第八章 「Mirage record」
第8章「Mirage record」
シーン1「夜天の使者」
都会から外れた山間、人里を離れたこの一帯には穏やかに冷たい風が辺りを包み込んでいる。すっかり夜も深くなり静けさを増した山間はとても人がいるような気配は感じられない。三日月の照らす月の下、そこに一軒の山小屋が人知れず佇んでいた。
一台の自動車が暗い山道の中を駆け抜ける。暗闇を照らすようにライトを付け、鈍いエンジン音を鳴らしながら人気のない道なき道を走り抜ける。山小屋の手前に着いて車を止めると手早くエンジンを止め一人の男が車から出た。黒いサングラスと灰色の背広で身を包んだ身なりで靴音を鳴らしながら足早に山小屋の中へと入っていく。
「随分遅かったですね」
山小屋の中から籠もったような声が響いた。年増もいかないような小柄な身なりの女性が小屋の奥で眼光鋭く瞳だけをブキミに開かせながら足を組んで座っている。
「よいではないか・・・、退屈さゆえの余興だ。せっかく自由な身体を手に入れたのに何も使わずに暇を持てあそぶのは愚の骨頂と言えるだろう・・・」
男は顔見知りと言った感じに言葉を返した。
「あなたは相変わらずね。厄介な憑依体を手に入れたんだから少しは自粛して落ち着いてくれるかと思っていたのに・・・」
「だからこそ人間との関与を重要視しているんだろう。こっちはお前のように引き籠もっていては不自然に思われてしまうからな」
二人の会話はお互いがお互いの行動を信じられないものを見るようなものだった。そしてその対極的な二人を見る黒い影のような存在が小屋の奥の方から蠢いていた。
「久しく再会したというのに、お前達はまた言い争いをしているのか。相変わらずだな。それより今日は話し合わなければならないことがあるだろう」
小屋の奥から聞こえて来たのは低く太い声色をした男の声。この場所には三人の人物らしく者が揃ったようだ。
「もう来てたかキング・・・、こっちはこんな辺鄙な所に来るのも大変なご身分になっちまったんだ、日程が遅れたことは何も言わないでくれよ」
「ふふふっ、そういって好き放題普段から遊んでいるくせに・・・。物は言いようね」
「クイーンにジャック、今はそれぐらいにしておけ。今はそんなことを言っていられる場合ではないだろう」
二人をなだめるように黒い影は言葉を告げる。小屋の中にはすでに尋常では理解できないような妙な緊張感が作り上げられていた。
二人は一応の納得をしたように口をつぐんで適当に席に着いた。
「二人ともようやく安定期に入ったのだ。そろそろ計画も第三段階に入らねばならんだろう」
「そういうあんたは結局何も連れていないんだな」
ジャックは言葉を言い返すように言った。しかし表情には若干の笑みも溢れ、他とは違いこの状況を楽しんでいるように見えた。
「私は主の側近だ。特別な任を預かっている」
「そうかい、一度聞かせて貰いたいもんだな、その任とやらを」
「ジャック、やめておきなさい、それ以上は主様への侮辱に当たるわよ」
「ふふっ、そういうことだ。お前だって主様がいらっしゃるから存在することが許されているのだ。ここでの無礼な発言はやめておくがよい」
「けっ、納得は出来ないけどな。もういい、そろそろ本題を始めてくれ」
ジャックは舌打ちをしながら先を急かした。
「クイーンにジャックよ、主様が捜索していた対象者の特定は済ませてあるな?」
キングがそう話すと、クイーンにジャックはそれぞれの功績を話し、キングはそれを聞いて総括をまとめた。結果としてほぼ100%の確率を持つ情報で一人の人物へと標的は特定されていた。
「まぁ、そういうことだ。ほぼその人物が主様の因縁を持つ者ということに決まった。
主様も待ちこがれているのでな、これからは本格的に標的をその人物に絞ることにする」
「ほぉ、ようやく動き出すわけか・・・、でもどうする? 全員で攻めるとなると作戦を立てるにもややこしくなる、協力なんてのは特に本意ではないしな」
「それじゃあどうするの? そもそもキングには憑依体はないし、私はしばらくは表だって出られないし」
「そうか・・・、クイーンは追われる身であったな。それと私にも一つ特別な任が下っていて今は標的と構ってもいられんのだ」
「なんだよ、二人とも行動できる状況ですらないのかよ。クイーンは標的絡みだってわかるけどキングは一体どんな事情だっていうんだ?」
クイーンは先日の標的の友人を仕留め損なったとかいうことで表だって出られない、それは理解できたがジャックにはまだキングを事情とやらを聞かずに話を進められのには未だ不愉快さが残った。
「主様が、自分に似た憑依体を御所望になられた」
「・・・本当かよ・・・、今更になってか、いよいよ覚悟を決めたってことでいいんだな」
「再会を待ち望んでおられる証拠であろう、もう猶予が少ないからかもしれん・・・」
実体はまだ眠ったままだからか・・・、ジャックは小さく呟いた。一段とそれぞれに緊迫した緊張感が深まった。互いがすでにこうした日々が長くないことを頭で理解させられる。
「わかった、話しは理解した。このまま待っているわけにはいかないなら俺が一人でなんとかしよう」
「ほぅ、ジャックよ、すでに策はあるのか?」
「あぁ、もちろん、またとない機会だ。
それも機会は今週の週末。大丈夫、ヘマはしない、もう逃がしはしないさ」
