第四話 アキラとミオ
暗闇の中、少女がパチリと眼を覚ました。闇に慣れた眼が映すものは見渡す限りの木々。
身体を起こそうと奮起するも、傷という傷が起こす刺激のために、力が入らず直ぐに腰を落としてしまう。
そのまま意識が再度朦朧とし、徐々に瞼の重みが増してくる。抵抗も虚しく、その重みに耐えきれない少女はまた眠りについてしまった。
しかし数分も立たないうちに、少女は重い瞼を開いて再び目を覚す。今度も何もできないまま、再び浅い眠りに誘われる。
目を閉じると、あの時の叔父の顔が蘇る。
傷付けられ、虐げられ、捨てられ、襲われ、最後には力尽きる自分を見る。
その一部始終が終わる度に眼を覚まし、また眼を閉じる。一夜に何度もそれが繰り返された。
それが数時間に一回なのか、それとも数分に一回か、あるいは数秒に一回か。
どちらにせよ、幾度も同じ走馬灯を夢に見ていたことに変わりは無い。
誰も助けてくれなかった。
誰も手を差し伸べてはくれなかった。
誰も救ってくれはしなかった。
―――どうして。なんで。私が何をしたの……?
何度も、何度も同じ夢を見る。
何度も同じ思いをする。
何度も同じ顔を見る。
幸せだった思い出よりも屈辱だった記憶が蘇る。
――――もう眼が覚めないで欲しい。いい加減、終わって欲しい。
さりとて、生きることを諦めた精神とは裏腹に、肉体は生きようと足掻き、藻掻く。
彼女がどれだけ絶望に打ちひしがれ、死に急ごうとも無意識下にある生存本能はそれを許さない。
―――嫌だ。やめて。止めて。見せないで。思い出さないで。
繰り返される記憶の中、少女はこう思う。
―――もう、死にたい。
ぴとり、と冷たい雨粒が少女の肌を刺激した。
まるで彼女の嘆きを体現するかの如く次第に雨は強くなり、地面が湿っていくのを文字通り肌で感じる。
幸いにもここは森の中。木の幹にもたれ掛かっているこの状況なら、ある程度雨は凌げるだろう。
尤も、衰弱しきったその身体が、雨による気温の変化に耐えきれるのであればの話だが。
木の枝の間から滴る雨粒が、少女の体温を奪っていき、雨雲を運んできた風が無慈悲にも吹き付けてくる。
ここには誰も居ない。誰も助けてはくれない。誰も、誰も。
―――たったったったっ
幻聴だろうか。雨音に紛れて足音が聞こえる。
おかしい。こんな森の奥地に住む人間など居ない筈だ。居るとすれば、魔物くらいなものだ。
そうだ。きっと魔物だ。さっき自分を襲った魔物達が戻ってきたのだ。
それならばいっそのこと、喰べられてしまった方が楽なのかもしれない。
これでもう、あの夢を見ずに済むかもしれない。
そう思って少女はゆっくりと瞼を持ち上げようとした。すると―――
「大丈夫!?」
聞こえたの息を切らしたは男の子の声。
ぼやけた視界に映ったのは、確かに人間の男の子だった。
何故、ここに人がいるのか。
何故、自分はまだ生きているのか。
何故―――彼は自分を助けようとしているのか。
―――ああ、そうか。これはきっと、まだ夢の中なんだ。きっと、私はこれから死ぬ。だから神様が、最後に希望を見せてくれてるんだ。誰かが助けてくれる素敵な夢。
果たしてそれを希望と言えるのだろうか。死の間際に見る夢が救いになり得るのだろうか。もしこれが本当に夢であるならば、それは皮肉としか言いようがないだろう。
しかし、例えそれが夢だとしても、最後に見た希望に敏感に反応してしまうのが人間という生物だ。
――たす、けて――
気付くと、少女は徐に手を伸ばしていた。
縋れるものがあるなら縋りたい。
救いがあるのなら救われたい。
生きられるものなら―――生きていたい。
そう願う少女の手に確かな温もりが宿った時、その意識は暗く深い所へと誘われていった。
――ボダ森林中央部 とある家――
―――暖かい。
全身をポカポカとほのかな温もりが包み込んでいる。
―――心地好い。
耳を澄ませば焚き火がパチパチと音を立て、爽やかな木の匂いが鼻を刺激する。
―――眩しい……?
