第十二章 「二人の足跡」
ここから第三部です。
今回は全編羽佐奈と敏夫の家族話です。
次回は終わりへ向かってまた話が変わるのでどうぞお楽しみに。。
第12章 「二人の足跡―二人が歩んできた道のりを今ここにー」
「お父さん・・・、帰ってきてないんだ・・・、大丈夫かな・・・?」
学校から遅めに帰ってくると誰も家の中にはいなかった。
1,2日顔を合わせていないだけでなんだか不安になる。明日は土曜日だからきっとこんな不安がらなくても帰ってきてくれると思うけど・・・。
胸の奥に、まだ確かな罪悪感が残っていた。
「疲れていた勢いとはいえ・・・、酷いこと言ったよね」
畑山さんに家まで送ってくれた後、いろんな事があった後だから混乱してたんだと思う、今思っても不味かったと思ってる、本当驚いたけどあそこまで言わなくてもよかったと思う、もちろんその場に本人が居たっていう衝撃はあったけど。
「でも・・・、再婚か・・・、本当にお父さんは・・・」
どれだけ私が考えても答えの出る問題ではない、そうとは分かっていても、二人でいた時間が全てであったことを考えると早々納得していいものかわからない。それにあの人がどういう関係の人かもまだ分かってない、何でもないと期待してしまうのもアレだけど。
なんだろう・・・、まだはっきりしたことが一つもない、そんな気がした。
*
12月18日
「あれ、お父さん帰ってたんだ・・・」
いつもより遅めに起床するとすでにお父さんは起きてリビングのソファーで新聞を読んでいた。
「おう、羽佐奈、今日は学校か?」
「うん、土曜日だからお昼までね」
私は今日が土曜日なのでお弁当の準備も必要なくいつもよりも遅めに起床した。
私が色々心配していた割にお父さんはいつも通り変わりないようだった。
「夕方から時間はあるか?」
二人で朝食を食べているとお父さんが聞いてきた。
「うん、大丈夫だけど、どうしたの?」
「畑山のやつから食事券をもらってな、なんだか時間が取れなくて行けなくなったとかほざきやがってな、だから久しぶりに今日は出掛けることにしよう」
「本当!?」
私は嬉しくて飛び上がりそうな勢いで答えた。
「場所は遠いが、せっかくの機会だからな」
「うん、本当二人で出掛けるのなんて久しぶりだね」
「そうだな・・・、そういえば最近は出掛けてなかったか・・・」
お父さんは今更気付いたように、少し申し訳なさそうな表情をした。
「ねぇ、どこにお店なの、その食事券って」
「スールド・クレシェンド・・・ってところだな、行ったことはないが横浜みたいだな」
「ねぇ・・・、これビルの22階って書いてあるよ? 凄い高いんじゃない?」
「あっ・・・、ははははっ・・・、本当だな」
「これは、畑山さんに感謝しないとね、きっと奥さんと行く予定だっただろうし、凄い悔しい思いしてるはずだよ」
「だろうな・・・、そんな高いもんじゃないだろうと思って受け取ったが、こんな有名な場所だとはな」
高級イタリア料理の店、私たちは偶然にも三つ星レストラン、スールド・クレシェンドへと行くこととなった。
*
夕方になるにつれてどうしようもなく胸が震えていた。おかしいぐらいに気持ちが高ぶる。
「ただ楽しむことだけを考えればいい・・・、そう、それでいいんだよ」
どうしようもなく狂う気持ちを鏡に向かって言葉を消化することでなんとかしようと試みる、でも約一週間ぶりにしたおしゃれをしている自分を見て気持ちが落ち着いたりはしなかった。
「何してるんだろ私・・・、仕方ないってわかってるのに」
きっと夜景の綺麗な高いビルのレストランだろって思って明らかに目立つような服を着てる、一週間前はもう当分着ないだろうと思ってクリーニングに出してそのままだった服に着替えて、テープとか何か残ってないか鏡を見ながら確かめて、一体何を期待してるんだろう? おかしいよね・・・、ただの偶然なのに・・・。
「もう出掛けるぞ」