「ふふふっ、相当な自信だな、では任せて良いのか?」
「ちょっとっ、そんな簡単に決めちゃっていいの?」
ジャックとキングの会話に横から入るようにクイーンが言葉を入れる。
「クイーン、お前も知っているだろう。俺は今誰に憑依しているかを、そして俺がどんな仕事をしているかも。最高の機会なんだよ、今週末に最後の撮影がある、もちろん対象者の女も撮影に参加している、ロケ中ならいつでもチャンスはある、大丈夫、うかつに気付かれはしない。必ず成功させて見せる」
「そういえばそうだったわね・・・、ただの変質者ではないんだっけ・・・。ふふっ、ちょっと芝居じみた、出来すぎな脚本にも思えるけど、まぁ、そこまでやる気になってくれるなら任せることにするわ」
クイーンは得意げな笑みを浮かべて納得した。それにジャックも理解者を得て満足そうに答えた。かくして作戦はほぼまとまろうとしていた。
「ふっ、では標的のことはお前に任せる、いいな?」
「あぁ、もちろんだ」
「あんまり酷いことしてあげるんじゃないわよ。死んじゃったら主様だってちょっとはガッカリするだろうし」
「そこまではしないさ・・・、少し痛い思いをしてもらうだけだ。
せっかくの機会だからな、慎重に楽しませてもらう」
キングは少しの不安を抱えながらも早々に計画がまとまったことに結果として満足し、クイーンはまだ自分の出番ではないことに一安心した。そしてジャックはこれから自分が行う作戦にすでに一途の興奮を抑えられず終始満足げな笑みを浮かべている。
そして、朝を迎える間もなくそれぞれは山小屋の中から動き始めた。
もうそれぞれにとって残された時間は少なくない、考えられてきたことが確実に現実へと移り変わっていくことをそれぞれが感じ取り、覚悟を付け始めていた。
*
12月10日
シーン2 「そして鐘は鳴り始める」
朝日が昇り、私は目覚まし時計の音と共に自然と目を覚ました。
「うっ・・・、寒い・・・」
まるで胸を締め付けられるような寒さが体を襲う。私は気合いで立ち上がって窓のカーテンを勢いよく開けた。サーと心地よい音と共に朝陽が照らす街並みが目に映った。ベランダへと続く窓には幾つもの水滴が付き外の寒さを物語っていた。
「今日からは一層寒くなりそうだね」
誰に言うでもなく私は呟いていた。
ピンポーン。
「あれっ?」
もう来ちゃったのかな・・・、まだいつも登校するには10分ぐらい早いのに・・・、それに今日は由佳里と一緒に行くからゆっくりでいいって行ってあったのに・・・。
「お父さん、どうしよう・・・、司ったらもう来ちゃったみたい・・・」
「それじゃあせっかくだし朝食でも御馳走すればいいんじゃないか? 待たせるのも悪いだろ」
お父さんから新聞を少し下に下ろして隙間から私に言った。私は軽く「うん」と返事をして玄関へと向かう。
「おはよう・・・」
「こんなに早く来てくれなくてよかったのに・・・、とりあえず上がって、用意してるから」
いつもの笑顔で司が挨拶するものだから私はちょっと素っ気なく言って、早く上がってくれるよう急かした。
「どうしたの・・・?」
「どうしたって、由佳里との待ち合わせまでまだ時間あるんだから・・・、わかるでしょ」
そう言いながら私は気付いた、あぁ、私ってば機嫌悪いんだ、きっと司もそれを心配していってくれてる、なんとなくだけどそれだけは分かった。今更取り繕う方法もないけど、後、家事何すればいいんだっけ? なかなか今日は頭が回らない、とりあえず朝食の準備をしないと。
「さぁ早く席に着いて。司も一緒に食べるのよ、今準備してた所だから」
「う、うん・・・」
司は急ぎ気味な私に動揺しながら席に着く。
「おじゃまします・・・」
司がお父さんに目を向けながら言った。未だそんな人見知りのような会話に私は司らしさを感じてしまった。
「遠慮することはないさ。少しは堂々としていればいい、これでも理解しているつもりだ」
私はお父さんってば余計なこと言ってるなぁと感想をもってしまった。司は緊張して下手な返事をする、私は手早く準備を済ませてテーブルに着いた。
頭がまだボーとしている。止まってしまったら余計に落ち着かない、このまま眠ってしまいそうになる。私はなんとか自我を意識的に高めて、眠ってしまわないように努める。
5分くらいしてもう限界だった。あまりこれ以上食が進まない。
自分で作って、少なめに取り揃えしたはずなのに半分も食べられなかった、私はこれ以上座っている余裕もなく後始末をしようと立ち上がった。
「ちょっと! もう終わり?」
割かし司にしては大きな声で言った。台所から司の目を見るとそれは真剣そのもので私の中に動揺が広がった。
「食べられないの?」
司が立ち上がって私のそばに寄りそう、肌と肌が触れる瞬間、不覚にもドキッとしてしまう。私は力なく「うん」と返事をした。
「顔色悪いけど昨日寝てないの?」
「二、三時間は寝たと思う・・・、ずっと台本読んでたからそれで」
私は酷く焦っていたんだと思う。夜遅くだから部屋の電気を消して、机に取り付けられた電球だけを付け、ずっとイスに座って台本と睨めっこをしていた。注意すべき点を赤ペンでで線を引いたり言葉を足したり、気付けばセリフを言っていたこともあった。そして撮影に向けてするべきことを考えながら練習をしていると集中していたからかすっかり時間が過ぎてしまっていた。