意識の覚醒と共に、彼女の瞼の裏に一筋の光が宿った。
「う――ううん……」
パチリ、とアキラは眼を覚ます。暗闇から開放された瞳が光を浴び、一瞬だけ景色が白く染まった。
「ああ、よかった!目が覚めたんだね!」
不意に、どこかで聞いたことのある声が耳に飛び込んできた。
真っ白な視界が開けてくると、目の前には彼の姿があった。
「あなたは……?」
「え、あ、僕? 僕はハルキ。ハルキ・ブラットっていうんだ」
「ハル……キ……?」
アキラはその場でゆっくりと身体を起こす。すると、胸の辺りまで被っていた毛布がするりと膝の上に落ちた。
まだ思考がはっきりしない。今まで自分が何をしていたのか。何故ここにいるのか。
試しに周りを見渡してみる。
正面にはハルキと名乗った黒髪の少年がきょとんとした顔でこちらを見ている。上と下には木で造られた床と天井。右手には冷えた身体に熱を送る暖炉。そして左手の方向から―――
「―――アキラ!」
またもや知っている声。だが今度ははっきりと覚えている人物のものであり、その声のお陰でぼんやりしていた思考が明瞭になる。
「……ミオ!」
まるで永い時間の先で再開したかのように、二人は抱き合った。
「よかった……! よかった……! 起きて……本当に……!」
ポロポロとミオの眼から涙が溢れる。同じ安心からか、アキラの眼からも涙が零れた。
「いやあ、本当に良かった。まずは、君が眼を覚ましたことを心から喜ぼう」
今度聞こえたのは全く知らない男の声だった。知的で敵意はない言い回しのようだが何処か胡散臭い。そんな印象のために、反射的に全身の筋肉が緊張で強張ってしまう。
「だ、だれ……ですか……!」
まるで怯える犬のように、アキラはその人物を睨みつけ、警戒心を曝け出す。
「アキラ。この人は、大丈夫」
そう言うと、ミオはアキラの腕の中から離れていき、隣で座り込むハルキの横へと移動した。
「いやいや、驚かせて済まない。僕はハールスと言う。ただのしがない錬金術師で、そこにいるハルキの父親さ」
「れんきん……じゅつし……?」
その単語を何処かで聞いたことがある。そう思ったアキラは、頭の中を念入りに探した。
《錬金術師》またの名を《アルケミスト》。名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?
解りやすく言えば、化学者とほぼ同義と言っていいだろうか。物体の構造や精製などを幾度となく研究と実験を繰り返して把握し、常に技術の進歩に貢献する存在だ。
他にも医学や魔術、その他自然科学にも精通し、戦闘にも応用できる。一流の錬金術師は多方面に渡って活躍が出来る職業なのだ。
特に、彼らが《錬金術師》と呼ばれる所以である《錬金》という技術。言ってしまえば、異なる物体同士を鍋にぶち込んで、魔術を駆使して新しいのものを創り出す、というもの。まあ、ある意味料理とさして変わらないかもしれないね。
古くより、錬金術師はただの石ころを金に変え、また不老不死の霊薬を生み出すことを宿願としてきた。
そして現代、前者は既に遂行され、金と銀には通貨以上の価値は無くなった。尤も、天然の物はまた別の話なので、それなりに重宝されているわけなのだが。
因みに、後者は未だ成し得た者は居らず、現在も研究が進められている。
そんなことよりも、この世界での錬金術師は更に重要な役割がある。それが、《魔石》の生産だ。
《魔石》についての詳しい説明は、これもまた別の機会に語るとするが、簡単に言えば動力源そのものと考えて良い。
例えば、この家の暖炉の火種には《火の魔石》が、部屋を明るく照らす電気には《雷の魔石》が使用されている。