お父さんが私を見て言った。絶対変な目で見てる、こんな服着て何してるんだって・・・、所詮子どものおままごとだよ・・・、私は恥ずかしさもあいまった嫌悪感を抱いて急いで体を隠すようにコートを着込んだ。
二人で出掛けるなんて久しぶりだ、ガチャっとカギを閉めながら改めて思った。
こんな時間に二人で出掛けるなんて想像しなかったな・・・、ちょっとは私も大人に近づけたのかな? ふとそんなことを思った。
「やっぱり車は使わないの?」
「せっかくの機会だからな・・・、お酒をたしなめながらのんびりといきたいんだ」
「そうだね・・・、せっかくの休みなんだからその方がいいと思う」
そんな話しを済ませて私たちは電車に乗る。電車に乗って目的地の横浜までは一時間程度、私たちはいつものようにくだらない話しをしながらいつだって行き交う人の多い乗り換えまでの道のりや、立っているだけで窮屈な環状線の車内を過ごした。
「でも、みんな大袈裟だよね、2000年問題の話しばっかりグダグダしちゃって」
「まぁ根拠のない話しだってのは確かだがな」
「だってデジタルの登録データがバグって預金データがなくなるってめちゃくちゃじゃない? そんなのキリストがどんな魔力を持ってたってできっこないじゃない」
「人間が科学の力に頼らず負えなかった事に対する贖罪なり報復だなんて想像するのは無茶だな、パソコンがどれほど普及してきたとはいえ、二桁で済まされている登録データなんてあまりないはずだし、それが誤作動を起こすことも考えにくいな」
「そうよね・・・、ノストラダムスは何も科学的なことで占いなり予言なんてしていないもの、それで今の科学技術の問題を実証するなんて事ができるはずないもんね」
ちなみにノストラダムスは1999年7の月に恐怖の大王が来るとおっしゃっていたがお外しになられた、以前は大地震だか大洪水なんかの環境問題や核戦争、はたまた彗星が落ちて人類の滅亡へと進むのではとさえ言われていたがそんな大変なことが起こることもなく私たちは普通に同じような日々を送っている。
そんな終末論ブームが一つの予言が外れた程度で消えることもなくて今は2000年問題こそがノストラダムスの予言だとすっかり話しがすり替えられてしまっている。
環状線から乗り換えて横浜までの新快速に乗り換える。
そしてしばらくすると都会の街並みは少しずつ風景を変えていく。
「こう見ると、ここが都会の東京メトロポリスの近所だと思えなくなるな」
「東京ってそういう街だと思うよ。みんなきっと寂しさを紛らわすのに必死なんだ」
新快速の電車は無感情にレールの上を突き進んでいく。窓から見える景色は異質だった。ついさっきはビルの立ち並ぶ都会にいたのに窓からは田んぼまで見える。そもそも東京を少し離れるだけでこんな同じような景色がどこにでも広がっている。それでも一瞬で世界観が変わったようなこの景色はあまりに不自然に思えてしまってならない。
人の生きていることのギャップはそれほどないのに、見える景色にはあまりに大差がある、そんな不条理を見て、これが当たり前だとはとても思えなかった。
人はどうしようもなく孤独を感じるときがある、それは人類が増え続けているのに比例して一段と大きくなってきていると思う。だからこそ私は東京なんていう大きな都市を造ったんだと思う、人が孤独さを忘れられるように、一人じゃないとわかってもらえるように、自分がここにいるんだと気付いてもらうために、一日中明かりを付けて。
「でも、結局人は孤独だよね、誰も望んだ風には生きられない。だから余計に人は不器用になったと思う、だからこの街の人は息苦しさを感じてる」
「人はただ自分の存在評価をして欲しいだけだと・・・、でもそれは結局人が多くいればいるほど埋もれてしまう。愚かだと言われても仕方ないか・・・」
街の景色は再び明るい街並みを照らし出す。眠らない街はどこまでも続いていた。
横浜から従った道順に行くと大きなビルに辿り着いた。この上が目的地のようだ。
「何か、やっぱり緊張するね」