それでも練習に必要な時間は全然足りなくて、私はあまりに過酷な状況に陥っていた。
なんとかしようと思えば思うほど時間は過ぎる、それでいつの間にか睡眠時間は削られてしまった、今でも練習する時間が惜しいのに・・・、こんな弱音を吐いている場合ではないのに。ちょっとは寝られただけマシなのに。
「ダメだよ睡眠時間まで削っちゃ、大切な身体なんだから、風邪でも引いちゃ本番ちゃんと演技できなくなっちゃうじゃないか」
「わかっちゃいるんだけど・・・、全然ままならなくって」
「いいよ・・・、部屋で休んでて。時間になったらまた呼ぶから」
司が台所からだそうと背中を押す。
「でもまだ洗い物も洗濯も終わってない」
私は力なくも抵抗するために言葉を放つ。
「大丈夫、時間あるから僕がやっておくよ」
司はあまりにも優しかった。私の中にあまりにも大きな罪悪感が巡ってくる。「(また迷惑掛けちゃったなぁ)」と頭の中で呟く、私にはこれ以上抵抗する余力はなかった、こうなってしまうと司も頑固だし、甘えるしかない、私は覚悟を決めた。
「あぁ、ちゃんと自分で部屋まで行くから。それと洗濯物のネットの中は触らなくていいからね、私が後で出しとくから。絶対触っちゃダメだよ」
私は司の方を見て訴えた。私は彼氏に下着まで一緒に洗濯されたくはない、意地というか必死の抵抗だった。司は「わかったわかった」と私をたしなめた。
「ごめんね・・・、学校はちゃんと行くから。寝ちゃってたら起こしてね」
時間にしたら30分くらいしかなかったけど、私は静かに部屋へ戻った。
*
「まだ辛い?」
「ちょっと頭痛いけど、念のために風邪薬は飲んだから平気だと思う」
足取りの悪い私を心配して司が声を掛けてくれる。朝の登校がこんなにも辛いのは久しぶりだ、普段はこんな無理なんてしないのに・・・、変に焦りすぎだろうか。
由佳里との待ち合わせ場所までやってきた、由佳里はもう先に着いていた。
「二人とも、やっと来た、10分近く待ったよ」
待ちくたびれたとばかりに声を荒げた、原因はもちろん私の足が遅かったせいだけど、由佳里はそれほど怒っている風でもなかった。
「ゴメン、ちょっとのんびりしすぎちゃった・・・」
私は普段待たせるようなことはしないから申し訳なく思って謝った。
「大丈夫? まだちょっと元気なさそうね」
由佳里は昨日体調の悪かった私を知っているから余計心配してくれた。化粧で誤魔化すにも限度があるもんね・・・、やっぱり周りからも元気なさそうに見えても仕方ないと思う。
「これぐらいだったら大丈夫だと思う・・・。夜更かしはやっぱりよくないね」
「そうだよ、練習も大切だけど、明日のためにも体調は万全にしておかないと。
・・・・・・そのために司を早い時間に派遣したんだから」
由佳里は最後の部分を付け足すように言った。そっか、司が早めに来たのは由佳里の差し金だったのか・・・、あまり二人の関係がピンと来ないので不思議だった、連絡先ぐらいはお互い知っているのは分かっていたけど、私経由とはいえそういった交流もあるんだなと感心した。
「うん、ちょっと部屋で休んでよくなったかもって思ったけど、まだ、治ってないみたいだね。今日ぐらいはゆっくりしないと」
「わかってるよ・・・、夜更かしもしないし、今日ぐらいは大人しくしてる」
二人の心配性に免じて今日は大人しくしておこう、そう私は心に決めた。
「由佳里?」
しばらくゆっくりと歩いた後、私は声を掛けた。由佳里が「どうしたの?」と歩く速度は変えずにこっちを向いて返事をした。
「傷は大丈夫? まだ痛いんじゃない?」
「あぁ・・・」
由佳里はちょっと返事に困ったように一呼吸置いた。
由佳里が退院したのは今週に入ってからだった。私の知る限りでは傷は出血の量にしては深くなくて回復も早かった、もちろん心臓や肺に刺さっていたらもっと大変なことになりかねなかったけれど、幸い急所は外していて大事には至らなかった。
そんなこともあって傷跡はまだ残っているだろうけど私が思っていたよりも早く退院することができた。それは心配していた私にとっても嬉しい限りで、痛みがすぐなくなるわけではないし、危険がなくなったわけでもなかったけど、何より一安心という気持ちにさせてくれた。
「大丈夫大丈夫、私としても長く病院に居たくはなかったからこれでいいの。
まだ完治してるとはいえないから、時々軋んで痛んだりするけど、運動とかしなかったら平気だから。こうして本当は早めに学校行って用事をしたいところでも休ませて貰ってるし、今は喫茶店のお手伝いも休ませて貰ってるから、迷惑掛けてるって分かってるけど凄く感謝してるのよ。
もちろんちゃんと治ったら復帰するつもりだけどね、今はとりあえず学校と家の往復ぐらいはしっかりね、私の受験はもう終わっちゃってるけど、でも普段の生活はあんまり変えたくなくて、これぐらいなら平気だからさ」
最後に由佳里は「別に無理とかしてないよ」と付け加えた。確かに普段通り元気そうな由佳里の姿を見られるのは私としても嬉しかったし安心できる部分も大きい。でも普段の元気良さよりも少しゆっくりと話す由佳里の姿はまだ万全ではないことを理解させられた。
「二人にとってはもうすぐ卒業だもんね」
「そうね・・・、羽佐奈とは一緒の高校に行くことはないし、こうして一緒に登校できるのもずっとってわけじゃないんだよね」