この世界の人類は、魔石と共に文化を発展をさせ続けてきたと言ってもいい。それを作れるだけでも、錬金術師はこの世界になくてはならない存在というわけだ。
と、ここまでの話を別にアキラ自身が知っているわけではない、ということはここで断っておこう。
彼女が覚えていたのは、叔父が幾度か「あのクソッタレな錬金術師共め!」と愚痴を吐いていたことだけである。
「アキラちゃん、と言ったね。話はミオちゃんから聞いたよ」
「え……? ミオから……?」
驚くアキラはハルキの横に座るミオと顔を合わせる。すると、彼女はコクリと首を縦に降った。
「……その、家を追い出された、いや、捨てられたんだったね」
ハールスは彼女達に同情しているのか、言い辛そうに一瞬だけ顔を顰めるも、それを振り払うように端的に言う。
「途中で魔物に襲われた事も聞いたよ。よくここまで辿り着いたね」
それを言われて、アキラの記憶が蘇る。
―――そうだ。自分は捨てられたんだった。魔物に襲われて、疲れて、気づいたらここに―――
「あ、あの……じゃあ、ここは、いったい……?」
「見てのとおり、僕達の家さ。ああ、魔物の心配ならしなくていい。この家を中心に魔除けの結界を張ってあるから、ここが襲われることはないよ」
だから安心してほしい、とハールスは続ける。
まだ緊張の解けずにいるアキラだったが、それでも聞くべきことは聞いたほうが良いと思い至ったので、警戒しつつも声を振り絞って尋ねた。
「あ、あの……私は、どのくらい寝ていたのですか」
ふと窓の外を見やると、外はまだ真っ暗のままに見える。
家を追い出され、森で行き倒れていた時点で既に暗かったのだから、今尚外が暗いということは、そこまで長い時間が経っているわけではないのだろうか。彼女の立場なら、そう考えるのが自然だろう。
「ざっと丸一日、というところだね。君たちを見つけたのは朝方で、ミオちゃんが目覚めたのは小一時間くらい前かな」
「そんなに……!?」
アキラは自分が思いの外眠りについていたことに驚愕する。
外がまだ暗いのではなく、もう暗いの間違いだったのだ。
なるほど、それならあの悪夢が何度も続いていたことにも納得ができる、とアキラは思い返した。
そして夢といえば、最後に見たあれは、本当に夢だったのだろうか。という疑問も同時に生まれた。
今自分は、こうして冷たい雨を逃れて暖かい暖炉の前にいる。
もしあの夢が夢でないとしたら、その人はどこにいるのか。
ちらり、とアキラはハルキに一瞬目をやって、不安を胸に懐きながらも、ハールスにもう一度尋ねた。
「じ、じゃあ、私を……私たちを助けてくれたのは―――」
「僕と母さんだよ!」
にっこりとした笑顔で彼女の正面に立つハルキが言った。
思わず声を失うアキラ。いや、本当は内心察してはいたのだろう。
目の前にいる男の子とは初対面の筈が、何処かで声を聴いた覚えがある。証拠としてはそれだけで十分だろう。
「ハールス様が言ってた。結界の端で倒れてた私達を、この人が見つけてくれた。それで、弱ってた私達をハールス様と奥様のヒヨリ様が治療してくれた、って」
「じゃあ、あのとき、手を取ってくれたのは……」
ミオはまた、コクリと小さく頷いた。
「―――夢じゃ……なかったんだ……」
ポツリと呟く。
死を悟る間際に見た光景。あれは、夢ではなく現実であった。
愛する家族も、住む場所も、生きる意味も、何もかもなくなってしまった自分に与えられた最後の希望。
もし、神官の言う神が居るとするなら、祈りが届いたことに感謝すべきだろうか。否、その必要はない。何故なら、そんな神がいるなら、とっくに救いがあったはずなのだから。
助けてくれたのは神ではなく、目の前にいるこの少年なのだ。それを胸に刻んだアキラの瞳がまたもや潤んでゆく。
「夢? なんのこと?」
