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Cafe Shelly

Cafe Shelly 愛し方がわからない

作者: 日向ひなた

 気がつけばもう二月。スーパーやコンビニの店頭にはバレンタインのチョコレートがたくさん積まれている。それを見ると、ふぅっとため息。

 チョコレート、あげたくてもあげる相手がいないのよね。昨年末、長い協議の末にようやく離婚が成立。原因は旦那のDV。でも相手にその自覚がなかったせいで、結局離婚調停まで立ててようやくここまでこれた。元旦那は親権を主張。確かに子どもには優しかったけれど。でもあんなヤツに子どもを渡すつもりはまったくなかった。子どもが小さくて手を焼く年齢なら、あっちも手を引いたんだろうけど。

 長男は十九で専門学校に行っている。長女は高校一年生で家事もこなすほどの腕前。たぶん引き取られても家政婦かお手伝いさんくらいにしか見ないはず。だから意地でもあいつに子どもを渡したくなかった。

 なんだかんだで私の主張が認められ、今は子どもと三人で暮らしている。体裁は落ち着いたとはいえ、心に負った傷は大きい。誰かを頼りにしたい。けれどそこに踏み込む勇気がない。世の中はアラフォー世代だとか言って私たちをもてはやそうとしているみたいだけど。でもなんだかその波には乗れそうにないな。

「あれ、みくるさん!」

 スーパーで買い物をしていると、突然後ろから声をかけられた。振り向くとそこにはにこやかな顔をした女性。

「あら、文恵さんじゃない。めずらしいね、こんな時間に会うなんて」

 声をかけてきたのは、長男の同級生のお母さん。小学校の時からのつきあいで、一時期はよくつるんでいろいろなことをやったり、いろんなところに出かけた仲だ。こんな時間に、といっても今は普通の主婦が買い物をする夕方の時間。どうしてめずらしいのかというと、私は今父の経営する会社で事務として働いているのだが、ちょっと遠方のため帰りがいつも遅い。また文恵さんも子どもが中学を卒業してからはパートで働きだしたため、それ以来つるんで行動することが少なくなった。よく考えたらこうやって会うのは久しぶりだ。けれどメールや電話ではしょっちゅう連絡をとりあっているので、久しぶりって感じはしない。

「みくるさん、やっと自由になれたわね」

「えぇ、ようやく」

 彼女には何でも話ができる。離婚でもめていたときも、メールや電話でよく愚痴を聞いてもらっていた。

「ところでこれからどうするの?」

「えっ、これからって?」

「だって、せっかく自由になれたんだから。遊ばなきゃね」

 遊ばなきゃ。文恵さんのいいたいことは自ずとわかっていた。あまり大きな声では言えないが、彼女は結構夜遊び好き。男性の友達も多いと聞いている。といってもだらしない生活をしているわけではない。彼女のところは離婚はしていないが家庭内別居に近いと聞いている。でも、子どもが就職したら離婚するかも、というのが本人の言葉。それだけにお互いが自由なことをして楽しんでいるし、お互いに干渉はしないそうだ。ある意味理想的な夫婦とも言えるかな。

「ね、今度の土曜日に飲みに行くんだけど。みくるさんも一緒に行かない? ささやかな離婚パーティーしちゃいましょうよ」

 うれしい提案ではあった。けれど、そんなことをお祝いするなんてちょっと気が引ける。返事をためらっていると、文恵さんの方からさらにこんな強引な言葉が。

「女はね、四十代からが華なのよ。ここで思いっきり発散すると、お肌にもいい影響が出るんだから。それを家の中でしょんぼり過ごしてたら、せっかくの女盛りを無駄に過ごすことになっちゃうわよ」

 確かに文恵さんは一緒につるんでPTA活動をしていたときよりも若返っているように見える。それがある意味うらやましいと感じる面もある。

「う、うん…でも…」

「大丈夫、私にまかせといてよ。じゃぁ土曜日の七時からね。お迎えに行くからちゃんとおめかしするのよ」

 まったくもう、文恵さんったら強引なんだから。イエスともノーとも言わない返事のまま、文恵さんはその場を去っていった。

「土曜日、か」

 悪い気はしないな。よく考えたら元旦那との離婚を考え出してから、外で飲んだことなんかない。子どもも手を離れたことだし。たまにはこんなのもいいかな。そう考えたら、買い物からの帰りの足取りは自然と軽くなっていた。それから土曜日までの間、私はなんとなく心がはずんでいた。いつ以来だろう、こんな気持ちになれたのは。

「みくるさん、なんだか最近楽しそうね。何かあったの?」

 同じ職場で働く事務の職員からそんな声もかけられた。私、そんなに楽しそうなのかしら?

