第五話 贈り物
――ボダ森林中央部 ブラット家ログハウス――
朝日が昇り、瞼を照らす。小鳥が目を覚まし、さえずりが鼓膜を震わせる。新しく家族として迎えられた二人の日常は、そんなありふれた自然の目覚ましからいつも始まった。
着替えを済まし、朝食を作り、食器を洗い、寝床を整え、箒と雑巾を携えて家中を掃除する。そうしてせっせと働くだけで、午前中はあっという間に過ぎていった。
以前の生活であったなら、朝食は少なくても多くても文句を言われ、一言も「美味しい」などと言われたことはなかった。いくら掃除や洗い物をしても、ほんの少し汚れがあるだけで拳が飛んできた。何をするにしても、暴力と暴言を振るわれていたのだ。とてもではないが、そんな状況でまともに働けるはずもなく、次から次へと仕事が溜まっていくばかりの毎日だったのである。
それに比べればここはあの二人にとって棲みやすい環境だろう。始めこそ失敗しても咎められることがなく、むしろ出来ないことを励ましてくれる彼らに戸惑いを覚えたものだ。まあ、あの二人は出来ないことの方が少なかったが。
ここには直ぐに罵倒する叔母も、拳を振るう叔父も存在しない。
それどころか、新たに心の支えを得た二人は正に無敵と言って等しい。それまでの経験からくる家事の腕が活かされ、何かと忙しい日和やハールスに大きく貢献していたのである。幼い身体には十分過ぎる恩返しと言えるだろう。むしろ、最初の頃はトラウマになりかけていた過去の経験がここまで役立つことに二人とも驚いていたくらいだ。
「よい……しょ……!」
「ん……!」
正午前。二人が運んでいたのは、シャツやらローブやら下着やら、衣類がいっぱいに積まれていた洗濯籠であった。しかも既に洗濯済みもので濡れているから重量も相当だろう。それをひっくり返してしまわないよう、二人は協力して慎重に丁寧に運んでいたのである。
「ごめんね~、二人とも。もうすぐお昼の時間だっていうのに、お洗濯手伝ってもらっちゃって」
彼女達の跡を追うようにして、更に大きな籠を抱えた日和がどさっと音を立てて二人の近くに置く。こちらも中を覗いてみれば大量の衣類がどっさりと積まれていた。
「いえ、大丈夫です。日和様もお忙しいことは重々承知していますので。私達でよければ、いつでも申し付けてください」
「昼食も後で私達で作るから、問題ない」
「だめよミオちゃん。ちゃんと休まなきゃ。貴女達、ここに来てからずっと働いてばかりじゃない? 疲れてないの?」
日和のその言葉に、アキラとミオは心底驚いたような顔をした。
「え、でも。私達は使用人ですし、休むよりも働いた方が……」
「何言ってるの! そりゃあ、お手伝いしてくれるのはありがたいけれど、使用人である前にあなた達はまだ子供でしょう? 本当なら、元気に遊んでいても文句は言われない歳なのだからね?」
と、そこまで言い切ってから、日和は自分の発言が失言だったことに気付いて口を塞ぐ。しかし、口に出した言の葉を撤回できるはずもなく、彼女にはもう謝ることしかできなかった。
「あ……ごめんなさい。今の言葉は失言だったわ。忘れて頂戴」
「ひ、ヒヨリ様!? どうか頭を上げてください! そのことはもういいんですっ」
「私達、もうそのことは気にしてない。嫌なことはあったけど、でも、それで今ここにいるから。だから、顔を上げてほしい」
頭を下げる日和に、逆に二人があたふたしてしまう。というのも、二人には大人に頭を下げられるという経験がなく、彼女達自身どうしたら良いのか分からないからなのだろう。
とはいえ、かつての生活はこの二人にとって確かに思い出したくもない記憶ではあることは事実だ。だが、それまでの経緯があって今の出会いがあり、その時の経験があって今こうして役に立っているのだから、そこまで忌まわしく感じていないのもまた事実なのである。
「そう……? わかったわ。でも、休みはちゃんと取りなさい。これは薬師としてのアドバイスです」
「は、はい。ヒヨリ様がそうおっしゃるのなら……」
「……ん。わかった」
その時、北風がひゅるりと吹き付け、三人の肌を刺激した。
「へ、へくちっ」
身を震わせ、可愛らしいくしゃみをしたのはアキラだった。
「あらまあ。アキラちゃん、風邪?」
「違う。アキラ、寒いのが苦手になっただけ」
「ちゅびばじぇん。びよりぢゃば」
「あらあら、まあまあ。ほら、これ使いなさい」
日和はポケットからちり紙を取り出し、鼻声になるアキラに、ちーん、と鼻をかませてやった。
「はう、ありがとうございます……」
「疲れていると、風邪になりやすくなるわよ。やっぱりあなた達は一度思いっきり休んで、思いっきり遊ぶ時間を作らなきゃだめね。その為にも―――」
日和はちり紙をポケットに戻すと、袖を捲り、太陽に向かって大きく背伸びをする。
空を見上げれば、雲一つない晴天だ。風が少し冷たいのは時期的に仕方が無いが、実に爽やかで日当たりも良い。確かに、洗濯物を干すには絶好の気候と言える。
「うーん! 今日はいいお天気ね~。こんな日はちゃっちゃとお洗濯を終わらせて、一息つかないとね!」
「はい!」
「……ん!」
日和の母親らしい気概に満ちた激励の下、アキラとミオは早速仕事に取り掛かった。
まずは物干し台を組み立てる所からなのだが、今回は先にその工程を済ませているので、籠から洗濯物を取り出して干す所から始めた。
ただ、日和はともかくアキラとミオは身長的に竿まで手が届かないので、そこは予め用意しておいた台に乗って行っていた。
以前の家での経験からか、二人の仕事は六歳としては異様に早い。長年家事をやってきた日和に勝るとも劣らない素晴らしい手際だ。きっと十年後は更に上達している事だろう。
