中学生になると忘れたいことばかり
「みっちゃん、ごめん。数学の教科書忘れちゃったから貸してくれない?」
「また?」
5月に入って2回目だ。隣のクラスの侑斗は忘れ物をすると、すぐに私に借りに来る。このクラスにもサッカー部はいるんだから、そっちに借りてくれ。心中で文句を言いながら、2時間目で使ったばかりの教科書を手渡す。「助かった!」と去っていく幼馴染を見送ると、廊下を歩いている女子と目があった。……あの子は去年、侑斗と同じクラスだった気がする。ささっと自分の席に帰り、3時間目の準備をした。
「遅かったねー。おかえり、瑞穂」
昼休みが終わるギリギリ、5時間目の開始直前。図書室から帰ってきた私に間延びした声がかかる。
「ただいま」
この前の席替えで後ろの席になったのは、クラスで仲の良い加奈子だ。所属は同じ美術部。私は絵が上手いわけではないが、うちの中学校では必ず部活に入らなければならない。のんびりした雰囲気の美術部は性に合うようで、この1年なかなか楽しくやれている。読んでいた本を閉じた加奈子がちょいちょいと手招きした。
「3組の橋本さん達、ついさっきまでいたよ」
「やっぱり?」
「確信犯か」
顔を寄せながらコソコソと話す。英語の先生はまだ来ない。このパターンは多分遅れてくるな。
「他のクラスの女子が来そうなときに限って、瑞穂はいなくなるし。いつもいつもいないせいで"本当にどこ行ったのか知らない?"って問い詰められるのは私なんだからね」
大変な目にあったと言わんばかりだが、しれっと「さあ?」と言いのけてしまうのが加奈子である。その後はずっと知らんぷりで本を読んでいただろうに。しかし、余計な手間をかけたのは事実なので、謝っておく。思春期を迎えた女子の集団は、小学生の頃よりずっと面倒だ。架空の好きな人程度じゃ、騙されてくれそうにない。
「でも、あの人たちが気にするのは分からんでもない。足立くんと仲良いよね。小学校同じなんだっけ?」
「そう。付き合いは幼稚園からで、今も隣の家」
「家近っ! じゃあ普段も遊んだりとかするの?」
「遊ぶって言っても、漫画読んだりゲームしたりするぐらいだけどね」
「へー、意外。足立くんも漫画とか読むんだ」
「昔からわりと何でも読むよ。うちのお父さんも漫画好きで、家に色々ある」
私の少女漫画とかもたまに読んでる。見られたくないものは隠してるけど。オタクにだって、身内にバレてもいい領分とバレたくない領分はある。つい最近、私は今世で初めての乙女ゲームを買った。今まで貯めてきたお小遣いを握りしめ、自転車で休日にこっそりと。「みっちゃん、どこ行ってたんだ?」と父に聞かれたときはヒヤヒヤしたものだ。……そんな思いをしたにも関わらず、パッケージ買いしたゲームはハズレ……。イラストは好みなんだけど、どうもキャラの設定が自分に合わないみたいなんだよね。神経質そうな儚げ美貌の眼鏡キャラだと思ったのに、なんで敬語で喋らないわけ? それに加えて神官ときたら、普通はヤンデレ属性入ってるはずだろ! そんなわけで、私は推しキャラにまだ出会えていないのだ。
せかせかと先生が駆け込んできたので、二人揃って口を閉じた。
家に帰ると、玄関に白いスニーカーがあった。私や母親の靴より大きい男物。スポーツブランドのものなんて、父親は履かない。母の返事がないのでリビングに行くと、冷蔵庫にメモが貼ってあった。
「"ちょっとクリーニング屋さんに受け取りに行ってきます"? 無用心なんじゃないの」
戸棚を開けると、昨日まであったスナック菓子の袋がなくなっている。二階に上がり、私は一息ついてから自室のドアを開けた。
「おかえり、みっちゃん」
「……ただいま。何でいるの?」
「今日は部活が休みだったから」