 そして迎えた土曜日。そう言えば美容院に行かなきゃ。髪なんてずっといじってもらってないから。ちょっとは女らしくしないとね。

「あれ、お母さんどこか出かけるの?」

「うん、文恵さんから食事に誘われてね。あなたの食事は冷蔵庫に用意してあるから。帰りは遅くなるから、早めに寝るのよ」

「はぁい、ゆっくり楽しんできてね」

 我が家の長女はできた娘だ。自分の事は自分でちゃんとしてくれる。だからこそ、私も安心して働くことができるしこうやって夜出かけることもできる。といっても今夜のことは正直には伝えられないが。ちなみに長男は友達と出かけるということで夕飯いらず。ま、その方が助かるけどね。

 そして文恵さんが迎えに来る時間。私はちょっとそわそわ。なんだか落ち着かないなぁ。

 ピンポーン

 玄関の呼び鈴が鳴り、私はあわてて靴を履いて飛び出した。

「みくるさん、そんなにあわてないの」

 玄関外では文恵さんが待ちかまえている。

「タクシーで行くの?」

 門の外にはタクシーが停まっている。

「えぇ、このくらい私が出すから。さ、乗った乗った」

 背中を押されて私はタクシーへ。そして文恵さんが後から乗り込み、すかさず行き先を告げた。

「今日来る男性って、なかなか渋くていい男なのよ」

 文恵さんはワクワクしながら私にそう告げた。

「どこでそんな人と知り合ったのよ?」

「行きつけのスナックでね。なんとなく意気投合して。で、今日はあっちも友達を連れてくるって。バツイチなんだけど四十代でなかなか男前らしいわよ。みくるさん好みだといいんだけどね」

「そんな、私は…」

 男性に興味がないわけではない。けれど、離婚したばかりでいきなり別の男性とおつきあいだなんて。その思いと、一人ではやはり寂しいという気持ちとが複雑に交わったまま到着。

「おまたせっ」

 文恵さんは軽いノリで待ち合わせの男性とあいさつ。相手の男性も同じようなノリだ。私は静かに後ろで会釈。そして静かに顔を上げると、文恵さんがあいさつをした男性の後ろに私と同じように静かに会釈をしている男性が。その姿を見たとき、私はドキッとした。なんなの、この感覚。特別かっこいいとか、派手だとかいうわけではない。むしろ物静かで地味な感じも受ける。でも一瞬でわかった。この人、私と気が合いそうだって。

「は、初めまして。沢木みくるといいます」

「ど、どうも。木下聡助といいます。自営で商売をやっています」

 彼との会話はそれだけだった。それからお互いにあいさつを交わしお酒を酌み交わしながら会話。といっても、文恵さんと相手の男性がしゃべりまくり、私ともう一人の男性は横で相づちをうったりしているだけだったけど。でも、ときどき聡助さんが私の方をちらりと見てくれる。私もその視線に気づいて聡助さんに目線を送る。それが何度続いただろう。なんだかモジモジしているうちに飲み会が終了。

「あのさ、みくるさん一人で帰ってもらってもいい?」

 文恵さんは終わり際にそんなことを小声で言ってきた。

「どうして?」

「うふっ、ここからは大人の時間だから」

 あ、そういうことね。

「わかった、ゆっくりしてきてね」

 で、店を出て文恵さんは仲良しの彼氏とタクシーでさっさと消えてしまった。後に残された私と聡助さん。

「あ、あの…」

「はいっ」

 聡助さんから声をかけられ、ちょっと緊張して声が上ずってしまった。

「もしお時間よろしければもう一軒行きませんか? さっきの店ではあまり話もできませんでしたし」

「え、えぇ…」

 そう言いながらもちょっと考えてしまった。

「あ、お時間がないのなら無理しなくても…」

 行きたくないわけではない。いや、聡助さんともう少し一緒にいたい。けれどどこか臆病になっている私がいる。そのとき、携帯メールが。これが子どもからだったら家に帰る口実にでもなっただろう。しかしメールの相手は文恵さん。