少女の小さなつぶやきにハルキは疑問を覚え、首を傾げた。すると次の瞬間、アキラがぶわっ、と彼に抱きついたのである。
「わあっ! え、え、なに? なに!?」
「……ありが……とう……ございます……」
アキラは少年の胸の中に縋り付くように顔を埋め、しゃくりあげながらも感謝の意を伝えた。
一方、抱きつかれた本人は何が何だか理解が追いつかず、一人慌てふためいている。
思えば、昨日から彼女は泣いてばかりだ。だが、それまで冷たく頬を伝っていたものが、今では暖かく自身の幸せを祝福しているように、昨日の涙と今日の涙は全く違うものなのだ。
「にーちゃーん。ごはんできたぞー」
「でいたー」
と、そんな感動的なワンシーンも他所に、部屋の奥の方から無邪気な声が聞こえてきた。
見ればハールスの後ろには大きなテーブルとイスが並べられており、さらにその奥にはキッチンが見える。所謂、ダイニング・キッチンというやつだ。
その入り口から、ひょっこりと顔をだす長髪の少女と、もう一人更に小さな女の子の姿があった。
「あー! にーちゃんになにしてんだー!」
「コトもコトもー!」
長髪の女の子は見ず知らずの少女がハルキに抱きついている光景に指を差して騒ぎ立てた。そして、ドタドタと大きな足音を立てて、彼の背中に飛びついた。
同じ様に小さい方の女の子も彼に飛びついた。
「うわっ! ちょっ、こらっ! やめなさい! やめて~!」
女の子達のあまりの勢いに、思わずアキラが身体を彼から離してしまうと、次の瞬間には三人とももつれ合うようなの状態になっていた。
「もしかして、妹さん、ですか?」
「え? ああ……うん。そうだよ。痛い。ちょっ、ちょっと待ってね紹介するから。だからやめなさいってば」
そう言うと、ハルキはのしかかる妹達を押しのけて立ち上がる。アキラは離れていく温もりに僅かな名残惜しさを感じつつも、じっと彼らを見つめることにした。
「こっちが上の妹リョウで、こっちが下の妹のコトネだよ。ほら二人共、ちゃんと挨拶して」
兄の言葉に促されると、二人の妹は「初めまして」とお行儀よくお辞儀をした。
リョウはハキハキと、かつ堂々とした口調だったが、コトネはまだ言葉がままならないのか、たどたどしい口調での挨拶だった。
リョウ・ブラット。
ハルキと二歳差の兄妹であり、彼が六歳なら彼女は四歳になる。背中まで届く長い髪は兄と同じく黒髪で、父親とも並べてみると、目元がそっくりだ。
先程からの振る舞いからもわかる通り、相当やんちゃな性格で、何かと手の掛かる問題児である。
そして、彼女と更に二歳差の妹の彼女がコトネ・ブラット。
指をくわえる仕草は年相応の幼さを醸し出し、綺麗に弧を描くボブヘアが特徴的だ。しかし、髪は黒髪というわけでなく、目元にも違いがある。兄と姉が父親似というのなら、彼女は母親似ということになるわけだ。
まだ言葉がままならず口調はたどたどしい。先程の挨拶もお世辞にもちゃんと言えたとは言い難いものであった。
二人とも素直に挨拶ができるあたり、しっかりと躾けがなっているようにみえるが……
「で、誰だお前!」
先の行儀の良さから一転。ぐわっ、と頭を上げたリョウは、いきなり指をさして、初対面のアキラをお前呼ばわりするのであった。
因みに、コトネは挨拶だけするとそそくさとハルキの後ろに隠れてしまっており、彼の背中からひょっこりと顔を出している。
「あっ、こらリョウ! いきなりお前呼ばわりしちゃだめだって、さっきも言っただろ!」
ハルキが兄としてリョウを叱るが、当の本人は全く気に留める様子もなく、むしろアキラに対して堂々と胸を張って、威張り散らしていた。
「ねえ、ミオ。『さっき』って……?」
「起きたとき、私も同じことされた」
「あー……」
質問の回答に、アキラは納得の声を漏らす。