それもあって、三十分も経たない内にあれだけあった洗濯物も残りあと数着という所まで終わっていた。物干し竿には風にさらされた洗濯物がゆらゆらと揺れていたが、赤やら黒やら色んな色の服があるので、残念ながら真っ白な洗濯物が並んでいる、という構図は生まれそうにない。
と、ここまで順調に作業が進んでいた所なのだが、家の中から何やら泣き声が聴こえることにミオが気付いたようだ。
「……ん? ヒヨリ様。赤ちゃん、泣いてる」
「え!? あらまあ大変! アキラちゃん、ミオちゃん、後は任せて大丈夫かしら? 終わったら……そうね。ハルキの所に行ったらどうかしら?」
「はい、わかりました!」
「……ん」
慌てふためく日和に二人が了解の意を伝えると、彼女は急ぎ足で家の中へと向かった。
あの日、ブラット家に入った新たな家族はアキラとミオの二人だけではなかった。
それは遡ること一週間前、二人が家族として正式に迎えられたその直後の事。
―――――――――――――
「あの、ご主様。ずっと気になっていたのですが」
「うん? なーに?」
「ヒヨリ様って、お腹に赤ちゃん、いる……?」
それは二人にとっては、ほんの興味本意の問いだった。
女の子だろうと男の子だろうと、好奇心旺盛な子供にとって初めてみる妊婦というものは、気になって仕方がないものなのだろう。
そんな二人の問いに対し、ハルキは心底嬉しそうな顔をして答えた。
「うん、そうなんだ! また女の子なんだって。妹はもうリョウとコトネがいるけど、それでもうれしいんだ! だって家族が増えるんだもん。今はアキラとミオもいるし、きっとこれから、もっと楽しくなるんだろうなぁ!」
一切の嘘偽りも無く、ただ純粋に家族が増える喜びを彼は熱く語った。そこにさり気無く自分達も加わっていることに、二人は密かに喜びを感じていた。
「家族、好きなんですね」
「うん! だって皆といると楽しいじゃん! 父さんと母さんは、いつも仕事が忙しいって言うけど、とっても優しいし、リョウとコトネはちょっとイタズラ好きだけど、一緒にいると寂しくないし」
横で聞いていたハールスと日和が、互いに顔を見合わせた。息子の抱いていた思いにちょっと驚いていたようで、自然と頬の角度が上がっていた。
因みに、この頃リョウとコトネは遊びて疲れていたのか、お腹が膨れて早々に眠ってしまっていた。
その後もハルキは淡々と自分の家族について語っていたが、最後にこう呟いたのである。
―――だから、早く産まれてこないかな
「―――ぐっ……!?ううう……」
突然、なんの前触れもなく日和が腹部を抱えて苦しみだした。
「ヒヨリ、どうした!? まさか……陣痛か!?」
「え、ええ……おかしいわね……まだ一ヶ月、あると思っていたのに……」
「無理するな。立てるかい?」
「な、なんとか……」
「僕が支えるから、とりあえずベッドまで行こう」
ハールスは陣痛に苦しんで蹲る日和を立ち上がらせた。母体に無理をさせないよう、お腹の娘を刺激しないよう、ゆっくりと慎重な足取りで寝室へと向かう。
「ハルキ、タオルを持ってきなさい。ありったけだ」
「う、うん。わかった!」
「お手伝いします!」
「……ます!」
それからというもの、出産には数時間を費やし、無事産まれた赤子はハルキによって“アリサ”と名付けられた。
―――――――――――――
あれから一週間が経った。日和はアリサに付きっきりであり、まともに家事に手が付いていない。彼女曰く、リョウとコトネより我儘で手が掛かっているらしい。
因みに、ハルキは昔から大人しい子だったらしく、あまり手が掛からなかったそうな。
普段、彼女が家事で忙しい時は面倒見の良いハルキが妹達の面倒を見ているのだが、それもいつでもできるというわけではない。
錬金術師の技術は代々受け継がれていくものであり、それはブラットの家も例外ではない。もちろん、師弟の関係によって血の繋がらない者に継承されたり、あるいは独学で錬金術師になった例も当然存在する。
つまり、幼いながらも父のような錬金術師を目指す彼は、日々修行中の身なのである。
だからこそ、今の日和にとってアキラとミオのように家事を手伝ってくれる存在は、結果的に願ってもない働き手だったわけだ。
それは二人も理解しているようで、今もこうして日和の分までよく働いてくれている。
そんな彼女達の耳には、日和と入れ替わるようにして現れた彼の呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい! アキラ~! ミオ~!」
最早すっかり聞きなれた愛しい主の声に、二人の仕事の手がピタリと止まった。
「あっ、ご主人様! 何か御用ですか?」
「なんなりと」
ぱあっ、と目を輝かせたアキラは手に洗濯物を持ったまま小走りになって彼の下へと向かった。その様子はまるで子犬の様で、尻尾でもあったら元気に振っていそうな勢いだ。
一方、ミオは冷静に籠に洗濯物を戻してから駆け寄り、礼儀正しく頭を下げた。
「うん! えっとね、洗濯物が終わったらでいいから、後で父さんの工房に来て欲しいんだけど、いいかな?」
工房というのは、要は研究室の事だ。一般的には、画家や音楽家などの芸術家が使う仕事場の事を指す言葉で、魔術師や錬金術師が使う工房も同じと考えて良い。
「わかりました! もうすぐで終わるところなので、ちょっとだけ待っててくださいね」
「……ん。すぐ終わらせる」
二人は了解の意を示すなり、直様残りの仕事に取り掛かった。その勢いは凄まじく、まるで再生速度を倍にでもしたかのように迅速に、かつ丁寧に洗濯物を干す手際は流石としか言いようがない。
「―――終わりました!」
「―――ん。完了」