「聡助さんと楽しんできてきてね♪」

 まったく、文恵さんったら。でもこのメールで心を決めた。

「私で良かったら、ぜひ」

「本当ですか!」

 聡助さん、今にも飛び上がるほど喜んでいた。そして聡助さんの案内で来たのは、薄暗いバー。とても大人のムードが漂う。

「聡助さん、ここはよく来られるのですか?」

「いやぁ、よくってほどじゃありませんけど。たまに一人で考えたいときにはここに来ています」

「一人で、ですか?」

「えぇ、妻と五年前に離婚してからは」

「どうして離婚しちゃったんですか?」

 あ、いけない。つい興味本位でそんなことを聞いてしまった。けれど聡助さんは笑ってこう答えてくれた。

「ありきたりの理由ですよ。私が仕事にしか目を向けていなくて。子どもがいなかったのが幸いでした」

 短い答え。けれどそれで聡助さんという人がなんとなくわかった気がした。

「ところで、みくるさんはコーヒーはお好きですか?」

「コーヒーですか? そうですね、わりと飲む方じゃないかしら」

「それなら、ぜひ連れて行きたいところがあるんですよ」

 これってデートの誘いかしら? けれどコーヒーで誘うなんて変な話かも。

「どんなところなんですか?」

「喫茶店なんですけど。私はこの喫茶店の、いやそこのマスターのおかげで今ここにいるようなものなんです。仕事一辺倒だった自分の人生を変えてくれた喫茶店なんですよ」

 聡助さんの目が突然輝きだした。それから聡助さんはこの喫茶店とマスターについて語り出した。喫茶店の名はカフェ・シェリー。そしてそこのシェリー・ブレンドが不思議な味を持つらしい。

「一度飲んでみたいな、そのシェリー・ブレンドっていうの」

「じゃぁ今度一緒に行ってみませんか?」

 あれっ、これってある意味デートの誘いよね。でも断る理由も見つからないし、聡助さんの話す不思議な味というのにも興味がある。私は首を縦に振った。

「じゃぁいつにしましょうか?」

 このとき、臆病者の私が顔を出した。

「あっ…えっと…まだ子どもたちの都合もあるから帰ってみないとわからないわ」

 うそ、ホントはそんなことないのに。

「だったら電話いただけますか?」

 そうしてお互いの携帯電話の番号を交換。ついでにメールアドレスももらっちゃった。そして店を出たとき、聡助さんが思わぬ行動を。

「うわっ、寒いですね」

 そう言って私の手をギュッと握りしめたのだ。

 えっ、うそっ!? 私の体温は一気に上昇。私はうつむきながら聡助さんと歩いていった。そして気がつけば人通りの少ない公園へ。

「みくるさん…」

 聡助さんは突然立ち止まって私の名前を呼ぶ。

「はい」

 私の鼓動はこれ以上ないくらい激しくなった。この先の展開は大人なんだからわかっている。けれど…

「ご、ごめんなさいっ」

 私は思わず走り出してその場を去っていった。その後は何も覚えていない。家に帰り着いて、後悔と反省の念ばかりが襲ってきた。聡助さんはとてもいい人。でも、でも…私、臆病なのかしら。もう聡助さんに嫌われたに決まっている。もういやっ、こんな私大嫌い。そんなことばかり考えてしまい、頭が変になりそう。眠れない、涙も出てくる。

 気がつけばもう朝。ほとんど寝ていない。

「起きなきゃ…」

 体を起こすと、携帯電話が光っている。メールが到着した合図だ。誰だろう? 携帯電話を開くと、そこには聡助さんの名前が。聡助さんが昨晩メールを送ってくれていたんだ。

 見たい、でも見れない。心の中で葛藤が渦巻く。意を決してメールを開くと、そこにはこんな文字が並んでいた。

『みくるさん、昨日はごめんなさい。突然でびっくりされたでしょう。今度ぜひ一緒にカフェ・シェリーに行きましょう。ご連絡お待ちしています。』

 優しい聡助さんのメール。こんな私にはもったいないくらいだ。でも嫌われたんじゃないってことよね。返信メールを打とうとした、けれどなんて打てばいいのか思いつかない。結局メールは打てないまま。一日中ゴロゴロしていた。