「さあ、皆、早く椅子に座って頂戴な。せっかくの夕飯が冷めちゃうわよ」
不意に手を鳴らす音が聞こえて、彼らの視線が食卓の方へと集まった。
そこには、異様にもお腹を膨らませた豊満なシルエットの目立つ女性の姿があった。
ハルキの母、日和である。
名前の通り、まるで太陽のようなその笑顔は優しくて、眩しくて、それでいて温かい。
髪を後ろで結び、エプロン姿で佇んでいるが、やはりぽっこりと膨らんだその腹部がどうしても目立ってしまっていた。
「「「はーい!」」」
兄妹は気持ちの良い返事を返すと、三人仲良く食卓に座った。
「さあ、貴女達もどうぞ」
「いえっ、そんな! 私達は……」
「別に……いい…」
それまで奴隷同然の扱いを受けていた彼女達にとっては、命を助けてもらった上に食事まで用意される、というのは流石に申し訳ない気持ちで一杯だった。
――見ず知らずの自分達にそこまでしなくても――
そんな思いから、二人は首を横に振ろうとするが、ぐう~、とお腹が大きな音を立てる。恐らく、部屋中に響くぐらいの大きな音だ。
思えば、丸一日寝込んでいたということは、二人は昨夜から何も食べていないということになる。尤も、この三年間の内に彼女達がまともな食事をした覚えがないのも確かだが。
二人が急に恥ずかしくなり赤面するのを見て、日和はスープの入った器を二つ持ち上げて暖炉の前へと運んだ。
それは雪のように真っ白なのにもかかわらず、暖かい湯気が立ち上り、濃厚な香りが嗅がずとも鼻一杯に広がってくる。
表面に出来た薄い膜を突き破って顔を出す肉と野菜はまるで宝石のようであり、見た目の良さを引き立てると同時に、飢えた少女の食欲をこれでもかと刺激した。
「お腹、減ってるんでしょ。遠慮しなくていいのよ」
「で、でも……」
「むぅ……」
やはり、あの生活の反動なのだろう。優しくされなかった者にとって慣れない優しさというのは、どうしても戸惑ってしまうものらしい。同時に、その分の見返りのことも考えてしまうのだから。
「ねえ、二人も一緒に食べようよ! 母さんの料理、すっごく美味しいんだよ!」
食卓で美味しそうにスープを頬張るハルキを見て、二人はゴクリと喉を鳴らした。
「そ、それじゃあ……」
「ちょっと、だけ……」
そう言って二人は日和から器を受け取ると、そのままハルキのいる食卓へと向かい、彼を挟むようにして着席した。
スプーンを手に取り、ほかほかのスープにどっぷりと浸して掬い取ると、ゆっくりと口の中へと放り込んだ。
その瞬間、押さえつけていた欲望が一気に開放された。
真っ白いスープは牛乳のコクと甘みが混ざり合い、共に煮込まれたであろう肉厚の野菜と肉がその旨味を引き立てている。当然、具材のジューシーさもスープに負けず劣らずで、一度口に入れれてしまえば、もうその手を止めることは叶わなかった。
「お代わりも沢山あるから、じゃんじゃん食べてね〜」
「「「「「おかわりっ!」」」」」
お代わりがあると聞いてか、それとも初めからそのつもりだったのか、五人は仲良くそして元気よく、空っぽの器を掲げるのであった。
それから数分後。
最初の慎ましさはどこへやら、お腹いっぱいになるまで食べていたアキラとミオは、気付けば五回もお代わりをしていたのであった。きっと、貴族の屋敷にいた頃よりも、ずっと贅沢な気分になったことだろう。
食べ終えると、二人は礼も兼ねて進んで皿洗いを受け持つことにした。流し台まで手が届かなかったので、台を用意してもらい、その上に立って二人で作業を開始した。
無理遣りとはいえ、三年間家事をやらされた経験が活かされているのか非常に手際が良い。食器一つ一つを丁寧に且つ迅速に洗い上げる技術は薬師兼主婦の日和も感嘆するほどだ。むしろ彼女より上手いと言って良い。