「確かに・・・、これに慣れるのは難しいな」
エレベーターは外の美しい夜空を映し出しながら、停車することなく上昇していく、他に乗っている人がいないことをいいことに窓に両手をついてずっと遠くの夜空までを回し見る。
「こんな綺麗なところ来るの初めてかも」
「それはよかった、早々経験できることじゃないからな」
あまりに綺麗な夜景上昇する毎に言葉に失う、人が集まっているというだけでこんなにも美しい景色になるのがやっぱり私にとっては不思議で堪らなかった。
本当幾らするか分からないぐらいのレストランに招待券を使って入場する。
窓辺の席に案内されて座るまでずっとドキドキが止まらなかった。
「可愛いお嬢さんですね」
すでに緊張してるぐらいなのに空気を読まないフロアスタッフが私に向かって笑顔を向ける。
「そうだろう? 子どもは知らないうちに大きくなるものだよ」
「本当おじさんみたいなことに言って・・・、恥ずかしいこと言うのやめてよ」
私は両足を引っ付けて呆れ顔で言った。お父さんは豪華な雰囲気に満足してか上機嫌だった。
お父さんの右手側に置かれたワイングラスに赤ワインが注がれる。この離れた場所からでも自分の顔が映りそうなほどの透明な赤、自分もすでに同じものを飲んだことがあるんだと思うとその見え方も幾分違って見える。
おいしいとは一言では言えないまでも悪くないと思ってしまう自分が罪な子どもに思えてならない。そんな風に少し羨ましそうな眼で注がれていくワインを見ていた。
「そういやこんな豪華なレストラン連れてきたことあったっけ?」
「ないよ・・・」
私は即答した。うちにそんなお金があるはずない・・・、私はあきれ果てた。
「苦労させたもんだな」
お父さんは表情を曇らせた、でもそれは悲観して言っているんじゃないことは分かった。これまでの日々を噛み締めているのだ、私にはそう見えた、私もそんな風に思っているから。
「私は気にしてないよ、もう一度生きさせてくれてるのはお父さんだから」
もの凄い長い名前の仔牛のローストを食べながら私は満足そうに答えた、美味しいものを食べているだけで何でも許させてしまうような気がする、人間はあまりに現金だと思った。
「あの・・・、もしかして赤津さんですか?」
「えっ?」
横から知らない女の人の声が聞こえて驚いた。私より少し年上かなと思うくらいの女性だった、どうしたんだろうと思って私は聞いた。
「あの・・・、ファンなんです。迷惑かなって思ってたんですけど、傍で見てたらやっぱり我慢できなくて」
「そうなんですか、ありがとうございます」
こんな風に話しかけられるのは初めてだった。ファンレターなんかは事務所で何度も貰ったことはあったけど、直接話しかけられたことはなかった。
一瞬時期とかいろんなことがあったからどんな風に対応してよいか迷った、でも曇りそうになる表情を抑えて私は感謝を示すために笑顔で応えた。
「・・・サイン、頂いてもいいですか」
「ええ、こんな私でよかったら」
サインなんて身内でも頼まれることほとんどないのに・・・、有名になったつもりもなかった私は慣れないことに驚きながらサインを丁寧に書いていく。
「JJに出てましたよね? 私は驚いたんです、こんな風に着こなす人もいるんだって。
ドラマの演技も凄く上手で、でも雑誌では特に養成学校にも通ってなくて行き当たりばったりだって。でも私、凄いことだと思います、本当事件で中断されちゃってるけど、ドラマ最終話までやってくれたらって思います、それにまたドラマとか出演して欲しいです、応援してますから」
人がどんな風に自分のことを見ているのだろう、そんな事を考えることはよくあった。
でも恨まれるほうが多いだろうなと思う私にとってはこうして応援してくれることは意外で、少し恥ずかしかった。
「本当に、応援してくれてるんですね」
私は黒のサインペンを握る手に力を込めて言った。