「お母さん、何か今日は変だよ?」

 子どもにもそう言われてしまった。そうしていると夕方文恵さんから電話が。

「昨日はどうだったの?」

「どうだったって…あれから二人でバーに行って、そして帰ってきただけよ」

「帰ってきただけって、何もなかったの? せっかくのチャンスだったのに」

 せっかくのチャンスが何を言わんとしているのかはよくわかる。けれど私はそれを望んでいるわけではない。今は心を癒してほしいだけ。

「デートの約束とかしなかったの?」

 文恵さんに言われて思い出した。

「喫茶店に行く約束はしたけど」

「喫茶店って…今時の高校生でももっと気の利いたところに行くわよ」

「でも変わった喫茶店なんだって。なんでも不思議な味のするコーヒーがあるって。聡助さんはそのおかげで今があるって言ってたわ」

「その喫茶店ってひょっとしてカフェ・シェリーのこと?」

「文恵さん、知ってるの?」

「知ってるも何も、あそこのマイちゃんは私の友達の娘さんなのよ。マイちゃんダンナさんがマスターしてるんだけど、これがまたなかなかいい男なのよ」

 それから文恵さんは一方的にカフェ・シェリーのことを話し出した。

「ふぅん、なんだかおもしろそうな喫茶店ね。ぜひ行ってみたいなぁ」

 いつの間にか私は文恵さんの話すカフェ・シェリーへと引き込まれていた。シェリー・ブレンドってのに興味が湧いたのもあるけれど、それ以上に文恵さんの話すマスターの人柄に惹かれた。カウンセラーの資格も持っているらしく、とにかく何でも話がしやすいということ。

「それってどこにあるの?」

「あら、聡助さんに連れて行ってもらえばいいじゃない」

「でも…」

「でも、何よ?」

「あのね…その…聡助さんのことで悩んでるの。どうすればいいのかわからないから…」

「なんだ、みくるさんも聡助さんのこと気に入ってるんじゃない。だったら話は早いわよ。くっついちゃえばいいんだから」

「そ、そんな簡単に言われても…」

「まったく、みくるさんってすっかり恋に臆病になっちゃったわね。聡助さんの気持ちは大丈夫よ。だって、本人から直接私に相談があったくらいなんだから」

「えっ、うそっ!」

「ホントよ。あとは、みくるさん次第なの。でもその様子じゃなかなか踏み出せないみたいね。仕方ない、カフェ・シェリーのマスターにお願いするか」

「ありがとう、文恵さん」

 その後カフェ・シェリーの場所を聞いた。それからすぐにカフェ・シェリーに行きたかったけれど、ちょうど仕事が忙しい時期になって。しかも突発的な問題が発生。おかげでカフェ・シェリーどころか聡助さんのことすら頭に浮かべる暇がなかったくらいだった。

そんな状況の私を知ってか知らずか、あの飲み会から一週間ほどした土曜日の昼にメールが。聡助さんからだ。

『あれからいかがお過ごしでしょうか? あのときお約束した喫茶店へ一緒に行く件、明日などいかがでしょうか? お返事お待ちしております。』

 どうしよう…まだ聡助さんに会う勇気がない。でも聡助さんに会いたい。迷った挙げ句、私は文恵さんにメールで相談してみた。するとすかさず文恵さんから電話が。

「みくるさん、何やってんのよ。あなたまだカフェ・シェリーに行かなかったの?」

「うん、仕事が忙しくて」

「じゃぁ今日これからはどうなの?」

「えっ、ま、まぁ時間はあるけど…」

「じゃぁ善は急げ。今から私と一緒に行きましょう」

「あ、待って…わかった、一人で行くから」

 そう言って電話を切った。私、何逃げてるんだろう。聡助さんに会いたいって思っている自分がいるのに。けれど心のどこかでそれをできない自分が足を引っぱってる。

 そしてそれから意を決して、カフェ・シェリーへと足を向けてみた。文恵さんから携帯に地図を送ってもらったのを頼りに街を歩く。確かこのあたりだと思うんだけど…。

 その通りはパステル色のブロックで道が覆われている。並んでいるお店はさまざま。ブティックもあれば雑貨屋もあるし、病院まで。へぇ、前にも通ったことがあるはずだけど、こんなお店がたくさん並んでたんだ。そして通りの中程まで来たときに、お目当ての看板を発見。ここの二階ね。なぜか胸がドキドキしている。ここから新しい自分が発見できるかも。そして聡助さんの胸に飛び込める自分になれるかも。階段を一歩一歩上がるたびにそんな期待が高まってきた。

カラン、コロン、カラン

 ドアを開くと心地よいカウベルの音。

「いらっしゃいませ」

 同時にかわいらしい女性の声。そして間をおいて低く渋い男性の声で

「いらっしゃいませ」

 お店には甘い香りがする。濃いブラウンと白で統一された落ち着きのある色。窓際には四人掛けの半円型のテーブル。真ん中に三人掛けの丸テーブル。そしてカウンターは四席。見た感じはとても小さな喫茶店。土曜日のお昼過ぎだけあって、席はほとんど埋まっている。