何より、屋敷に居たときは一度も褒められたことの無かった二人には、その言葉だけでも感極まった事だろう。
最終的には食器どころか空っぽになっていた鍋や他の調理器具まで綺麗に洗って見せたのである。
そして、洗い物が全てなくなった頃、日和とハールスが暖炉の前の居間で何やら話し合っている様子だった。
「ハールス様。洗い物が終わりました」
「……ました」
「お、丁度良かった。君達に一つ聞きたいことがあってね」
はて、と二人は首を傾げたが、内容は想像に難くないものだった。
「貴女達、何処か他に行く宛はあるのかしら?」
日和の言葉に、二人の背筋にピリリと悪寒が走る。
そんな所、有るはずがない。有るならむしろ教えて貰いたいぐらいだろう。
しかし、助けて貰ったとはいえ、ここに長居するのもどうなのだろうか。いや、助けて貰ったからこそ、迷惑を掛けるわけにはいかないのだ。
この家には既に三人の子供がいる。おまけにこれから一人増えようとしているのだ。子供が四人――自分達も含めて六人――も居て、どれだけの負担がかかるのかはまではわからないだろうが、直感的に自分達が邪魔であることは理解できる。
だが、屋敷に居た頃よりも、この家に居た方がずっと心地が良い。できることなら、ここに住まわせて貰いたい思いがあるのも確かなのだ。
そんな迷いからか、二人はカチンと固まってしまい、首を縦にも横にも触れない状態になっていた。
「……無さそうだね。それじゃあ、ハルキ。後はお前の言葉で言いなさい」
「う、うん。わかった」
ハールスに促され、ハルキが立ち上がった。そのままゆっくりとこちらに向かってくるも、どこか動きがギクシャクしていて、顔も薄っすら赤くなっているようにも見える。
そして大きく深呼吸をすると。
「ねえ、アキラちゃん、ミオちゃん。二人は、ここに居たい?」
「「え―――!?」」
驚きのあまり、二人の思考が瞬きの間だけ停止する。
それは二人にとって思いもよらない、いや、望んだ通りの提案であったのだ。
「そんな……ほ、本当に良いのですか!? だって、迷惑じゃないですか……?」
「私達は、ただ、家を追い出された、だけ。あなた、は、関系無い」
「……僕は別に構わないよ。だってさ、ほらその、困った時はお互い様って言うじゃん。僕、最初に二人を見たときからさ、なんだか放って置けなくて」
気恥ずかしそうにしながらも、ハルキの眼はしっかりと二人を見据えていた。
その眼を見て、アキラにあの時の記憶が蘇る。そう。あの時、あの雨の中で手を差し伸べてくれたのは確かに彼だった。死にかけていた彼女達を助けてくれたのは、他でもない彼なのだ。
しかし、何も誰からも求められたことのない彼女達には、やはり自分達が不要な存在だと思えて仕方がなかった。
「でも、やっぱり……」
「迷惑……」
「そんな事はないとも。さっきだって、家事を手伝ってくれたじゃないか。僕は仕事柄、引き籠ることが多くてね。それ以外のことは彼女に任せっぱなしなんだ」
「そうなのよね。それに今は私のお腹にこの子がいるから。この子が産まれても、それから子育てもしないと行けないし……。お手伝い手してくれるなら、大歓迎よ」
夫婦の言うそれはつまり、使用人としてならここに住んでも良い、と言っているのと同義だろう。行き場のない二人には選択肢などなく、ある意味以前のように強制されているとも言える。
逆に言えば、それは自分達が求められているということ。受け入れてくれたということでもある。
ハールスの優しさに満ちた笑顔、日和の温かい微笑み、そしてハルキの愛おしい瞳がそれを物語っていた。
人はこういうのを、所謂『運命の出会い』って言うのかな。
まるで御伽噺のような展開だ。それとも、本当に御伽噺だと言ってしまおうか?