「でも、やっぱり浮いちゃってたでしょ? スタイルがいいわけじゃないし、中学生だし・・・。ドラマもこの先は出るつもりはないです、出させて貰ったのはほんの偶然でしたので」
「そんなことないです・・・、凄く尊敬してます、中断されてるからうやむやにされてるだけで結構好きって人もいますよ」
「そうですかね・・・、応援してくれるのはありがたいですけど」
私はサインを書き終わって女性に渡した。
「ありがとうございました。大変だと思いますが頑張ってください」
「ええ、話し掛けてくださってありがとうございます」
女性は通り過ぎていく、慣れないことをすると幾分疲れが襲ってきた。
「珍しいのか?」
お父さんは私に聞いた。
「そうだね、知り合いは私自体の印象を変えることはないし、普段の格好じゃ話しかけられたりしないから」
「しっかし、本当に信じがたいな、自分の娘がこうもなるなんて」
「当の私の方が信じられないよ」
追っかけとかに遭ってないからいいんだけど・・・、でも本当のところ危うかったよね、石毛さんとのことが報道されるなり週刊誌になんかに載っちゃったら大変なことになっていただろうと思う、そう思うとサインを頼まれるくらいなら微笑ましい限りだ。
食べ終えては運ばれてくるコース料理に舌鼓を打ちながら、最後のデザートまでを親子仲慎ましく過ごした。
*
二時間ほどして俺は羽佐奈を連れ店を出た。
店から離れると急に羽佐奈が隣に寄ってきた、羽佐奈の顔が肩に付いて何事かと俺は横を振り向いた。
「ごめん・・・、なんだが疲れちゃったみたい」
ぼんやりとした意識のまま羽佐奈は張り付いて動かなくなった、疲れているのは本当なようだった。
「どうした?」
「ごめん・・・」
羽佐奈はもう一度謝った、羽佐奈からはどこか甘い香りがした、その匂いに反応してか自分の酒臭い匂いが妙に鼻についた。
「ちょっと・・・、疲れちゃったみたい」
力を失ってそのまま倒れ込むように羽佐奈が俺の左腕に両手でもたれかかる。
「ガラにもなく緊張したか?」
「私だって雰囲気酔いくらいするよ。庶民が慣れないことするんじゃないね、緊張が解けたら力入んないや」
もたれ掛かってきた羽佐奈を俺は軽く支えたが意外に重たかったので力を込めて体を寄せた。部外者からみた一体どんな組み合わせに見えるのだろうかと心配になったがこの際そうも言ってられなかった。
「そうか、少し安心した。中学からそうだが、ここ一年は特に遠く感じてたからな」
「そんなにすぐに大人にはなれないよ。さっきだって凄く緊張してたんだから。
私はいつまでもお父さんの子どもだよ」
周りからどんな風に見えたとしても俺と羽佐奈は間違いなく親子だった。
*
寒空の下、日の落ちた海岸線をなんとか羽佐奈の体を支えながら歩いた。
そしてある時、羽佐奈はその支えから解き放たれるように、風にふわりと舞い上がるように俺の体を離れた。表情はよく見えなかった、しかし羽佐奈は俺から少しずつ離れて横にある柵に手を添えて背筋を伸ばした。
背後には言葉を無くしそうなほどの強大で美しい橋が架かり、そこには小さな光がきらきらと点滅し、遠い距離のために小さく見える自動車がいつまでも途切れることなく走っていた、そしてふいに強い風が吹き羽佐奈の黒髪が横に揺れた。
幻想的なその光景に出来すぎとは思いながらも俺は目を反らすことができず、ずっと羽佐奈を見つめていた。
どこかの光と反射しているのか羽佐奈の体だけが輝くように姿を浮かばせ、その表情までも暗い街の中で照らし出した。
どこか思い詰めたような、あまりに複雑な表情で、見たことのないような瞳をしていた。
「おい、一人で立って大丈夫なのか?」
まだ貧血状態が続いていることを心配して俺は声を掛けた、すると遠くか細い声で羽佐奈は「大丈夫だよ」と返した。
そして決意を秘めたように真っ直ぐに俺の方を見て羽佐奈はゆっくりと口を開いた。俺はただそれだけで覚悟を決めた、もう逃げられはしないとわかってしまった。
「――――ねぇ、理想の家族像って本当にあるのかな?