由佳里の進む高校はもう決まっていた。確か「私はこれぐらいでいいのよ、受験勉強にいっぱい時間使わされたくないから」と言っていたのを思い出す、大変な思いをしている私とは正反対かもしれない、でも考え方としてそういう判断もあるのだと今思えば納得できる。
「頑張らないとね・・・、私ってば」
力なく私は呟いた。不安がないと言えば嘘になる、そんな気持ちが私の中にはやっぱりあるのだ、いつでも不安が隠しきれるほど私は器用ではなかった、まぁこんな時だってあるよね。
「そういえば、明日と明後日で撮影最後なんだっけ?」
「そうだけど・・・、由佳里? クラスメイトとかにそういう事言ったらダメだからね、一応隠さなきゃならないみたいな守秘義務はあるんだから」
明日と明後日私が出演しているドラマの収録が最後になることは前もって由佳里には話していた。そしてそれが原因でちょっと昨日、一昨日辺りから体調を崩し気味だったことも。
「わかってるって、でもやっぱり大変よね、こんな過密なスケジュールで」
「私なんてマシな方だと思うけど・・・、今は他の仕事とかはほとんど受けないようにしてるから、他の出演者は他の仕事も同時に引き受けちゃってるわけだから、凄く大変だと思う」
それは私の見てきた率直な感想だったけど由佳里は「そんなことないでしょ・・・」と私を労ってくれた。実際スケジュールは後半になる毎に現場の緊張感と共に厳しくなってきている、かく言う私もドラマそのものが初挑戦でゆっくり演技指導を受ける間もなくとても苦労している。
「司くんも明日の撮影には付き添いで行くんだったよね?」
ちょっと私的には司への呼び方が気になったけど、由佳里は司に尋ねた。
「うん、明日だけね、僕はこれといって協力できることもないから邪魔にならないように遠くから見てるだけだけど」
「何かいろいろ話してたら興味沸いちゃったみたいで、だからもう最終回前だし一回ぐらい見に来てくれてもいいんじゃないかなってね」
「うん、そういうこと、幸い団地スペースは広いから邪魔にならない所にいれば中にいてもそれほど注意されたりはしないみたいだし」
「たまに一般人の人に一緒に通行人役とかで出て貰ったりしてるからね・・・、下手なことしなければこの際問題ないと思う」
私は二人して由佳里に適当に説明をした。あまり丁寧ではなかったけど由佳里の反応は悪くなくそれなりに理解したようだった。
「まぁ、用は二日間ずっと会えないのは辛いから来て欲しい訳ね」
あり得ない由佳里の結論が飛び出した、私は酔狂にスッ転びそうなのを抑えた。
「どうしてそうなるっ」
私は適当にツッコミを入れるのが精一杯だった。
そんな話しもしながら、ちょっと重かった身体も安定感を取り戻してきた頃、私たちは学校に到着した。
*
「それじゃあ、明日7時半には迎えに行くから、ちゃんと準備しておきなさいね」
「はい、わかりました、よろしくお願いします」
「・・・、それと」
はい? と私は携帯電話越しに返事をした。
「プレッシャーはあると思うけどちゃんと寝て夜更かしなんてするんじゃないわよ? 声震えてるわよ」
「はい、すみません・・・、私もわかっているつもりです。明日は頑張りますので」
「うん、よろしい。もちろんいい演技をして欲しいって気持ちはあるけど、私だって羽佐奈の無理させたい訳じゃないから、それだけはわかっておいてね」
「はい、お世話になってますから。他の俳優の方のように真剣にはやれなくても自分なりに精一杯やりたいので、霧島さんの気持ちも理解してるつもりです」
家に帰宅してしばらくしてから来たマネージャーの霧島さんとの電話での会話。それからもうしばらく連絡事項を話したのち、電源ボタンを押して通話を切った。
体調は明日になればなんとかなると思う。
土壇場では大体いつもそれなりに力が出せたから・・・。
でもそれ以上に、いくつものの事が私を不安にさせていて、それは私の中を蠢いて大変だと思っていても消えようとはしなかった。
「だから、明日早いから早く寝るけど、明日からのこと本当お願いね」
夕食後のリビング、まだ部屋の照明もテレビの電源も付いた時間に私はお父さんに大切だからと声を何度も掛ける。
「ああ、大体は家にいるから平気だよ、月曜には帰るんだよな?」
お父さんはいつもように落ち着いた声色で答えた。
「うん、月曜の朝頃には帰ってくると思う、遅刻しない程度に帰ってきて学校には向かうから」
撮影でまる二日家を空けることを言うと最初はお父さんは驚いていたけど、今日に至ってはもう驚くようなそぶりも動揺する姿もなかった。
「私が居ないからってあんまりお酒とか沢山飲んだりしちゃダメだよ?」
前に一度私は家をあけた際に、やさぐれていたのかいつもの三倍くらいお酒を飲んでいた記憶があるから私は注意した。
「仕事の整理もあるし・・・、やけ酒なんてしねぇよ。そんな心配してないで自分の準備をちゃんとしとけ」
お父さんは平気そうにそう言ったので私は引き下がって、明日のために早めに休むことにした。
*
12月11日
シーン3「利巧な刃」
土曜日の朝、私は予定通りに目を覚ました。昨日まで悪かった体調はほとんど回復し、いい緊張感の中で身体を維持させることが出来た。