「こちらへどうぞ」

 案内されたのはカウンター席。すでに常連らしき客が二人座ってマスターと親しげに話をしていた。私がその話に入り込むことはできない。バカだなぁ。よく考えたら、初めての客の私がマスターに相談なんかできるわけがない。

「あの、失礼ですけど」

「えっ?」

 女性の店員がそうやってにこやかに話しかけてきた。とてもかわいらしい女性だ。

「みくるさんじゃないですか?」

「どうして私の名前を?」

「あ、やっぱり。文恵おばさんから電話があったんです。今日、こういう人がくるからよろしくって」

 文恵さんってホント世話焼きなんだから。けれど今回はそれで助かったかもしれない。

「ご注文はシェリー・ブレンドでよろしいですか?」

「えぇ、お願いします」

 むこうから声をかけてくれたおかげで、緊張感が少しほぐれた。カウンターの向こうではマスターがコーヒーを入れてくれている。私はその姿をぼーっと眺めている。常連らしい二人はマスターとの会話をやめ、二人で話を続けていた。

「はい、お待たせしました。飲んだときのお味をぜひ教えて下さいね」

 マスターはそう言ってコーヒーを差し出してくれた。

 私はゆっくりとコーヒーを口に含む。このとき、不思議な感覚を覚えた。一瞬、とてもほろ苦い感覚。でもその後に何とも言えない甘い味わい。コーヒーに砂糖は入れていない。なのにほんのり甘みを感じるのだ。それをもう一度確かめたくてふたたびコーヒーに口を付ける。するとやはり最初に苦みを感じてすぐに甘みを感じた。こんなコーヒーは初めてだ。

「どんなお味がしました?」

 横から女性の店員が声をかけてきた。

「あ、はい。口に含んだときにはほろ苦く感じたんですけど、そのあとすぐに甘みを感じたんです。砂糖は入れていないのに。なんだか不思議ですね」

「苦みの後に甘みか。失礼ですが今心の中で迷いがあるのではないですか? その迷いは、本当に欲しい物を取りに行きたいけれど何かがそれをこばんでる。そんな感じではないでしょうか?」

 私の言葉にマスターがそう応えてくれた。まさにマスターの言うとおり。聡助さんという人に惹かれ始めている。そこに飛び込みたいけれど、私の何かが足を引っ張っている。

「あの…お話を聞いてもらってもいいですか?」

 私はマスターにそう言った。けれどマスターはこんな答を。

「おそらくその話は私よりもマイの方が向いているでしょう。マイ、お相手してあげてくれないか」

「はい、わかりました」

「いいんですか? お忙しいのに…」

 私は恐縮してしまったが、マイさんという女性店員は優しげに私にこう語りかけた。

「私なら大丈夫ですよ。それに文恵おばさんからも頼まれてますしね」

 マイさんは折りたたみのイスを引っ張り出して私の隣に座った。

「もう少し詳しいお話を聞かせてもらってもいいですか?」

 マイさんはにっこりほほえみながら私に語りかけてくる。なんだか魔法にでもかかったみたい。気持ちよく私の口から言葉が出てき始めた。

「実は…私ちょっと前に離婚したんです。元夫のDVで。それで男性に恋なんてできないって思っていたんですけど。でも先日文恵さんの紹介でお会いした男性にちょっと心惹かれてしまって…」

 言いながらなんだか恥ずかしくなってきた。けれどマイさんは私の言葉を真剣に受け止めてくれている。

「そうなんですか。恋をするって、とてもすてきな事だと思いますよ。けれどさっきのシェリー・ブレンドの味から見ると、その恋の進展を何かが拒んでいるって感じでしたね」

「えぇ、そうなんです」

「何がそうさせているって思いますか?」

 マイさんに言われて考え込んでしまった。私の中の何が聡助さんに向かうことを拒ませているのだろうか? 考え込んでいる私に、マイさんがこんな一言を。

「もう一度シェリー・ブレンドを飲んでみてもらえますか?」

 私は言われたとおり、シェリー・ブレンドをもう一口飲んでみた。すると、今度はさっきとは違った感覚が頭をよぎった。

 一瞬見えた映像がある。それは優しさと温かさに包まれたもの。けれどその後、別のものがそれをはねのけた。その別のものとは、暴力と憎悪。私の中でトラウマとなっているもの。その原因はわかっている。元夫のDV。元夫も最初は私には優しく温かかった。でもどこで狂ってしまったのだろう。彼は外面は良い方で、近所の評判もそれなりに高かった。だから私が元夫のDVを話しても、誰も信じてもらえないと思った。そうして気がつけば彼の暴力に一人で耐える日々を送るようになっていた。もう男の人を愛せない。いくら信じてもいつかはそうなってしまう。そんな強迫観念にとりつかれている。そう思ったら突然涙があふれてきた。