残りが少なかった事もあるだろうが、全ての洗濯物を干し終わり、籠まで片付けるのにも数分と掛かることはなかった。これも一重にハルキの存在あってのことであろうか。
そうして、仕事が片付いた二人を連れて、ハルキは工房へと向かった。
工房はこの家の地下に建設されており、庭からログハウスの壁に沿ってぐるりと半周すると、そこに地下に続く扉がある。周囲には屋根や手すりになるよう石積みで囲まれ、遠目からみてもそこそこ目立つようになっていた。
扉と言っても、出入口としては狭い部類だ。今の彼らにとっては丁度良い広さかもしれないが、将来大きくなった頃になると、きっと苦労する事だろう。
「うわぁ。真っ暗ですね」
「先が見えない」
扉を開けると暗闇に太陽の光が差し込まれ、地下に続く階段が露わになった。如何にも陰険な魔術師が住んで居そうな雰囲気を醸し出し、まるで入口が無垢な子供達を呑み込もうとしている思えるくらい奥が真っ暗だ。まあ、居るのは魔術師じゃなくて錬金術師なのだが。
「うん。初めは怖かったけど、今はもうなれっこだよ」
そう言うと、ハルキは慣れた足取りで暗闇に堂々と足を踏み入れ、それに追従してアキラとミオも迷うことなく階段を降りる。
最後に入ったミオが扉を閉めると、光が遮られて足下も見えないくらい暗くなってしまうが、直ぐに灯りが付いた。
それは松明の炎でも、燭台の灯火でもない。台座に設置された赤い石が淡い光を放つランプであった。
「ご主人様。何ですか?これ」
アキラがそのランプに興味を示して指を差す。
「これはね、父さんが作った火の魔石のランプだよ。近くを誰かが通ると明るくなるんだって」
補足をしておくと、このランプは近くを通る魔力を感知して点灯する。この世界の人間、或いはそれ以外の獣にすら、多かれ少なかれ魔力を保有している。このランプはその中でも人間以上の魔力を感知する代物だ。逆に、魔力が遠ざかって行くと、自動的に消灯する仕組みになっている。
しかし、灯った明かりは左右に一対のみ。その先は未だ暗闇に閉ざされていた。
「本当に真っ暗ですけど、ご主人様は大丈夫なんですか?」
「足元、気を付けて」
「大丈夫だよ。いつもここ通ってるんだか―――らあっ!?」
余裕振って暗闇の階段を下りるハルキだったが、二人と話して足元を見ていなかったばかりに、案の定足を滑らせてしまった。
「ご主人様っ!?」
「……っ!」
主の危険を察知した二人は、空かさず暗闇に引きずり込まれそうなハルキの身体を支える。その反射神経も然ることながら、少ない明かりの中で瞬時に彼の手を掴み取る機敏さと正確さにも驚きだ。
すると、ぽっ、と次の明かりが灯り、女の子に身体を支えられた彼の無様な姿が露わになった。
「ご、ごめん……」
ハルキは言ったそばから失敗した自分がみっともなく思い、しょんぼりと肩を落とすのであった。
「いえいえ、ご主人様に怪我が無くて良かったです」
「ん。結果オーライ」
二人に励まされるも、苦笑いをするしかないハルキなのであった。
二人に手伝って貰いながら体制をゆっくりと立て直したハルキは、気を取り直して工房への歩みを再開した。今度は灯りを頼りにちゃんと足元を確認しながら慎重に階段を下って、だ。
一段一段降りて行くと、その度に足音が壁に当たって反響する。その音を聞きながら歩みを進めていると、やがて石造りの壁に挟まれた扉が見えてきた。
何やらものものしい雰囲気のあるその扉にハルキが手を掛ける寸前、彼はふと何かを思い出したように振り返って二人を見た。
「あ、そういえば、二人は工房に入るのは初めてだっけ?」
「はい! これまで、中々機会がありませんでしたから。れんきんじゅつ? のお勉強をなさっているとか」
「ん。気になる」
アキラとミオはそれぞれコクコクと頷いた。
常日頃からハルキの事ばかり気にかけている二人にとっては、当然彼が工房で何をしているのかには興味があった。
しかし、日和の家事を手伝う時間帯と、ハルキがハールスと地下に籠もってしまうタイミングがどうしても重なってしまうため、これまで一度も地下に入ったことがなかったのである。また、ハルキが錬金術を学ぶ姿も見たことがない。
「そっか。じゃあ、中に入ったら色々見せてあげるよ!」
よっぽど二人に見せたいものだがあるのだろうか。ハルキは、にっこりと無邪気な笑顔を彼女達に見せながら、木造りの扉に反した鉄のドアノブに手を掛けた。鉄で出来ているからか、地下の温度でちょっぴり冷たいが、いつものことなので気にせすにゆっくりと扉を前に押す。すると、ギィ……と蝶番が不気味な音を立てて扉が開いていく。
その刹那、暗がりに差し込んだ明かりに目が眩むものの、その後の光景に二人は思わず声が出てしまった。
「わあ……!」
「おお……!」
魔術師や錬金術師の工房と聞いて、君達はどんなものを思い浮かべるのだろうか。
薄暗く埃だらけの地下洞窟の中、悪い魔法使いが不気味な呪文を唱えているような、ものすごく陰気な風景なのか。
それとも、意外と明るく清潔感があって、良い魔法使いと楽しい楽しい魔法のお勉強ができるような生活感に満ちた空間なのか。
一昔前なら、きっと前者だっただろう。昔から魔術や錬金術には陰気で邪悪なイメージが付き纏うものだったからね。
実際、この世界にそういう工房が無いわけじゃない。工房主が悪い魔法使いと限った話でも無いが、そういう場所を好んで選ぶ術師も少なくはないのだ。
―――が、ここはどちらかというと後者の方だ。中は思いの外広く、一階のリビングより一回り狭いがそれなりの広さがある。作られた場所こそ地下ではあるものの、天井にはちゃんとした明かりがあり、床は地上の部屋と同じフローリングで絨毯も轢かれている。埃は……まあ、一つ二つぐらいはあるだろうが、掃除を怠っている様子もない。ただ一箇所を除いて。
