい。いいね?」
目の前が真っ暗になる。
父は許すだろうと信じていた。魔法使いの才能がないのは重大な問題と理解していたが、それはどうしようもないことのはずだからだ。誰も生まれてくる時、才能を決めることなどできない。
だから厳しく叱られ怒られるとは覚悟していたが、家から放り出されるとまでは思ってもみなかった。
「ど、どうしてですか……?」
「ふむ、マクスヴェルの人間は優秀な魔法使いでなければダメなんだよ。だがラルクは昨日、魔法使いの才能がないとバレてしまっただろう? だからお前を置いておくわけにはいかないんだ」
そう言いながら父は優しげな笑顔だった。あまりに笑顔で、俺は父から感じていた違和感に気づいた。
「お前は魔法使いの才能はなかったかもしれないが頭のいい子だ。私の言うことが分かると、そう信じているぞ」
父はいつも余裕を崩さない人だ。感情が表情に出ることはない。今、あけすけに見える父の胸の奥には、何か大きな感情が隠されているのだ。
俺はそれを感じ取って、急に怖くなった。
これは冗談じゃない。本気で言っている。
「ご、ごめんなさい」
「どうして謝る? お前はただ、私の言った通りにすればいい。できるだろう? お前でもそれくらいなら」
俺は怖かった。
ひとりになること、父から見捨てられること。マクスヴェルではなくなった時に起こる変化が怖かった。
俺は父の意見に反することなど滅多にないのに、声が震えるのも気にせず必死で言った。
「私は……マクスヴェルの子供で、いたいです」
父は表情を変えた。
「恐ろしいことを言うな、血を裏切った愚か者が‼︎‼︎」
瞬間、空気が爆発したように震える。
衝撃で壁に背中を打ち付けた俺は、痛みより父に怒鳴られたことに呆然とした。
呆然としながら、俺は疑問に思った。
どうして俺はマクスヴェルの人間なのに、魔法使いの才能がないのか。父がこんなに怒っているのか。何も分からないまま状況が変わっていく。
俺は昨日からずっと、どこかに取り残されているような気がしてならなかった。