昨日の時点で二日分の荷物の整理を済ませ、起きて朝食を済ませた私は、霧島さんが車で迎えに来るまでの間にメイクをいつもより入念に済ませる。私のような主役級でもない中途半端な役では専属のスタイリストは付かない、だから前回に軽く言われた注意点などを踏まえて自分でメイクをしておくしかない。もちろん撮影と撮影の間にも仕立て直しなどはするが、朝の一度目は気持ちを高める意味でも大切だから油断は出来ない。それにこれは仕事であるから中学生だからという言い訳なんて到底効かないし、家族に先輩となる女の人がいないから、私は嫌が応にも自分で覚えないとならない。
まだ7時ちょいの時間だからもちろんお父さんが起きてくる気配もなく、私は一人で出掛ける覚悟を決めていた。
やがて、呼び鈴と共に霧島さんがやってきた。
私は大きな荷物を持って、部屋の電気を消し、もう一度名残惜しく部屋を見渡し頭を一度クリアに整理したのち、部屋を出て、あまり寝ているお父さんのためにも音を立てないように、それでいてあまり霧島さんを待たせないように足取りを早くして玄関へと向かう。
二日間も家を空けるなんて修学旅行以来かもしれない・・・、そんなことを一方で思いながらちょっとした寂しさを胸に抱えて玄関を開けた。
「おはよう、準備できてる?」
「はい」
「それじゃあ、行こっか?」
いつものようなやり取り、でもどこかで落ち着かない高揚感のようなものが身体を巡っていた。まだ日の浅い朝の時間、私は寒さに耐えながら霧島さんを追ってアパートの前に置かれた車に向かう。
霧島さんは私が心の中では緊張しているのに反して慣れているのか平静を保っていた。それは私にとってこの期に至って心強く、私を落ち着かせてくれた。霧島さんの時折見せる長年の付き合いとしての笑顔に助けられ、私は助手席に乗り込む。
エンジンは私を迎えに来る前から付けっぱなしで、車内は外道と比べてとても暖かかった。
「今日はコートなんだ?」
「はい、大分寒くなってきてたんで、この前司と一緒に渋谷まで買いものに出かけて買いました」
「そう、結構高そうね、私的にはいいチョイスだと思うけど」
すぐに私の新作のコートに目を付ける辺り霧島さんはさすがだと思う。
先日寒くなることを見越してギリギリながら司と買いに行ったコート。二時間近くかかったけどなんとか納得するものが買えた、司は夕方過ぎまで掛かったから泣きそうな顔をしていたけど。
霧島さんの操縦で車はどんどんと車道を横切っていく。慣れた動作でハンドル操作をしながら時折小型のケータイを触ったり私に話しかけてくる姿は27歳となった立派なキャリアウーマン女性に思える。出会った頃よりも女性らしさが増したその姿はとても魅力的で私としても大切な信頼できる存在となった。
「いくらくらいしたの? ちょっと教えてよ」
私の緊張を和らごうと軽い口調で話しかけてくる。
「あ〜・・・、諭吉が数枚なくなるくらいです・・・、結構値切ったんだすけどね、話し込んでたら相手に私のことバレちゃったりして。これ以上って物が見つからなくて、勢いよく決めてしまいました」
「それだけの物を買えばそれぐらいするか・・・、ホント中学生らしくなくなっていくのね。顔はまだ幼さが残るのに」
「時折、見られてるって思うと怖くなるんです。誰かと比較されたりするのってあまり好きじゃなくて、だからやっぱり自分の気に入った物を着けてたいんですよね」
確かめるようにシルバーとのツートンカラーが輝きを放つトレンチコートに触れる。
綿混素材で保温性のある着心地のいい触感で、リボンベルトがウエストゾーンを包み“I”ラインのシルエットでスタイルをよく見せてくれる。
なんだかこうして褒められるとこのトレンチコートも余計に愛おしく思えてくる。
ちょっと引きつるくらい高かったけど思い切ってよかったかな・・・、大人になればこれくらいの値段が当たり前なわけだし・・・、店員さんを恨むわけにもいかないか。
コートの下にはオレンジのワンピースとカジャアルなショートパンツを履き、それなりに合いそうな目立たない柄のヒールを履いてきた。
「そうね・・・、この業界にいてもどれくらいの子が見られたいとか有名になりたいと思って仕事をしてるのか疑いたくなるわね。でも羽佐奈は他の子よりもはっきりしてるように見えるわ、考え方にしても、仕事ぶりを見てても。最近は若い子がどんどん増えてるから、手の掛からない子の方が少なくなってるし、一貫性のない事のほうが多いのよね」
霧島さんはあまり疲れなどは見せずに話し続ける。霧島さんも何人もの子を担当してて忙しいはずなのに・・・、小さい仕事ばかりしている私を一貫して担当してくれ、相談相手にもなってくれている、本当に心強く思う。
霧島さんは一言「どうだった?」と聞いてくる。私が何の話しか分からなくて「何の話しですか?」と聞くと、「ドラマの事」とだけ答えた。
「初めてのことばかりで大変でした」
私は率直な感想を述べた。丁度信号の前でブレーキを踏んで止まったところだった、霧島さんはリラックスするように少し姿勢を崩し口を開いた。
「ふふっ、確かに今思えばちょっと悪かったかなって思ってるわ。羽佐奈は演技学校の子でも芸能プロダクションの子でもなかった、ほんの偶然の繋がりだったのよね。
この業界には本当に沢山の人が役者になりたいと、有名な作品に出演したいと願っている人で溢れてる、それはあまりに需要と供給のバランスの崩れたものだから、嫉妬や妬みなんかに溢れていると言えるわね。
でも私はただ、いい機会だからと思って、羽佐奈に経験しておいて欲しかったのよ。