入り口から向かって真正面、工房内の中央に位置する場所に、大きめの木の机と椅とポールハンガーが置かれている。
問題はその机の上で、適当に並べられたは試験管やら山積みになった書物やらで埋まっており、なんとか椅子の前だけスペースを残してこれでもかと散らかっていた。
「お、来たな」
その山積みになった資料の隙間から顔を出したのが、白衣を着たボサボサ頭の男性―――ハルキの父、ハールスであった。
彼の姿に気付いたアキラとミオは、礼を欠かすまいと即座に深々と頭を下げた。
「父さん、二人を連れてきたよ!」
「ふむ。それじゃあ、さっそく始めるかい?」
「ううん。その前に、二人に工房を色々見せてあげたいんだけど、いいかな」
「ああ、勿論。将来的に、あの二人はお前の良い助手になるだろうからね。うん、確かに良い機会だ。まずは見学といこう」
三人はやった、やったと喜び合い、嬉々として部屋の中を順番に見て回った。
まず、入り口から向かって右側には分厚い書物がずらりと並べられた本棚があり、左側にはフラスコや試験管といった実験器具と複数の引き出しがセットになった棚、そのまま壁沿いに見渡すと洗い物をする為であろうシンクと水道が設置してあった。
引き出しを開けると、中には青々とした薬草の類が入っており、開けた瞬間にその独特の匂いが鼻を刺激する。
本棚には、錬金学、薬学・薬草学、生物学、魔物学、魔法学の他、神話や伝承にまつわる書物も複数置いてある。まあ、読み書きが不十分であった二人にとっては“なんか難しそうな本”程度の認識でしかなかったが。
どの家具も貴族の屋敷の様な豪華さは無いものの、貧相でなければ決して庶民的でもない。作りも丈夫で、あちこち使い込まれた形跡が点在していた。
何より、これらの家具の中でも一際目を引くものが一つだけあった。これが無くては、錬金術師の工房とは言えない重要な器材だ。
それがあるのは部屋の一番奥。実験器具の棚と本棚の間に挟まれ、シンクの横でこれ見よがしに存在を主張する《大釜》である。
「わあ、大きいお釜……」
「な、なにこれ……」
大人の腰ぐらいはある底の深さと、アキラとミオ、そこにハルキを加えて中に入ってもまだ余裕がある程の広さがある大釜だ。幼い少女二人からすれば、さぞでっかく見えたことだろう。
「これはね、《錬金釜》って言うんだ。父さんの錬金術の実験とか……あと、母さんが薬作りにときどき使ってるけど、僕にはまだ使わせてくれないんだよね……」
子供故の好奇心から来るものか、ハルキは自分だけ使わせてもらえないことに不満を覚えていたらしく、釜を見て少し不貞腐れていた。
「ははは。まあ、釜を扱うにはまだお前は幼過ぎるからな。この錬金釜は、下に描いた魔法陣で熱と水が生み出す魔力を液状に変換し、高密度の魔力の溜場を形成するんだ。これを蓄積魔力と言い、多量の魔力を一か所に集めているため、ちょっとした刺激で爆発を引き起こす可能性がある。だから、使用には十分注意しなければならないんだ。因みに、別名『魔女釜』とも言って、古くは魔女の種族が薬作りに使われていたのをルーツに―――」
と、そこまで言ってハールスは言葉を止めた。引き籠りの研究者の悪い癖か、一度語り始めるとついつい長い話になってしまうらしい。
彼自身、人に教える事にはそれなりの自負があるものの、流石に六歳の少年少女に講義をするのは如何なものかと思い直したのだ。或いは、物心着いた時からハールスの指導を受けているハルキであれば、多少なりとも理解できているのかもしれないが。
「あー、いや、そんな事言っても分からないか。……コホン。簡単に言うと、今はまだ危ないからもう少し大きくなるまで待っていなさい、ってことかな」
最後は苦笑混じりにしてハールスは良い感じにまとめようとしたが、納得していないハルキはやっぱり少し不貞腐れて、一言「はぁい」と応えた。
しかしそこから突然、急に何か思い出したハルキは、はっと表情を変えてハールスの方に向き直った。
「あ、そうだ! 父さん、二人にあそこ、見せてもいいかな?」
「うん、あそこ? ……ああ、倉庫の事か」
いきなり気色を変えてきた息子の問いに戸惑うハールスだったが、息子が指差す扉をみて、ぽん、と手を叩いた。
「倉庫、ですか……?」
「何の?」
アキラとミオはそろって首を傾げた。
「あの部屋にはね、父さんがつくったり拾ったりした魔石がしまってあるんだ」
「ま、半分趣味みたいなものだけどね。こんな森の中で暮らしてると、魔石を使わないと不便なことも多い。折角なら綺麗にしまっておこうと思って、あそこに保管してあるんだが……ええっと、確かここに鍵を置いたはずなんだが……あれ、ない」
ハールスは話をしながら、資料に埋もれた机の上を漁っていた。探しているのは当然倉庫の鍵だが、積み上げられた書物を退かせど退かせど、一向に見つからないようだ。
「もう、父さんってば……ちゃんと片付けておきなさい、って母さんがいつも言ってたでしょ!」
「いやぁ、面目ない。ここにないなら……じゃあ、ここにしまったままかなぁ。あれー、ないなー」
今度は机の下の引き出しを探し始めるも、頭を抱えてあたふたとしだすハールス。そんな彼の白衣の中に、光を反射してちらつく何かがあった。
それに気付いたアキラは彼に近づいて、腰のあたりにもぶら下がるその何かに手を伸ばした。
「ハールス様、ちょっと失礼します」
「おおっと、何? どうしたんだいアキラちゃん!?」
何の予備動作もなく突然近寄るものだから、さしものハールスも戸惑いを隠せずにいた。が、その視線を自らの腰あたりまでに落とすことで全てを理解した。