「大丈夫ですか?」

「あ、はい…大丈夫です」

「何かイヤなことを思い出させてしまったのかな。ごめんなさいね」

「いえ、マイさんは悪くありません。実は…」

 私の口からは自然と今心の中で感じたものが言葉になっていた。

「そうですか、そんなことがあったんですね。そしてそれが今のみくるさんの行動を拒んでいる。いや、行動だけじゃなくその思いにもフタをしている。そんな感じを受けました」

「たぶんマイさんの言う通りです。どうしたらいいんでしょうか?」

「そうですねぇ…」

 マイさんはきょろきょろと辺りを見回した。そして何かを見つけたみたいで、立ち上がって窓際にある何かを取りに行った。そして戻ってきたときには木でできた人形を手にしていた。

「これ、お客さんからもらった手作りの人形なんです。ちょっと不思議な力を持っていて、自分の思いを代わりに相手に伝えてくれるんですよ」

「代わりに伝えるって、どうやってですか?」

「今の自分の思いを紙に書いて、この穴に入れるんです。そうしたらこの人形が相手の夢の中で思いを伝えてくれるって」

 まさか、そんなことが。そう思ったが、マイさんは真剣な目つきで私にそう説明をしてくれたから、ウソではないようだ。

「じゃぁ、私の今の思いを紙に書けばいいんですね」

「えぇ。でもかなり真剣に、そして詳しく書かないと効果はないみたいですよ」

「真剣に、詳しく、ですね」

 そうしてマイさんは紙とペンを用意してくれた。それから私が書いたもの。それはさきほどマイさんに話した自分の過去とそのときの思い。そして今欲しいと思っているもの。それは自分を立ち直らせてくれる優しさ。けれどそれが欲しくても、そこに飛び込む勇気がないこと。書けば書くほど、自分の思いが支離滅裂になってくるのがわかる。途中で筆が止まってしまった。

「私、何を求めているんだろう…」

 私の様子をじっと見つめてくれていたマイさん。ここでまたこんな事を言ってくれた。

「みくるさん、まだシェリー・ブレンドが少し残ってますよね。これに頼ってみませんか。今のみくるさんが求めているものが見えるかもしれませんよ」

 私は黙ってうなずき、残っているシェリー・ブレンドを一気に飲み干した。そのときに感じたもの。それは柔らかな太陽の光。そして草原にそよぐさわやかな風。その中で私は安らかに眠りについている。そんな光景だった。

「そうか、そうなんだ…」

 シェリー・ブレンドが見せてくれた情景から、私はある点に気づいた。そして書いた文章がこれだ。


『私は今、包まれたいのです

 優しさと希望、温かさと安らぎに

 そこには愛があふれています

 その愛に私は包まれていたいのです』


 愛、か。

「あらためて書いたものを読んで、どんな気持ちがします?」

 マイさんに言われてもう一度自分の書いた文章を読み直した。書いたときには必死だったけれど、あらためて読むと恥ずかしいな。けれど、そこに書かれてある文章が自分の本音なんだってことに気づいた。そのことをマイさんに伝えたら、こんな言葉が返ってきた。

「じゃぁどうしましょうか?」

「どうしましょうかって?」

「それだけの気持ちがあるんですから。何か始められるんじゃないかって思うんですよ」

 何かを始める。なんだろう? それを頭の中で一生懸命考えた。ここで私の頭の中に浮かんだのは、まずは聡助さんにメールを送ること。今日届いたメールの返事をまだしていない。本当なら聡助さんにこの喫茶店につれてきてもらうはずだったのに。