ともあれ、これで二人にも生きる理由が出来たわけだ。
何より、果たすべき大恩と尽くしたい相手が出来たことも大きいだろう。
気づくと二人の眼は潤いに溢れて、ポタポタと大粒の涙が床を濡らしていた。
「はい……ふつつかものですが、どうか……よろ、しく、お願いします……」
「うう……ありが、とう、本当に、あり、がとう……」
共に溢れる涙を自らの手で拭いながら、二人は感謝の言葉を述べた。
嗚咽でしゃくりあげてしまって言葉になっていないが、その気持ちは確かに彼らに伝わったことだろう。
むしろ、わんわんと大声で泣き出す二人の姿を見て、ハルキが慌てふためいて騒ぎだす始末である。
「ニ人とも、ちょっとこっちへいらっしゃい」
日和にそう言われ、アキラとミオは泣きながらも彼女の元へと向った。
すると突然、ぎゅっ、と二人は抱きしめられた。
「とても、とても辛かったでしょう。今までの事、全部とは言わないけれど、もう忘れて良いの。いえ、忘れなさい。これから、私達といっぱい楽しい事をしましょう」
それは暖かい、本当に暖かい抱擁であった。忘れていた、懐かしい母親の抱擁であった。
アキラにとっては、もう顔も覚えてない母の抱擁。
ミオにとっては、ただ冷たいだけだった母の抱擁。
ほんの一瞬の一時ではあったが、二人はその温もりを堪能した―――はずなのだが、どういうわけか、彼の手の温もりと比べると物足りない気がしていたのである。
「これからよろしくね! アキラちゃん! ミオちゃん!」
背中からハルキが名前を呼ぶ。そのことにこの上ない喜びを感じていた二人だったが、同時にもっと親しく呼んで欲しいという願いも出来た。これから末永く共に居られることを信じて。
そこで二人は彼に向き直り、若干恥ずかしがりながらもこう告げた。
「あの、えっと。その、お願いがあります」
「な、何?」
「その……私の事は名前だけで呼んでくれませんか?」
「名前だけ……?」
「ん……私も。お願い、したい」
ハルキには彼女達のその意図は伝わらなかったが、二人がそう言うならと思い、彼もまた若干の恥ずかしさを見せながらも、試しに呼んでみることにした。
「えっと、“アキラ”…と“ミオ”……?」
そうすると二人は大きく眼を見開いて。
「―――はい!よろしくお願いします!ご主人様!」
「……ん。よろしく。ご主人様!」
何の前触れも無く、何の躊躇も無く、笑顔で彼をハルキを『ご主様』と呼んだ。
「……え? ご主人様……?」
「おやおや?」
「あらー?」
三人は各々の反応を見せながら揃って首を傾げた。
「えっとぉ……それって、僕のことだよね?」
「はい! ……あ、お気に召しませんでしたか?」
「うちの屋敷の使用人は、お父様のことをそう呼んでたけど……」
素直に答えるアキラとミオには、ハルキをからかおうという意図はなく、ただ純粋に彼を『ご主様』と呼びたいだけらしい。
戸惑うハルキの後ろでは、ハールスと日和がクスクスと笑い出していた。
「ご主様、ご主様かぁ! ははは、良いじゃないか! 好きに呼んであげなさい」
「ちょっ、父さん!?」
「うふふ、ごめんなさい。でも何だが可笑しくって。ふふ、ええ。アキラちゃん、ミオちゃん。これからハルキと仲良くしてあげてね」
「えっ、母さん!?」
あっさりと両親が自分の『ご主人様』呼びを許したことに愕然とするハルキだったが、直ぐそこではキラキラと眼を輝かせる二人の姿があると思うと、一つ溜息をついて。
「あー、えっと、じゃあ、よろしく?」
「「はいっ!」」