「あの……ハールス様、もしかしてこれではありませんか?」
彼女の手にあったのは四つの鍵が連なり、ジャラジャラと音を立てて持ち主に自らを主張する鍵束だった。
「ああっ、これだこれだ! なんだこんな所にあったのか。……そうか思い出したぞ。無くさないようにとここにぶら下げておいたんだった。道理で探しても見つからないわけだな。あっははは」
「もう、結局失くしちゃってるじゃん」
「いやぁ、面目ない、面目ない」
苦し紛れにヘラヘラと笑う父親に、幼い身ながらも呆れ返るハルキだったが、それはそうと鍵を見つけてくれたアキラにはちゃんとお礼を言おうと向き直った。
「まあいいや。アキラ、見つけてくれてありがとう」
「えへへ……」
ハルキに褒められたアキラは、それはもう大そう嬉しそうな笑顔を彼に見せた。一方で、彼女の背には静かに頬を膨らませるミオの視線が突き刺さっており、その隙にハールスはそそくさと倉庫の扉の前へと移動していた。
「さあ、皆こっちにおいで」
魔石倉庫の扉はこの部屋の奥、本棚の隣の目立たない位置にひっそりと設置してあった。
そこに自分と子供達三人が集まったのを確認すると、ハールスは鍵を扉に刺し込んでドアノブに手を掛ける。入口が木製の扉だったのに対し、こちらは完全に鉄製の扉だった。
物理的に重々しい扉を少し腰に力を入れて押し開けると、これまた薄暗く気味の悪い空間が現われる。
しかし、ハールスが手探りで部屋の明かりを付けた次の瞬間。飛び込んできた景色に二人の目が奪われてしまった。
天井から吊るされた古臭くて小さな照明に、ぱっと明かりが灯ると、その光が反射してか最早その照明の必要が無いほどに光り輝いている赤、青、黄、緑、紫、白といった色とりどりの石が並ぶ幻想的な空間が現われたのである。
石は色だけでなく形まで様々であり、赤い石は燃え上がる炎を象っていたり、青い石は雫を象っていたりとバリエーションは様々だ。それが壁掛けの棚に陳列されている。
棚の下にはチェストボックスが幾つか並べられていて、開けると中にも大きさも様々に同じような石がゴロゴロ入っていた。
「す、すごい……!」
「綺麗……! これ、全部魔石なんてすか?」
「ああ、そうだとも。僕が集めたものや、創ったものもここに保管してあるんだ。集めたものは実験用の資料として、創ったものは、売ったりここでの生活に使うためだね」
ハールスは珍しく自慢気に話をした。これもまた引き籠りの研究者の性なのだろう。外部の人と出会うことが少なくなればなるほど、自慢話は鼻を高らかにして誰かに語りたくなるものなのである。
「あの、もしかしてご主人様がおつくりになられた魔石もここにあるのですか?」
「もちろんあるとも。見たいのかい?」
「はい!見たいです!」
「私も、見たい」
アキラの質問をハールスが肯定すると、二人は目の色を変えて食いついた。どんなに幻想的な光景を見ても、この二人意識は常にハルキに向いているらしい。
ハールスは当人に気付かれないようこっそりニヤ付きながら、ハルキに「見せてあげなさい」と促した。
するとハルキは顔を若干赤くしながらも、保管室の隅っこにある小さな箱に向かう。そこには小さな文字で「ハルキ」と書いてあった。
箱の中から更に小さな小箱を取り出すと、彼は小走りになって二人の前に立った。
「これが、僕がつくった魔石だよ」
小箱の中身は、淡いピンク色のこれまた綺麗な石。ハルキの手のひらに収まるよりも更に小さな砂利のようなサイズだが、そこから力強い光が放たれているのがわかる。
「わあ……!」
「すごく、綺麗」
「でも、まだまだだよ。父さんのと比べるとちっちゃいし、それにこれは失敗作なんだ」
「ええ―!? こんなに綺麗なのにですか!?」
「むう……?」
「だってこれ、無の魔石みたいに魔力が込められないんだ。色も全然違うし、これじゃあただの石だよ」
はあ、と肩を落とすハルキだったが、そこにハールスが指をピンと立ててこう言った。
「いや、お前はしっかり親の血を継いでるよ。如何に錬金術の基礎たる魔石の創造とはいえ、六歳の子供にできることじゃない。昨日も言ったが、ちょっと教えただけで失敗作でも一粒創れたんだ。天才と言ってやっても良いんだぞ」
「……ん? 昨日って、もしかして」
「お、流石ミオちゃん、鋭いね。そう、その魔石は昨日ハルキが創ったばかりの物だ。釜と一緒でもう少し大きくなってから教えようと思っていたが、こればかりはどうしてもって言って聞かなかったからね」
それに、と言ってハールスは続ける。
「今からそんな弱気でどうするんだい? 二人に渡したいものがあるんだろう?」
「「え?」」
ハールスの思わぬ発言に、互いに顔を見合わせたアキラとミオは嬉しくなって、頬を赤らめるハルキの方へ視線を移した。
「も、もう父さん! それ、言わないでよお!」
「ははは、いやあ、ごめんごめん。つい、な」
怒ってポコポコと父の足元を叩くハルキに対し、当の本人は愉快そうに笑い飛ばしていた。そこにアキラとミオが期待に満ちた眼差しで彼に迫る。
「あ、あの……ご主人様!」
「贈り物って、何? 何?」
「え、えーっと、ちょっと待ってね……」
若干逃げるようにも見えたが、顔を赤くしたままのハルキはそそくさと倉庫を出て作業台として使っている机の前へと向かった。
すると、大きく深呼吸をして精神を十分に整え、落ち着いたところで両手を机の上にかざした。
「……? ハールス様、ご主人様は何をしているのですか?」
「何かの、儀式……?」
「まあ、静かに見ていなさい。大丈夫、今のハルキなら失敗はしないよ」
二人はハールスの言う事が理解できなかったが、それでも見ていろと命令されたからには、それに逆らうわけにもいかない。二人は素直に主を見守る。