それに交代となった役の設定もこっそり見てたから、自然と抵抗無しに取り組んでくれるんじゃないかと思ってた」
「それでも、やっぱり無茶ぶりだったと思いますけど」
私は苦笑いを浮かべた。よく演技がうまいだけが作品にとって必要ではないとか言われることがあるけど、そういう役どころによって適正、適任のようなものがあるのだろうかと霧島さんの考えも踏まえて思う。
「まぁいいじゃないの、最後を迎えられて」
「・・・まるで、夢物語の終わりですね」
偶然に偶然が重なった結果、想像もしていなかった大役。私に定められた使命が今日と明日で終わる、具体的に何を求められているのかは未だよくわからない、ただ精一杯だったから。こうすればいいという公式も知らない、言われたことを必死に吸収して演技に活かしていく、あまり他の人には突っ込まれないが本番中はずっと緊張しっぱなしだった。
まもなくロケ現場に着く。司は何時ぐらいに着くだろうか、ちょっと別々に来ることになったことを後悔しながら、残された時間で私は今日の出番の確認を頭の中で反復させた。
驚いたことに私が着いて間もなくして司はロケ現場に来ていた。
「道、迷わなかった?」
「大丈夫だよ、これぐらい」
イメージからして司は方向感覚なさそうだけど、今日は到着できたようだ。
「本当は一緒に行きたかったんだけどね、あんまり一緒だと危ないかもだからごめんね」
「いいんだよ、来させて貰ったのも半分僕のわがままでもあるし」
実際そんな危険なことがあるとは想像できないが、あまりそういう同伴はするべきではないということだった。こうして一緒に肩を並べていても、どれくらいの人が私たちを恋人同士だと気付くのか、沢山のスタッフやら周りの一般人、出演者などを含めると想像に苦しかった。
現場ではすでに撮影が始まっており、監督はパイプ椅子に座り俳優達の演技に目を光らせていた。団地の道並で行われている撮影には多くの照明がカメラと共に取り囲み、現場の雰囲気を作りだしている。
「おはようございます」
「あら、プロデューサー待ってるから、早く会いに行きなさいね。後、台本また変わってるみたいだから受け取っておいてね」
「あ、はい、すぐいきます」
私は小走りで一人プロデューサーの元へ向かう、霧島さんはすでに他の出演者と話しをしていた。
「おはようございます」
物が沢山ある控え室の一つにプロデューサーはいた。
「あ、赤津、大変だと思うが頼むぞ」
そういってプロデューサーは私に台本を渡す。この人は普段からあまり喋らない方で説明が足りないことが多い。そんなことで困ることが多いから出来るだけ説明を聞きながら抜け落ちている点がないように私は集中して聞いた。
「この前はまだ未定な部分が多かったが、拡大版になると前に言ったとおり撮影は早め早めに始まってる。でもまぁ予定通り明日の昼頃には全部収録は終わる予定だから、少々切り詰めてる部分はあるがよろしく頼む。それと明日の夕方からの打ち上げの件だが詳細は上坂さんに聞いてくれ。彼女が一応パイプ役になってるから、俺はスタッフ側だから口出しはできんからな。そういうことでよろしく」
早口でドンドン先に説明は続いていく。時折話すことを整理していないのか余計な話が出てきたりもするが、私はとりあえず記憶し、これからのことを整理しておくことにした。
「(それにしても・・・)」
まだ確認は全部できていないけど・・・、私の嫌な予感は的中したようだった。
「後、そうだ、伝言を頼まれていたんだ」
「はい、なんですか?」
「石毛さんが、赤津が来たら一度俺のところに来るようにってことだ、追加部分含め一緒のところ多いからだと思うからな、打ち合わせだろうから早めに探してくれ」
「わかりました・・・」
私は大きな不安を抱えながら返事をした。前途多難そうだ・・・、一体どれだけ出番が変わったり増えたりしているのか・・・、この最終日前にとんでもないことをしてくれる。でもやるしかないよね、現場の都合なんて考慮してくれないことなんて分かってる、ここまで来たんだから、今更文句なんて言ってられない。
「(石毛さん・・・、どこだろう・・・)」
懸命に探すがなかなか石毛さんの姿が見あたらない。緊張する現場でこんなキョロキョロしてるなんてちょっと恥ずかしいなぁ・・・。
「おい、嬢ちゃん」
あれどこだろう・・・、と声のした方を見ると石毛さんが建物を背中に立っていた。
「あ、石毛さん、探しましたよ」
私は隣にたったのち挨拶をした。
「割と元気そうだな、やはり最初の頃と同じく度胸はあるみたいだ」
「そんなことないです・・・、現場の雰囲気といい、緊張しますよ嫌が応にも」
40代とは思えない出で立ちで近くで聞いてもドキっとしそうなほどの渋い声で石毛さんは話してくる、詩澄が好きになるのもなんとなく頷ける。役柄の都合とはいえ羨ましがられるのも仕方ないかな。
「台本は読んだか?」
「まだ、もらったばっかりで・・・」
「そうか、まぁ今週に入って新丁されたばっかりだからな」
それでだ・・・、石毛さんはピンチとしか思えない私に冷静に話を進める。
「拡大版の部分も含めて、俺たちの出番が残念ながらかなり増えてるようなのでな。集中的な撮影になると思うから少し打ち合わせをしておくことにする」
「そんなにですか・・・、はい、よろしくお願いします」
私は展開の悪さに眩暈がしそうになるのを抑えて石毛さんの指示に従う。