――――私ね、思うの、本当はそんなものどこにもないんじゃないかって」
とても綺麗な風景に彩られながら羽佐奈は語りかけるように言葉を告げた、それが羽佐奈がずっと考えてきたことなのだろう。今の羽佐奈は俺が思っているよりもずっといろんなことを経験し、悩み、考えて生きている、羽佐奈の言葉からは冗談なのではなくその言葉自体から明らかな重さが感じられた。
「―――どういうことだ?」
俺はそれだけではどう答えられよいのか言葉に困り、続きを急かした。
きっとここまで覚悟できているなら、全て考えていることを吐かせてしまった方がいいだろう、俺はそう判断した。
*
“シングルファーザー”
お母さんの死に別れた後、私たちは家族二人になった。
母親のことは私が幼かったこともあって覚えていない、それに5歳の時に発生したひき逃げ事件の影響もあってか5歳以前の記憶が私にはほとんどない。
実質的には9歳に目を覚ましてからこれまでが私にとっての人生の全てだといっても過言ではない。
―――そう、あの日がすべてに始まりだったのだ。
「――大変です!! 赤津さん、羽佐奈さんが急に!!!」
看護師の女性が慌ただしく声を上げて報告した。
お父さんは驚いて私の顔をずっと見ている。
今までずっとなかった変化だった。
激しい波が電子画面で点滅し、確かに生きようと波を強く動かし主張するように電子音をテンポ早くして鳴らしている。表情が動いて呼吸器に苦しそうに肺を大きく動かして大きく息を吐く、そんな動作をずっと繰り返して、少女はずっと生きようと格闘していた。
「羽佐奈!! 羽佐奈!!」
声が聞こえる、お父さんが何度も呼んでいる声だった。
その部屋にいる全ての人が祈っていた、そしてこの機会を逃せば二度と蘇ることがないことを予感していた、ずっと目を覚ます気配のなかった少女の奇跡の復活、「頑張れ」というその場の人々の祈りが届いて、少女は目を覚ました。
「―――ここはどこ? そこにいるのはお父さんなの?」
ゆっくりと目を開いて、透明に霞んだ世界に少しずつ光と色を灯して、その目に目の前の光景を映し出した、震えた目をそのままに、ゆっくりと白い唇を開いてあごの力もほとんどなく、なんとか呼吸器越しに声を紡ぎ出す。
―――それが、その時出来る私の精一杯だった。
私がなんとか意識を取り戻して、全然現状も理解できないまま疑問を語りかけたところ、現場はそれはもう大騒ぎになった。
私は体が全然うごかないことも相まって、どうやって声を出したのかも分からないほどに混乱して、すぐにお父さんの質問には答えられなかった。
「大丈夫なのか?」「声は出せるのか?」「俺のことは見えるか?」とかそんなことをお父さんはもの凄い早口で言っていたと思う、それから私はお父さんやお医者さんの話しを聞く中で現状を少しずつ理解していった。
一週間もすると呼吸器を外して普通に呼吸をして、話せるようになり、上半身を起き上がらせることも自分で出来るようになった。そして頑張ってお父さんとご飯を食べられるように特訓した。その過程で私は何度も泣いた、何でそれぐらいの事もできないんだろうと思った、そんな激しい嫌悪感を抱えて、何度も喉に入れたものを吐きながら、お父さんにご飯を食べさせてもらい、厳しい現実を乗り越えていった。
半年続いた入院期間を経て、私は退院した。もちろん一番私の傍にいてくれたのはお父さんだった。
そんなこんなで散々な二人の共同生活が始まった。
最初は何をするのも二人だった、一緒に洗濯して、一緒に掃除をして、一緒に買いものに出掛けて、私はお父さんの料理する姿を見ながらお皿の準備をしたり、お父さんの雑学に付き合っていた、そんな始まりから、何度か寝込んだりもしながらも一つ一つ初めて経験するかのように覚えていった。