ハルキはちらりとアキラとミオを一瞥すると、ゆっくりと瞼を閉じて意識を掌に集中させる。
すると、彼の掌から淡い光が放たれ、スポットライトのように机上を照らした。始めはか細く今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい光であったが、ハルキの集中力が上がるに連れ、それは少しずつ輝きを増していった。
しかし、驚くべきは掌から放たれる輝きなどではない。光が照らすその先、机上にはいつの間に二つの結晶が精製されていた。
結晶は掌の輝きが増すと共に成長するように少しずつ大きくなっていき、やがてハルキが手をかざすのをやめると、光と共に石の成長も止まった。
「ふう……」
一つ息を吐き、ハルキは閉じていた瞼を恐る恐る開くと、次に目にした光景に目を丸くした。そして父の方へと顔を向けると、彼はうむ、と頷いて息子を褒め称える。
嬉しくなったハルキは飛び切りの笑顔を表に出し、机の上にあったそれを掴んで二人の下へと駆け寄ってきた。
「できた! できたよ! ほら、二人とも見て見て!」
結晶は片方が透き通った水色の石で、もう片方が爽やかな薄い緑色の石だった。
丸みを帯びた綺麗な形状で、大きさは彼の拳大程。石と言えどゴツゴツとした印象は受けず、むしろ触ったら柔らかいのではと錯覚してしまう程に表面はなめらかだ。
「ご主人様、これって……」
「……魔石?」
「うん! 昨日はさっきみたいな小さいのしかできなかったけど、今日のは大成功!だよね、父さん?」
ハルキが自分の創った二つの魔石をハールスに渡すと、彼は貫くような眼光でそれを凝視した。所謂《鑑定眼》というやつだ。
術師が魔石を錬成する際、体内から抽出した魔力を結晶化させることによって生み出すことができるのだが、自然のものにせよ人口のものにせよ、魔石の質は込められる魔力の内包量、及びそれに伴う純度によって決まる。
つまり、先程ハルキの掌からでた光は彼の魔力そのものであり、それが固まってできたのがこの二つの魔石というわけだ。
なお、水色の魔石はそのまま水の魔石。緑色の魔石は風の魔石が該当する。
「……冗談抜きで凄いな、これは。昨日の今日で、いや、この歳でこの純度のものを同時に二つか……」
「どうしたの、父さん?」
「……ああ、いや、なんでもない。ハルキ、やっぱりお前には才能がある。大きさだけじゃない、二つもいっぺんに創りだすなんて素晴らしい成果だよ。どれだけ修練を積んだ錬金術師の卵でも、昨日の今日までここまで成長できる者なんてそうはいないさ」
「ほんと!?」
「ああ、本当だとも。ほら、ちゃんとこれを二人に渡してあげなさい」
そう言って、ハールスは小さな両手を広げる息子に魔石を返した。
自分の魔石を受け取り、ハルキは父の心からの称賛に胸の奥から感情が溢れ出そうになる。しかし、彼はそれをぐっと堪え、魔石を持つ手をぎゅっと握りしめた。
「はい、これをあげる! 僕からアキラとミオにへのプレゼントだよ!」
水色の石はアキラに、緑色の石はミオに。二人は言われがるまま両手を差し出すと、ハルキはそれぞれの石を手渡した。
受け取った魔石には触ると不思議な感触があり、水の魔石は湿っているような感覚があるが実際には手が濡れているというわけではなく、風の魔石はふんわりと軽くて見た目以上に重さを感じない。
「ありがとうございます……! 大切にします……!」
「ん。うれしい、ご主人様からの、贈り物……!」
二人は嬉しさのあまり、うるうると瞳に水滴を含ませて、贈り物をじっと見つめていた。
何せ主からの、否、人生初の心の籠もった贈り物だ。
尤もアキラに関して言えば、もしかすると以前にもこうしたことがあったのかもしれないが、残念ながら今の彼女にそんな幸せな記憶は残っていない。だからこれが、二人の記憶に残る一番最初の贈り物だ。
「因みにね、その魔石なんだけど。実はハルキが君達のことを思って創ったものなんだぞ」
「う……父さん、だからなんでそういうこと言うのさぁ!」
「ははは、良いじゃないか。減るものじゃないし。どの道、助手になって貰うなら、何れは知ってもらう事だからね」
「どういうことですか?」
アキラの質問に、ハールスはニマニマしながら答えた。
「いいかい二人とも。魔術にも錬金術にも、必要となる技量は幾つか存在するが、その中で最も重要な要素は二つだ。まず一つは魔力の扱いに長けていること。もう一つは何を創りたいかをなるべく具体的に想像力すること。水属性を扱うにしても、風属性を操るにしても、魔力をコントロールする術を知らなければ、そもそも術師にはなれないからね。ただ、如何に魔力をコントロール出来たとしても、それを形に出来なれば意味が無い。それを補うのが想像力なんだ。例えば―――」
ハールスは人差し指を天に向け、その指の上にぽん、と小さな炎を出した。
「火を操れる魔法は幾つかあるが、どれか一つでも習得していれば、このように応用することができる。火力の調整は魔力の操作に依るところが大きいが、この小さく暖かな炎をどのように形作るかは一重に想像力に依るものなんだ。錬金術もそれに同じで、何の為に、何を創りたいかを明確に想像の中に組み込まないと、良い質の物は作れないんだよ。特に魔石の創造はそれが顕著に現れるね」
つまりどういうことなのか。この人は何が言いたいのか。
また難しい話を取り出したハールスの説明に二人がカクリと首を傾げたので、彼は更にニヤリと頬を上げた。
「要するに、ハルキも君達の事が大好きって事さ」
その言葉にアキラとミオは大きく眼を見開き、キラキラと輝く瞳孔をハルキに向けて、一斉に飛びついた。