「変更のない部分に関してはお互い覚えてきてると思うから本番任せにすることにする。後は特に問題なのは仲澤さんとの三人のシーンだな、だからとりあえず今仲澤さんはまだ撮影中だから、合流次第そこに書いてあるシーンを確認することにする。その後は赤津も撮影があるし、午後を過ぎたらスタジオでの撮影に移るからな、あまり打ち合わせに使える時間は少ないがここまで来たら覚悟するしかないな」
話しを聞いて激しい現実感を覚えながら私は石毛さんに指定されたシーンを台本から確認する。
「これ、かなり長いシーンですね」
「修羅場っぽいな」
確認して頭が真っ白になりそうになる、ホント無茶ぶりすぎる。
「私、わざと泣いたりできませんよ・・・」
「そうか? やってみないとわからないだろう、演技に熱が入れば自然と泣けるかもしれないだろ、結構な修羅場だしな。何度かは練習がてら通すから、それでも無理なら何らかの処置を取ることにしよう」
「はい・・・」
不安はまるで消えなかったけれど、弱音ばっかり吐いていても仕方ない。仲澤さんが来るまでに少しでも覚えておかないと。
「中に入ってるか? 始めるとき呼びいくからいいぞ」
「すみません、お言葉に甘えます」
「今日は寒いからな、それぐらいがいい」
石毛さんが心配してくれているのに感謝して私は控え室の中に入って台本の確認に入る。
やがて仲澤さんが集合したので演技指導に入った。
とりあえず幾つか確認作業や話し合いをしているとあっという間に時間が過ぎた。そしてようやく問題のシーンの練習をするところまで来た。
練習だと分かっているのに演技を始めるという時になると緊張感が一気に高まる、焦りなどがなければこの緊張は心地よく、ミスを減らしてくれるのだけれど・・・、私は片手に台本を持ちながら、意を決する。石毛さんと仲澤さん、そして私を含めた三人の演技が今始まった。
「どうしてっ! あなたはまたっ!!」
仲澤さんの全力の声をもって三人の演技は開始された。
「違うの! お母さん!! お父さんは!!」
今にも飛びかからんとばかりのお母さんを私は止める。
「あなたがそんなだから羽佐奈は! やっぱり羽佐奈は私が引き取ります! それがこの子のためなのよ!!」
「何を今更、離婚を望んだのはお前の方だろう。俺と一緒にいることを望んだのは羽佐奈自身だ、お前がどうこう言って口出しすることではない」
父親と子の二人の家、そこに飛び込んでくる母親。それはどこか離婚カップルにはありがちな光景、父親はソファー越しに背後の元妻に反論をする。
「だからって、こんな生活続けて! 羽佐奈が悲しむだけでしょう!!」
母親は大きな声で叫ぶのに対して父親はあまりに冷静だった。いやむしろ母親の言葉を支離滅裂に感じているのか、すでに興味の眼中にないのか、テーブルにはいつものように缶ビールの缶が二本も三本も並び、BGMのように無関係にテレビが映し出されている。
「文句を言うのも大概にしてもらおう。羽佐奈が困るようなことはしていない、むしろ困るようにさせたのはお前のお陰だろう? そうじゃないのか?」
「何よ! あなたがしっかりしていればこんなことにはならなかったんじゃない!!」
お互いの怒声が交錯する、娘役の羽佐奈はもう聞きたくないとばかり耳を塞ぐ。
「男を作って出て行った女が何を言う。だから羽佐奈だって一緒になんて居たかないんだよ」
結局はどちらの意見も真実、お互いの想いが相反している限りもう修正しようのない関係。母親は不倫相手との間に子どもを作り裁判を経て離婚をし、すでに再婚を果たしていた、お父さんは一度会社をリストラに遭い再就職することなく不安定な生活を続けている。幸いまだリストラ前のお金が残っているから二人生活できるがそれがずっと続けられるわけじゃない、現実的に考えても大学まで行ける見込みはない、そんな環境に母親が黙っていられるわけがなかった。ずっと育ててきた娘を取り戻し、自分の手でもう一度育て上げる、再婚も果たし生活基盤も整った自分ならきっと苦労はさせないと母親は確信していた。
もう何度となく繰り返した喧嘩に争点となる娘はもううんざりしていた。
「もうやめてよ! こんな喧嘩! 昔の暮らしに戻れないならこんな喧嘩なんて意味ないよ!! 私はこのままでいいから・・・、争うのだけはやめてよ!!」
羽佐奈は感情を込めて必死に声を張り上げる、まるで本当の娘になったように、強い意志をもって。
ちなみにここでは娘役の名前は別にあるので羽佐奈自身が何らかの関連性を持っているわけではない。
それからも続けられる言い争い、言葉は獣のような刃となってそれぞれの心に突き刺さる。3分近い長い演技が続けられた。
「本当にいいのか? あいつの所に行ける最後の機会かもしれないのに」
私が抵抗した結果、母親は帰ってしまった、罪悪感を覚えながら娘は座り込み涙を流す。母親の帰った後のリビング、父親は言葉少なげ呟く。そんな父親に娘は静かに寄り添った。
「そんなのわからないよ、私にとってはたった一つだけが幸せだったんだから。
だから今からどっちが幸せだなんて考えられない。でもお母さんと少しだけでも一緒にいて気付いた、やっぱり違うって、あの場所に私は居られないって。