「ねぇ、あのクイズの番組はもうやってないの?」
私はある時の夕食の際に呟いた。お父さんは何のことか分からない感じだったのでなんとか思い出しながら、手とり仕草を加えながら懸命に説明した。
「記憶があるのか?」
でも、お父さんが答えたのは私の質問ではなかった。私はその時になって初めて気付いた、記憶を蘇らせているのだと、5歳以前の記憶、テレビの番組を通して私は少しずつ事故前の記憶を蘇らせていた。
「なんだか・・・、覚えてるの。楽しかった記憶、笑っていた記憶、古くさいのにどこか新鮮な気持ち、おかしいかな?」
私は疑問に思った。思い出そうとしたら全然浮かばないのに、ずっとテレビの画面を見ているとふっと記憶がリフレインを起こす、どこかの回想録が浮かび上がってそれが私が見たリアリティのあるものだと教えてくれる、単純に私の経験だとは思えない不思議な光景だった。
「おかしくなんてないさ、取り戻してるんだよ、記憶を。
せっかくの経験を記憶の奥にしまっておくのは勿体ないだろ? だから脳が教えてくれてるんだよ」
お父さんが丁寧に説明する、その言葉どこか嬉しそうだ。
お父さんはやっぱり私の記憶が戻るのが嬉しいのだろうか? 私はその様子からそう判断することにした。
「でも、じゃあ私の記憶の番組はもう見れないの?」
「ああ、そうだな、羽佐奈の説明するような番組はもう終わってしまって放送されてないな」
「そう・・・、なんだ・・・」
幾つか私が膨大な時間を眠っていたことを証明するような出来事はあった。知り合いがいつの間にか大きくなっているなんてこともあったと思う、でもこういう身近なことの方が意外に実感が沸くのが実情だった。
それからも過去の記憶を彷彿のさせるような出来事は何度か起きた、でも私はずっと入院していたこともあるから、出来るだけ昔の知り合いとの接触は避けた、そもそも私が覚えている自信がなかったから、それはお父さんも理解してくれたし、前に住んでいた場所とは違うから、偶然にも会うという機会が訪れることはなかった。
そう、私にはお父さんさえいればよかった。この一年間はそう一言で済ませられる日々だった。
二人のアパート暮らしが始まってから二ヶ月が過ぎた頃だった。
お父さんは再就職先が見つかったというか、知り合いの探偵事務所で働くことになって働きに出掛けていった。
お父さんが警察の辞めた理由を聞いたことはなかったけど、いろんな人の話しを聞く中でなんとなくは察していて、それをわざわざ直接聞くようなマネを私はしなかった。それを聞いてしまうとお父さんへの申し訳ない気持ちが溢れてくるのと、きっとお父さんも悲しむだろうから、とても今の私には言えなかった。そう、私にはどう言葉を繕ってもお父さんが必要だったから。
午前8時半から午後6時の間、私にとっては空白の空いた時間だった。
一人で家にいても何をしてよいのかわからなかった。
ふと、そんなときに思った、私は8歳の子どもではなくて、まだ事故の前と同じ5歳の子どものままなんじゃないかと、一体何が変わったんだろう? 美味しいご飯なんて作れないからお総菜や冷蔵庫の残り物で朝食を食べて、掃除をする気力もなくてずっと無心でテレビを観て、時々お父さんの部屋を漁って本を読んだりして、やっぱり一人でいる時間は酷く孤独だった。
普通の子どもはみんな学校で授業を受けているのに、私は何をしているんだろう、そんな思いが募っていった。
時々ももの凄い頭が痛くなることがあった、どうも後遺症らしい、お父さんのいない昼下がりの時間、ギシギシと痛みが広がり始めた。
「イタイ・・・、イタイ・・・、イタイ!!」
痛みは私の思いとは裏腹に無情にもどんどん広がっていく。
「いたい・・・、いたいよ!! お父さん!! おとうさん!!」