「わっ! え、なになに……!?」
困惑する主を他所に二人は少しの間だけ胸に顔を埋めていると、次に屈託の無い笑顔を見せた。釣られて彼も一緒に笑って見せると、そこにまた元気の良い声が入口の扉を開けて突入してきた。
「にいちゃーん!」
「にーたー!」
扉から現れた声の主達は、目的の人物を見るや否や、自分達もと言わんばかりに空いている彼の背中に飛びついた。
「うわっ!? ぐへぇっ!?」
「ご、ご主人様!?」
「大丈夫……?」
「うーん、なんとか」
それは最早背後からの奇襲に等しかった。おんぶ出来るのは一人まで。ハルキはのしかかる重力に耐えられず、妹二人の床になってしまった。
なお、アキラとミオはハルキの咄嗟の英断により離脱させられており、下敷きになっているのは彼のみである。
「おや、リョウとコトネが工房に来るなんて珍しいな」
「あっ、とーちゃんだ!」
「とーた、とーた、あーねがあそびきたー!」
「えっ、アヤ姉さん来てるの!?」
ぺしゃんこに押しつぶされたハルキは、
アヤ姉さん。聞いた事のない名前に、アキラとミオはまたしても頭上にハテナマークを浮かべた。
「……あの、ご主人様。“アヤ姉さん”というのは?」
「あ、そっか。二人は知らないよね。アヤ姉さんっていうのは―――」
「ハールくーん!」
「ふべらッ!?」
アキラの問に答えつつ、上に乗った妹達を押し退けて立ち上がろうとするハルキ。
その時、開けっ放しになっていた扉から赤い影が飛び込み、何者かが彼を連れ去っていった。
「ご、ご主人様ーー!?」
「今度は何事!?」
二人が後方を振り返ると、そこには黒いリボンに赤を基調としたワンピースのような私服に身を包んだ一人の女性の姿があった。
「久しぶり~、ハルく~ん!元気してたかな~?」
「ね、姉さん!? あうっ……く、苦しいよお」
ハルキは彼女の腕の中に埋もれており、苦しそうにぎゅうぎゅうと締め付けられている。その様子を見て、アキラが一歩踏み込み、その見知らぬ女性に物申した。
「あのっ! やめてください! ご主人様が嫌がってるじゃないですかっ!」
「んー? あなた達は……」
女性はアキラとミオの顔を見るや否や、ハルキを抱きしめたまま二人の下に近づいてその顔をじーっと見つめた。
彼女を分かりやすく一言で言うならば、絵に描いた美人、と形容するのが正しいだろう。整った顔立ちは元より、赤い羽根の髪留め、長く艶のある髪に加え、服装の上からもそのスタイルの良さが滲み出ていた。
「やあ、アヤネちゃん。久しぶりだね」
「あ、叔父さんおっひさー! ってか居たんだ」
「居たよ? ずっとここに居たよ? え、酷くない? ……コホン。それにしても急にどうしたんだい?」
「あーそれねー。見たよ手紙! ハルくんとこに女の子が来たって! この子達なんでしょ?」
「いやまあそうだけど。その言い方は色々と誤解を生むから止めようね?」
「でも間違ってはないじゃん? にしてもハルくんも隅に置けないなあ。この歳で女の子二人もゲットなんだもんねー。羨ましいぞー、このこのー」
彼に何の恨みがあるのか、アヤネという女性は更に一段階ハルキを強く抱き締めた。
先程が上からのプレスなら、今度はサンドというところか。何れにしても、不憫な少年である。
「そういえば、アリサには会ってきたかい? 手紙を見たのなら、あの子のことも知っているんだろう?」
「もっちろん! 可愛かったよー! まあ、私が抱っこしようとしたら、直ぐに大泣きされちゃったんだけどねー……」
「あちゃー、やっぱりか」
アヤネはしょぼんと肩を落とすと、腕の中のものに胸を押し付ける。まるでぬいぐるみの様に抱きしめられたハルキがついに限界を迎えて悲鳴を上げた。
「ね、姉さん……もう、放して……」
「あっ、ごめんごめん」
アヤネはハルキの泣きそうな声をようやく聞き入れて解放すると、大きく深呼吸する彼にアキラとミオが駆け寄った。
「へえー。ふーん。ほーん」
変な声を出して、アヤネはまじまじと二人の顔を見つめる。
見知らぬ人物の不可解な行動に警戒して身構えるアキラとミオだったが、意外なことにすぐにその必要は全くなかったと実感することになった。
「ねえねえ。アーちゃん、ミーちゃん」
「え、アーちゃん……?」
「ミー、ちゃん……?」
不毛なにらめっこの末に、突然変な名前で呼ばれるものだから、これにはアキラもミオも抱いていた警戒心を忘れて戸惑うしかなかったらしい。
「んふふー、いいでしょ! 可愛いでしょ!」
アヤネは自信満々に胸を張り、初対面の二人の頬を人差し指でぷにぷにする。
あまりに不可解で快活な彼女の言動に唖然とするアキラとミオだったが、そこにまたしても聞き慣れない声が聞こえてきた。
「そこまでにしてあげなさい。アヤネ」
今度は男の声だった。それも如何にも中年染みた低く野太い声である。
アキラとミオはその声に身体をビクりと震わせて、逃げるようにハルキの背中に隠れた。
「兄さんじゃないか! なんだよ、来るなら連絡ぐらい寄越してくれてもよかったのに」
「ははは、すまんな。何せアヤネが今朝帰ってくるなり、手紙を見てハルキに会いたいとせがむものでな。それなら、と思って私も様子を見に来たんだ」
「ちょっとお父さん! それじゃ私が我儘言ったみたいじゃん!」
アヤネがぷっくりと頬を膨らませると、男性二人は愉快そうに笑った。
「しかし、どうやら脅かせてしまったみたいだな」
野太い声の男は視線をハールスとアヤネからハルキの背中に隠れるアキラとミオへと移した。すると、二人は怯える動物のようにギッと男を敵意剥き出しで睨みつけていた。