「私、メールを送ります」

 そう言って、バッグから携帯電話を取り出した。マイさんは静かに私を見守ってくれている。おかげでなんだか安心してメールを打てた。

『聡助さん、お返事が遅れてごめんなさい。明日の日曜日、ぜひ喫茶店へ連れて行って下さい。』

 たったこれだけの返事。けれどこれを送る決断をするのに、こんなにも時間がかかってしまった。

「これでいいですか?」

 私はメールを送信する前にマイさんにそれを見てもらった。

「ん、大丈夫ですよ」

 マイさんのその言葉に少し自信を持った。そして思い切って送信ボタンを押す。すると、今までどこかに入っていた体の力が一気に抜けていく気がした。

「みくるさん、なんだか晴れ晴れとした顔になっていますね」

 マスターがカウンター越しにそう言ってくれた。

「うん、お店に入ってきたときはとても緊張して動きもぎこちなかったけど。今の顔はとってもすっきりしているね」

 隣に座っていた常連客らしき人からもそう声をかけられた。

「じゃぁこの手紙は人形のここに入れておきますね。思いが通じるといいですね」

 マイさんは私が書いた手紙を折りたたんで、人形の背中に入れようとした。

「あ、待って」

 私は思わずそう声を出した。なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。けれど、その後私の意志とは関係なく言葉が口から出てきた。

「私…私、自分で伝えます。明日、彼と一緒にこのお店に来ます。そのときに私の気持ちを直接伝えてみます」

「それはいい。じゃぁ話がしやすいようにそこのテーブルを予約席にしておこうか?」

 マスターは好意的にそんな提案をしてきた。

「いや、そこまでは…」

「マスター、ホント女心がわかんないんだから。予約席なんかにしてたらバレバレになっちゃうでしょ。大丈夫ですよ、そのときは私がうまくやりますから。安心して下さい」

 マイさんのその言葉にちょっとホッとした。そうしていると携帯が鳴った。メール着信の音だ。おそるおそる携帯を開いてみる。聡助さんからの返事だ。

『お時間は十三時くらいでいいですか? 待ち合わせは駅前の噴水のところで。あそこのクッキーがおいしいのでぜひ食べさせてあげたいですよ。楽しみに待っています。』

 その言葉を見て、急に心がはずんできた。私はすぐに返事を打つ。

『はい、わかりました。私も楽しみにしています。』

 自然とそんな言葉が頭に浮かび、そして指が動いていた。不思議だ。たったそれだけの事ができなかった私だったけれど、このカフェ・シェリーに来て一歩前に進めた気がする。

「彼からかな? なんて返事をしたんですか?」

 マスターが興味深そうに聞いてくる。するとマイさんがまたこんな言葉を。

「まったく、マスターは女心がわかってないなぁ。こういうのはプライベートなんだから、野暮なことを聞かないの。今のみくるさんの表情からわかるでしょ。男ってデリカシーないんだから」

 私はマスターとマイさんのやりとりを見て、とてもうらやましくなった。お互いに信頼し合っているからこそ、こんな風に言えるんだなって。これも一つの愛情表現なんだよね。私にもまたこんなふうに言い合える相手が現れるのかしら。できれば聡助さんとそうなりたいな。

「マイさん、マスター、今日はありがとうございました。明日は私は初めてここに来たってことになってますから。よろしくお願いします」

「了解。ところでお相手の方って、ここに来たことがある人なんだよね?」

 マスターのその問いかけに聡助さんの言葉を思い出した。

「そう言えば、仕事一辺倒だった自分の人生をここで変えてもらったって言ってましたけど」

「あ、それってひょっとして木下さんのことかな?」

「はい、木下聡助さんです」

 私の言葉にマイさんが反応した。

「あの人ならまじめで優しそうで、そしてかっこいいし。とてもマスターと同じ歳には見えなかったなぁ」

「おいおい、それじゃ私がまだ幼いってことか?」

「だって、こんなに美人で若い奥さんがいるんだから、ね♪」

 ふふふ、ホントにこの二人は愛し合っているんだな。

「じゃぁ話は早いな。木下さんなら私たちも知っているから安心できますよ」

 なんかホッとした。それと同時に、明日のことを思うと胸がドキドキしてきた。明日、自分の気持ちをちゃんと聡助さんに伝えられるかしら?