私は部屋にはいないお父さんのことを何度も何度も叫んだ、痛みに耐えるので精一杯で叫び続けることしかできない、どうにもならないとわかっているのに、私は叫び続けた。
「イヤ・・・! 怖い、やめて・・・、来ないで!!!」
ズキズキとした頭痛から、ドクンドクンと大きな偏頭痛に変わって、次の段階に至るともの凄い高速で頭の中をフラッシュバックが巡っていく。
「イヤァ・・・!! いやぁぁぁぁぁ!!!!!」
軽トラックがもの凄い速度で私の身体を蹂躙し、跳ね飛ばす。
粉々になった私がポタポタと血液を滴らせながら、アスファルトの上で荒く呼吸をしながら白目を向いて一瞬立ち止まった軽トラックを見つめる、それは私の一番酷いときの途端に来るフラッシュバック、あまりに酷く残酷で頭にこびりついてしまった、きっと事故の時の記憶なんだろうと思って、出来るだけ思い出さないように普段は記憶の奥に仕舞うようにしている。
その日は特別運が悪かったのだ、暴れ回りながら、もの凄い汗をかいて何時間という時を耐えしのぐように過ごした。
午後六時、ガチャンと玄関の扉が開いた。
空虚に何をするでもなく座り尽くしていた私はそれで意識を取り戻して玄関へ向かって飛び出した。
「お父さん!!!」
私は大きな悲鳴を上げて何の遠慮もなく泣きついた。
「お父さん!! お父さん!!! お父さん!!!」
「どうしたんだ?」
お父さんのお腹に顔を埋めて、私は泣き続けた。どうしようもなく待ちこがれた瞬間、一人の孤独、辛い時間のやっと終わった幸せを私は必死に噛み締めていた。お父さんが心配そうに私の髪を撫でる。
「そうか・・・、怖かったか・・・、ごめんな、ごめんな・・・」
私が起こったことを説明すると、お父さんは何度も謝っていつまでも玄関の前で私が大丈夫というまで抱きしめていてくれた。
“私にとっては、そう、お父さんさえいてくれればよかった”
“それだけで私の孤独や胸の痛みは浄化されて幸せに満たされた”
「理想の家族? 私は今で十分だよ、これ以上の幸せなんて想像できないもの」
テレビの世界と私たちの世界、社会の窓は一体どちらを向いているのか。
一度の人生なのに、いや、一度の人生からなのか、どうしてか理想を求められる。
「ねぇ? 彼らの言う幸せって、本当に幸せなの?
私はそれによって満たされる違う幸せの事は分からない・・・、けどね、それを知ってしまうと、今まで大切にしてきたものまで見失ってしまう気がする、私はそれがどうしようもなく怖くてならないの」
頭に幾つもの家族の光景が浮かび上がる。テレビで観た大家族の番組、お金持ちの家族、お祖父さんお祖母さんと暮らす家族、田舎の家の家族、子ども作らない家族、本当に挙げればキリがないほどの家族の形がある。
でも幸せの価値はそれぞれだと思う、本当は何が平均値なんてない、誰しもが家族なんだ、理想なんてのは幻影に過ぎない、一緒にいて幸せだと思える、それが本当の幸せなんだ、お金持ちだからとか、子どもに恵まれてるとかそんなことじゃない、そんなことで否定しないで欲しい、そんなことで軽蔑しないで欲しい。
「やっぱり苦労させたな、いつも俺たちは精一杯だったもんな」
「違うよ・・・、そうじゃないよ。シングルファーザーだとかそんなこと関係ないよっ、私はお父さんじゃないと家族だと思えないんだよ、お父さんじゃなきゃ信じられないんだよ」
風に吹かれて涙が中空を飛んだ、風で揺れるコートを胸を閉めるように抑える、私は空気の冷たさに負けないように声を張り上げた。
これまでに一緒にいられた時間のすべてが信じられる唯一の要素だった。それは誰だってきっとそう、大切な人は一人でもいい、その人が本当に大切に思ってくれるなら、それが私の答えだった。
「そうか・・・」