私がいる空間がないんだもん、他のみんなは笑ってる、でも私は一緒に笑えないよ、だって私が望んだ日々とはやっぱりかけ離れているから、私はそんな器用にはなれないから。だから、私はお父さんでいい。わがままかもしれないけど、あそこは私のいていい場所じゃない。私の知ってる家族じゃないよ。
だからね、お父さんさえいればいいの。うまくいかないことばっかりかもしれないけど、でも私はお父さんの味方でいるから、もう悩んだりしないで、私は迷ったりしないから」
どれだけ言葉にしても、これまでの日々が記憶から消えるものでもなければ、塗り替えられるものでもない。
どれだけ言葉にしても、傷跡が洗い流されることでもないかもしれない、でもこれからを生きるために、忘れなきゃいけないことがある。
きっと幸せの形は一つじゃないから、そう信じて、私たちは生きなきゃいけない。この不幸を背負っていかなくちゃいけない。
*
「赤津はこの後撮影だよな?」
チェックするシーンが一通り終わり石毛さんが話し掛けてくれる。
「はい、スタジオに入るのは午後過ぎてからです」
「それじゃあ一旦これぐらいにしておくか、そのまま暗記するのは難しいが、できるだけセリフは覚えておくようにな」
「はい、頑張ります」
石毛さんは仕方なしという感じで去っていく。それを追うように仲澤さんも一声掛けてから離れていく、そうしてあっという間に私は一人になった。
「ふぅ・・・、やっぱり疲れるなぁこれは」
私はため息をつきながら、撮影のために急いでメイク室に入った。
午前の撮影も終わり、私は司と昼食を取ることにした。
「どこにいくの?」
先を行く私を追いかける司から質問が出された。
「近くに食べるとこあるから、あんまりお弁当にばっかり頼ってもいけないし」
そういって私は歩を止めることなく目的地へ進んでいく。
目的の場所に着いて、私は早々に頼むものを決めた。司は私がすぐさまざる蕎麦を頼んだのに対して少し悩んだそぶりを見せたが店員が離れる前にギリギリ注文を済ませた。
「どうだった?」
私の演技がという意味を込めて私は聞いた。
「なんか雰囲気に圧倒された感じかな」
悪びれもなく司は答えた。
「あ、そう」
疲れていた私はどうにか言葉を返すのがやっとだった。この後の撮影のことを思うと自信満々とはとても言えない、むしろ問題だらけだ。私は司の前では不安感を押さえられずに気の入らないまま会話を続けた。
撮影はスタジオに移っても長いこと続けられた。
幾つかの問題のシーンでは他のシーンよりも時間がかかり、出演者がそれぞれ焦り感じながら、大きなストレスが続くスタジオの中で共に演技を続けた。
「おつかれさま」
撮影の終了と共にどこから現れたのか霧島さんに声を掛けられる。私は同じような言葉を返した。
「ホテル行くでしょ? 車すぐそこに止めてあるから送るわ」
「本当ですか? ありがたいです、さすがに疲れちゃって歩けないかもって思ってたんで」
私は霧島さんのアシストにようやく笑みが溢れた。一安心できた私は霧島さんに付き添い朝と同じように車に乗車した。
局を離れて夜の街を走り抜ける。ようやく私は安堵のため息を吐いた。
「随分疲れてるわね、大丈夫?」
「明日で終わりですから、なんとか乗り切ります。それより、迷惑掛けちゃったなぁってことが心配で、もっと上手にできれば迷惑掛けなくて済むのに・・・」
付き合いの長い霧島さんにはつい弱音を吐いてしまう。でも私の子どものような発言にも霧島さんは邪険にはしなかった。
「大変だったわね、最近のドラマの撮影なんかではザラにあることだと思うけど。でも大変なりに頑張ってると思うわよ、私の見込んだぐらいにはね」
「石毛さんや仲澤さんも凄く優しく接してくれて、全然初心者の私でも協力してくれますから。長い間一緒に仕事が出来てよかったと思います」
「そうね・・・、最初の頃よりずっとよくなってるもの。これだけの環境になんとか対応できてるし、自分を責めすぎるのも考えようよ」
それでもミスは消えることはない・・・、私はそんなことを一方で思いながらホテルまでの間眠たい目を押さえた。
「でも・・・、石毛さんも迷惑よね、演技はしっかりしてるのに」
私は眠たくて半目になりながら霧島さんの話しを聞いていた。特に話しがわからなかったので私は頷きもせずにいると霧島さんは話しを続けた。
「現場じゃ最終話の撮影中だってのに結構な不評よ。作品はうまくできたのに放送できるかが心配だって。
石毛さんってば週刊誌のスキャンダルに載るって、何度となくよね・・・、前のドラマの時も同じようなことがあったけど、撮影期間ぐらいは自粛して貰いたいものだわ。女癖が悪いのって治らないものなのかしらね・・・。羽佐奈に迷惑が降りかかったりしなければいいけど。今更厄介払いもできないものね・・・、このまま何事もなければいいんだけど」
私は記憶に留める程度に言葉を流した、放送できるかすら危ういというあまり事の重大さに突っ込む余裕はなかった。
明日でこの騒がしい日々が終わる。放送日は一ヶ月以上は先だろうからスタッフの仕事に終わりはないが私たち役者の仕事は終わろうとしている。
明日の昼過ぎはまで最後の撮影をして夕方からは打ち上げ、それからホテルに戻って一日休んで朝方に帰ってまたいつもの一日に戻る、こんなことが二度あるとは思わないから一つ一つ噛み締めながら後悔しないよう頑張らないと。
ホテルに戻って夕食やお風呂を済ませて自室に戻ると疲れが襲ってきて私は気付けば眠りに落ちてしまった。