予想通り、部屋の中では制服姿の侑斗が漫画を読んでいた。ミニテーブルの上には、ちゃんと皿に盛られたスナック菓子。母め……、腹いせで3枚一気に取る。
「みっちゃんのお母さんはクリーニング屋に行ってくるって」
「知ってる。メモに書いてた」
パリパリ、パリパリ。咀嚼音だけが部屋に響く。私はゴクンと欠片を飲み込んで口を開いた。
「あのさ……。いきなりで悪いんだけど、学校でみっちゃんって呼ぶのやめてくれない? なんか子どもっぽい気がするし」
「そう? 俺はそう思わないけど」
「私はそう思う」
大体、私のほうは学校で足立って呼んでるし。
じゃあ……、と侑斗は口を開いた。
「瑞穂」
……いや、と私も口を開いた。
「名前はちょっと」
「それなら、なんて呼べばいい?」
「普通に本田でいいじゃん」
「名字はみっちゃんのお母さんのイメージが強いんだよ」
あーでもない、こーでもない。結局、「呼び方なんて誰も気にしない」という侑斗の言葉によって、話し合いは打ち切られた。……気にする人は、確実にいる。でも、それについて私から踏み込むことはできない。パリパリとお菓子をつまんでいると、本棚を物色していた侑斗が「あっ!」と声を上げた。何だ。
「この漫画、来月から映画が公開されるよね。俳優も豪華みたいだし、面白そうじゃない? 一緒に見に行こうよ」
「行かない。人混み嫌いだもん」
地元のショッピングモールなんて、誰かいるに決まってる。侑斗と二人でいるところを見られたりでもしたら、どんな噂になることか。
「えー」
「他に誰か誘ってみれば?」
侑斗が見に行きたがっている映画の原作は、異能力バトルものの少年漫画だ。そこそこ有名なので原作を読んでいる男子もいるだろう。いや、ガチなファンだったら逆に見に行かない可能性もあるか? 実写化はイメージと違った、って意見がつきものだし。でも、私は読んだことある作品だと、キャストはついチェックしちゃうな。舞台化されてる乙女ゲームだって一度ぐらいは見てみた……いや、待てよ。目の前にいるじゃん、実写化された攻略対象。これがシナリオ通りに動くわけでしょ? 記憶にある足立侑斗のルートといえば、ゲームセンターでぬいぐるみを取ってもらうシーン。言われたセリフが確か……。
バフンッ。
「何やってるの、みっちゃん」
「何でもない」
クッションに顔を埋めたまま、怪訝そうな侑斗に答える。…………私はやっぱり二次元派だ。乙女ゲームのセリフなんて、現実で聞くようなもんじゃない。
それから、あっという間に夏休みになった。
「暑っ……」
校舎から出た私は眉をしかめる。見上げた先には混じり気のない青空とソフトクリームのような入道雲。まだ午前中だというのに、太陽が燦々と照りつけていた。今年は猛暑と言われるだけあって、肌にまとわりつく空気さえ高温に感じる。室内も十分暑いと思っていたけど、扇風機が回っていただけマシだった。走り回っている運動部はすごい。
「何描こう……」
手に持った画板の画用紙は真っ白である。夏休みの宿題は風景画。先日まで美術部のほうの課題に取り掛かっていたため、宿題には手をつけていなかった。学校内の風景なら、夏休み中に部活で仕上げられるはず……という安易な考えである。グラウンド? 中庭? それとも校舎? なかなか描くものが決まらずフラフラ歩き回り、校舎の壁に上手く朝顔が絡みついている角度を見つけた。あとはスケッチするだけだ。
「ここまで、描ければいいかな……」
夢中で書き込んでいた下絵を見直すと、ポタリと汗が首から流れ落ちた。画板から顔を上げた拍子にグラリと視界が揺れる。…………なにこれ、きもちわるい。吐きそう。クラクラする……。頭を抱えてうずくまる。吸い込む空気が熱い。お茶を、とは思うけれど水筒に手を伸ばす気力はなかった。