お父さんが深く考えるそぶりを見せた。考えているんだと思う、私たちにとって真に大切なものが何かを。
「羽佐奈の気持ちは分かった。だから話しておこうと思う」
お父さんそう前置きした、それは確かな覚悟に思えた。
私は何を言われるのかと心臓が震える思いだった。
「つい先日だ、飛鳥 涼子さんから再婚を申し込まれたよ」
「それは私があの時にあったあの人?」
お父さんは頷いた。その言葉に嘘はなかった、私は予感はしていたもののやり切れない想いだった。
「彼女からは探偵として依頼を受けてから関係が始まった。そして依頼が一応の解決を見せたとき、告白されてしまった。彼女も決めていたのだろう、ただ、きっかけが欲しかったのだと思う。
彼女は一度離婚している、詳細は詳しいとは言えないが、哀しみを乗り越えて今を生きてる」
私は視線を俯いた。
私は知らなかった、気付かないふりをしていた。
誰しもが沢山の苦労や悲しみを乗り越えて生きていることを。
私は自分から否定してしまっている、自分の安泰のために悩み苦しんでいる人を犠牲にしてしまっている。
私はこの時だけ自分が12年しか生きていないんじゃないかと感じた。いや、正確に考えるならその通りで、私が相手の事を何か理解しているように思うのは、あまりにも浅はかな考えだと思えた。
「私には感情でしか分からないよ、難しすぎてどうしたらいいかなんて・・・。
でも、私が至らないのはわかっていても、いつの間にか当たり前に思っていたことが変わってしまっているのを見るのは嫌なの」
私が大人になっていくスピードと、お父さんの自分自身の幸せを見つけるスピードと、その二つの明暗がずれて、二人の共有の幸せが当たり前に感じられなくなってしまったら、それは結果的に私が置いていかれた気持ちになってしまうだろう。
「羽佐奈が悩む気持ちも分かる。だって俺自身もわからないからな」
私は驚いて「えっ?」と声を上げた。
「俺も同じように悩んでる、そして気付き始めてる。
これからの事をゆっくり考えなきゃならない時期に来てるんじゃないかってな。
俺が子どもだと思ってきた羽佐奈もこんなに大きくなった、関わる人も沢山増えて俺の支えも少しずつ必要としなくなってる、だから、少し自分のことも考えなきゃならないんじゃないかと思い始めたんだ」
お父さんはそう今の気持ちを私に話した。
冷たい風が吹く季節に変わって、私が少しずつ大人になっていく姿を見て、お父さんの気持ちも次の段階に移り変わろうとしていた、私はお父さんの言葉でその迷いや戸惑いを受け取ることが出来た。
「まぁ、ゆっくり考えていけばいいさ、一人で考える必要もない、こんな事今まで考えることもなかったんだからな」
「うん、そうだね・・・、あぁなんかいっぱい考えてたら疲れちゃった・・・。
今日は寒いし、早く帰って寝よ」
私はお父さんの手を掴んだ、何か気持ちの中に変化が起きて、それは今までなかったような温かさで、私は繋いだ手を引っ張りながら一歩前に進んだ。
二人はいつまでも二人で一つ。
私たちはそれだけをもう一度確かめ合って、それだけは変わらないことを信じ合って、海岸線を寄り添って歩いた。
例えば、理想の家族というものがあるんだとしたら、今の私たちのようなものを本当は言うんだと思う。
だって大切な人同士が分かり合えることは一番大切なことでしょう?
私は少なくともそう思うよ、だってイメージだけで家族の本質を見分けることなんて出来ないから、それぞれが理想を演じてしまったらどんどん僻んでしまう、それじゃあきっと幸せは遠ざかってしまうから、だから私にとってはこれでいい。
私にとって、大切な絆はもう揃っているから、だから後はそれを守りきるだけなんだ。
私は今の気持ちを失わないように、もう一度頭上の薄暗い星空に願いを込めた。