どうやら、それまで虐げられている毎日を送ってきた彼女達はいつの間にか人間不信に陥ってしまっていたようで、ハルキとその家族以外の人間を極端に恐れるようになっていたのである。
それは彼らと触れ合っていたこの一週間の間でも変わることはなく、むしろ外部と関わらない所にいた所為で余計に強くなっているきらいがあった。
男が困ったなあ、と頭を抱えていると、それを察したのか否か、二人の表情を和らげたのは、他でもないハルキであった。
「大丈夫だよ、二人とも。この人はレン伯父さん。父さんのお兄さんで、僕の伯父さんなんだ」
「レン・ブラットだ。自己紹介が遅れて済まなかったね」
「で、こっちが従姉のアヤ姉さん」
「はいはーい。美人な従姉のお姉さんのアヤネ・ブラットでーす。歳は永遠の十八歳で、冒険者やってまーす。改めて、よろしくね!」
彼の言葉を聞くと二人の警戒も徐々に解けていき、ちょっとだけ安心した様な表情を浮かべた。
どうやら、彼女達にとって主の言葉は余程大きな影響力を持つようだ。それだけ、二人が彼を慕っているのであり、信頼している証拠なのだろう。
「……はい。こちらこそ、よろしくおねがいします」
「……おねがい、します」
そうしてアキラとミオは少しの間顔を合わせると、意外にも素直に頭を下げた。
主がレンとアヤネを気に入っているのを見て、自分達も失礼のないようにしないといけないと思ったのか、或いは自分たちと同じで主にも従姉がいたという事実に何処か親近感を感じているのかもしれない。
「お、おう。意外に礼儀正しいなぁ、この子達……」
「馬鹿者。お前も少しはこの子達を見習わんか」
父の言葉にえー、と不満を漏らすアヤネ。しかし、何処か楽しそうな笑うその姿に惹かれるように、陰から向けられる視線があった。
「んー? どうしたのかなー、ミーちゃん。私の顔に何かついてる?」
「い、いや……別に」
アヤネがその視線に気付いて、ググイっと迫るように顔を近づけるので、ミオは思わず視線を逸してハルキの後ろに隠れてしまう。
「何この子! 結構かわいいじゃーん! 怖い目付きかと思ったらネコみたいなあどけなさがあるっていうか。叔父さん、この子持って帰って良い?」
「「「「「いやいやいや」」」」」
それは丁重にお断りさせて頂きます。という感じでリョウとコトネを抜いたその場の全員がパタパタと手を左右に振った。
えー、だめなのー、とアヤネがわざとらしくがっくりしていると、突然工房中に低い唸り声のような音が響いたのである。
―――ぐぅ。
音の発生源は、ハルキの腹の虫だった。それまでアヤネに向けられていた視線が全てハルキへと集まり、当の本人は顔を赤らめて蹲った。
「そうか。そういえば、もうそんな時間か。アヤネちゃん。悪いんだけど、子供達を頼めるかい?」
「はいはーい。了解でーす。じゃあ、みんな上行こっか」
アヤネは挨拶代わりに額に手を当てて敬礼すると、ハルキ、アキラ、ミオ、リョウ、コトネの五人を引率して、工房を後にした。
一部鉄製の扉がパタンと閉まり、六人分の足音が地上に向かっていくまでの間、あれだけ騒がしかった工房の中が不自然な程静まり返る。
そして、足音が全く聞こえなくなると、この時を待ちわびていたレンが真っ先に口を開いた。
「さて、ようやく本題か。お前とこうして語るのも随分と久しい気がするな」
「ああ、そうだね、兄さん。僕も積もる話がいっぱいあるよ」
「そうか、そうか。それは楽しみだな。で、ハールスよ。あの子達が持っていたあの魔石はお前が創ったのか? それとも何処からか拾ってきたのか? 随分と大事そうに握っていたようだが」
相変わらずヘラヘラと笑う弟に、レンはギロりと睨みを効かせ、掴み所のないその腹の内を探ろうとした。
この男は普段こそ善良で家族思いの立派な父親ではあるが、それでいて己のためには手段を選ばないであろう貪欲さと業の深さも兼ね備えた人間だ。故にこそ、こうして会話をするだけでも油断はできない。まあ、それはレンにも言えたことではあるが。
「まあまあ、そんなに睨まなくったっていいじゃないか。何、新しい家族の祝いの品として、息子が贈っただけのことさ」
「……全く。わざわざ出来の良いものを渡さなくても良いだろうに。あの大きさとあの純度があれば、使い道は幾らでもあっただろう?」
勿体ない、と続けるレン。そんな兄の予想通りのリアクションに、ハールスは思わずニヤリと頬を歪ませた。
「いやいや、あれは僕が創ったものじゃないよ。そして、自然界で創られたものでもない」
「何!? 誰が創った?」
「―――ハルキだよ」
「なん……だと……!?」
レンは自分が思わぬ人物の名を口にされてしばらく硬直状態になっていた様に見えたが、やがて全てに納得して高らかに笑い始めた。
「ククク……ハハハ……そうか、そうか! あの子が! もうそんな段階に入っていたのか! まさかここまで早いとは!」
「ああ、想像以上の成長速度だよ。つい先日まで、魔力の扱いを知らなかったあの子が、たった二日であれ程までの成果を出したんだ! ただ二人の少女のために、才能を発揮させたんだ!」
それは親として、伯父として、息子の、甥の成長を喜ぶ笑みではなく、自らの研究が功を成したことを喜ぶ科学者達の笑みであった。
「ああ、そうだ。兄さん。貴方にもう一つ見てもらいたい物があったんだ」
「……ほう?」
ハールスはわざとらしく指をピンと立て、倉庫の扉を開ける。レンは興味有りげに顎髭を撫でていた。
そうして彼は倉庫の隅にある小さなチェストボックスから、これまた小さな小箱を取り出してきた。
「ほらこれ、兄さんも見てみなよ。きっと驚くぞぅ」
ハールスが高らかに鼻を鳴しながら小箱を開けると、中に入っていた小石を目にしたレンは、自身の眼を疑った。
「こ、これは、まさか―――」