「みっちゃん!?」
「……ゆう…と……?」
慌てた声が聞こえる。「どっか体調が悪いの!?」という問いに何とか頷く。しゃべったら、はきそう。気持ち悪さを必死で耐えていると、そっと肩を抱き寄せられた。
「……俺が保健室まで連れて行くからね。持ち上げるよ」
そう耳元で囁かれたあと、ぐいっと身体が持ち上げられる。絶対、重いに決まってるのに……。軽々と私を運ぶ侑斗は、いつからこんなに大きくなったんだろう。思わず掴んだTシャツからは、ほのかに汗と制汗剤の香りがした。
結局、母が迎えにくるまで侑斗はずっとついていてくれた。いくらか具合が落ち着いた私は、彼に向けて声を絞り出す。
「……迷惑かけてごめんね」
「迷惑なんか一つもかかってないよ。そんなことより、みっちゃんが無事でよかった」
優しく見つめてくる瞳から逃げるように、そっと目を伏せる。
「助けてくれてありがとう」
吐息が白い。
「みっちゃん、おみくじどうだった?」
「…………凶」
「…………え」
年明けの初詣は足立家と本田家、そろって行くのが何となく恒例になっている。子どもたちがおみくじを引いている間、大人たちは甘酒を飲みながら談笑していた。
「だ、大丈夫。たとえ凶でも、みっちゃんが受験に受からないわけがないし!」
中学生活最後の冬。高校受験までは、残り3ヶ月を切った。
「侑斗は何だったの?」
「……俺は大吉」
どれどれ、とおみくじを見せてもらう。
「願望、強く願えば全て思いのまま。学問、案ずることなし……ね。いいこと書いてあるじゃん」
侑斗はでしょ、と笑った。
「うん。だから、絶対みっちゃんも大丈夫だよ。俺、みっちゃんと一緒に高校行くって決めてるから」
幼馴染の志望校は、公立緑ヶ丘高校。このあたりでは偏差値もそこそこ高く、スポーツにも力を入れている。制服が可愛いので、女子の人気も高い。侑斗も私も学力的には妥当なところだ。
「おみくじ、結びに行こうか」
彼に手を掴まれ、人混みをかき分けながら進む。……しっかりと握られた手。この意味がわからないほど、私は鈍くないつもりだ。鈍感な乙女ゲームの主人公にはなれない。
侑斗から恋情めいたものを向けられていることには、ずっと前から気づいている。
幼馴染との恋なんて、あまりにも使い古された展開だ。でも、私たちの場合は違う。侑斗が人見知りの頃に出会って、男子にいじめられていたのを助けて、ずっと一番近くにいたのが私だから。生まれてしまった感情はきっと刷り込みに似ていた。同年代の子どもよりも、幾分か大人びていた自覚はある。たまにうっとうしいと思ったこともあるけれど、懐かれること自体に悪い気はしなかった。けれども、このままでいい訳がない。彼は、この勘違いをいつまで続ける? 高校? 大学? ……まさかその先も?
そんなのは私が耐えられそうにない。
中3になったとき、緑ヶ丘高校を受験しないことを決めた。必死に勉強して、さらに偏差値が上の高校のボーダーをやっと超えたのが12月。相談していた先生からも、これならいけるだろうと言われたところだ。「落ちたら恥ずかしいから、誰にも言わないでほしい」と親には頼んでいる。
緑ヶ丘高校に行けば、それこそ主人公みたいに可愛くて性格のいい子だっているはずだ。私と一旦離れれば、侑斗だって他に目を向けるようになる。本当は、もっと早くに距離を置くべきだった。
忘れもしない、小6のバレンタインデー。
侑斗にチョコレートをあげてしまったことは今でも後悔している。
「ここに結ぼうかな」
握られていた手をパッと離す。凶のおみくじは結び所にしっかりと結びつけた。"願望 己に正直になれば叶う、勝負 負けるが勝ち"。私は負けるつもりなんてない。
そして3月。私は勝負に勝った。