「そういえばバレンタインに渡すチョコレートはあります?」

「えっ!?」

 マイさんに言われて気づいた。今日ってバレンタインデーだったんだ。一日遅れになるけど、やっぱり聡助さんに渡すべきよね。

「あ、そんなの何年もやってないから、全然頭になかったわ」

「それじゃぁ私から一つ提案。今から手作りってのは難しいでしょうし、市販のものを渡すのも野暮でしょうから。これ、使って下さい。百均にでも行けば、箱と包装紙のいいのがありますから。それに詰め替えてみて。そして、その中にさっき思ったことを手紙にして入れてみて下さい。きっとうまくいきますよ」

 そう言って手渡されたのは手作りのショコラ。

「あ、じゃぁお金をお支払いします」

「いえ、いいんですよ。これはちょっと試しに作ってみたものですから。毎年バレンタインの日に男性のお客様にチョコレートは渡しているんですけど。今年はちょっと凝ったものを作ろうと思って試作したんです。でも大量に作る暇が無くて。試作品で申し訳ないけど、これ使って下さい」

「それじゃぁありがたくいただきます。ありがとうございます」

 私は深々と頭を下げ、マイさんとマスターにお礼を述べた。

 カフェ・シェリーからの帰り道、足取りがとても軽くなっていることに気づいた。なんだろう、このウキウキ感は。いつ以来感じるのかな。そして家に帰り早速聡助さんに手紙を書く。ラブレター、なんてもんじゃないけれど。とにかく今の気持ちを何かに書き留めておかないと、逃げてしまいそうな気がして。

「これでよし。あ、しまった、箱を買うのを忘れてた!」

 ちょうどあわてふためいているときに長女が帰宅。

「お母さん、あわててどうしたの? あ、あれってチョコレート?」

「だ、ダメよ。あれは大事な人に渡すものなんだから」

「ふぅん、大事な人ねぇ。それにしては品粗な箱よね」

「それを買いに行くのを忘れたからあわててるのよ」

「まったく、お母さんは世話がやけるなぁ。ちょっと待ってて」

 そう言って長女は二階の自分の部屋へ。程なくして手に箱と包装紙を持って降りてきた。

「はい、これ使いなよ」

「いいの?」

「うん。今年の友チョコで使った余りだから。それにお母さんの恋の一大事なんだから。娘が応援しなくてどうするのよ」

「あ、ありがとう」

「あ、その代わりうまくいったら私にもちゃんと報告してね」

「わかったわよ」

「で、いつ渡すの、それ?」

「うん…明日なんだけど」

「じゃぁ明日は私がちゃんとコーディネートしてあげるから。ね、いいでしょ」

 なんだかんだ言って、私で遊んでるな。どっちが子どもだかわからないな。でもうれしい。

 そして翌日の日曜日。

「これでよし。お母さんもまだまだいけてるわよ」

「でも…ちょっと派手じゃない?」

「今までが地味すぎたの。このくらいしないと、男の人なんか落とせないわよ。じゃ、いってらっしゃい!」

 娘に送り出されて待ち合わせの駅前噴水まで来た。時間までもうちょっとある。急に胸がドキドキしてきた。手にはチョコレートの箱。中には私の気持ちが詰まった手紙が入っている。本当に渡せるかしら。そして、また男の人を愛せることができるかしら。また裏切られるんじゃないか…でもそんなこと恐れてたらダメ。とにかく今の自分に素直になろう。もし今日何かあっても、マスターやマイさんもついてくれているし。あー、でも…やっぱり不安。もうここからいなくなりたい。

 そう思って、つい足が来た道を引き返そうとしたそのとき。

「みくるさん、お待たせしました」

 手を振りながら聡助さんが走ってきた。もう逃げられない。どうにでもなれっ!

「みくるさん、今日はなんだかとてもステキですね。この前見たときよりもなんだか輝いて見えますよ」

「あ、ありがとうございます」

 それ、みくる、今よ。早くチョコレートを渡さなきゃ。

「あの…その…これっ」

 思い切って両手を聡助さんの前に差し出した。手の先にはもちろんチョコレートの箱。

「これ、私にですか?」

「い、一日遅れですけど…」

「うわぁ、うれしいなぁ。今は義理チョコすらもらえない身分だから。中、見ていいですか?」

 えっ、中には手紙があるのに…それは困る。でも聡助さんは私の返事を待たずに箱を開けてしまった。中の手紙。聡助さんはそれをとりだし、黙って読み出した。はずかしいっ。私は後ろを向いてしまった。そしてしばらくして…

「みくるさん、ありがとう。すごくうれしいですよ。こんな私でよければ、ぜひこれからご一緒させて下さい」

 そして聡助さんはそっと私の手を握ってくれた。これでまた男の人を愛せるかもしれない。今度こそ、信じていいかも。

「さ、カフェ・シェリーへ行きましょう」

「はいっ」

 マスター、マイさん、私にこんな勇気をくれてありがとう。


<愛し方がわからない 完>

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